2011年3月3日木曜日

三月三日はひな祭り、そして母の誕生日

 三月三日は雛祭りです。そして母の誕生日でもあります。昨年は、ショートステー先の老人介護保険施設にいました。母と私と作業療法士さんの三人で、一生懸命にリハビリに励んでいました。母は在宅が希望で、家で生活する為にはリハビリが欠かせないという事が、自分でも良く分かっていました。作業療法士さんも、「お母さんのようにリハビリをされる方は珍しい。」と言われていました。おかげで、悪い方の足をかばって、良い方の足に魚の目ができました。我慢強い母は、我慢が過ぎて悪化させ、切開しなければいけませんでした。なかなか傷口が良くならず、おかげでリハビリがあまり出来なくなって、足腰が弱るという悪循環でした。でも、リハビリをしている時は、「家に帰るぞ、生きるぞ。」という気迫が、目の輝きで良く分かりました。
 リハビリが終わると母は、作業療法士さんや看護師さんに「今日は私の誕生日です。85歳になりました。」と嬉しそうに話していました。看護師さんが「お雛祭りが誕生日ですか。いいですね。」と言われました。母はニヤッと笑ってハニカンデいました。私は家に帰る時間が来たので、母を車いすでトイレに連れて行き、小便をさせて、入所者の皆さんが居るラウンジに母を連れて行きました。
 この別れの時が、私には一番辛い時でもありました。「そいじゃ帰るよ。バイバイ。」と手を振ると、母は何度も淋しそうに手を振ります。心細くて自信なさそうな顔をしてです。母は痴呆は無いのですが、老人性の鬱で不安症だから、家に居る時は私が側にいないと駄目なのです。それが分かっているだけに余計に辛かったです。
 あくる日は、お風呂の日で、何時もよりも早く施設に行きました。すると、看護師さんがかけよって来て、「お母さんが、お風呂に入っている時に気分が悪くなられて、今お部屋で寝ていらっしゃいます。」と言われました。私は直ぐに母の部屋に行きました。母の顔は真っ青で生汗をかいているようでした。看護師さんが、「もうだいぶん落ち着かれました。急にお腹が痛いと言われましたので、直ぐにお風呂からあがってもらいました。たぶん便秘のせいかもしれません。浣腸をして便が出たので、もう大丈夫だと思います。」と言われました。私が母に「どげんね。」と聞くと、母は「だいぶん良くなった。」と小さな声で言いました。私の顔を見て安心したのかもしれません。
 私は、母の便秘の事は前々から注意していました。父方の大叔母が、便秘が元で手術をして、亡くなったからです。家にいる時には、薬で調節したり、肛門の近くをマッサージしたりして、二・三日おきには必ず出すようにしていましたが、母の体調のせいで、家に居るよりは、施設に居る方が長くなり、排便の調節がなかなか上手くいっていませんでした。施設に居る時は、施設のルールもありますし、二十四時間付き添う訳にもいきませんし、なかなか難しい問題でした。私は母に、「今日は何もせんで、一日寝とかんね。」と言いました。母は力なくうなづきました。
 それから一時間ぐらいして、だいぶん落ち着いて来たようなので、私は母に「何時ものおやつば食べるね。(リンゴをミキサーにかけて、トロメリンという凝固剤でムース状にした物)」と聞きました。母が「食べる。」と言ったので、ベットから起こして食べさせました。私が「美味しかね。」と聞くと、母は「美味しか。」と言ってくれました。私も母の様子を見て、一安心しました。私は母に「そんなら、また寝とかんね。」と言って、また寝かせつけました。
 それからしばらく時間が過ぎて、何時もの帰る時間がきました。私は母に「体の調子はどげんね。お腹は痛かね。」と聞くと、母は「前よりも良かばってん、まだちょっといかん。」と言いました。私はそれから一時間位、母の側に居たのですが、看護師さんが「もう、帰られても大丈夫ですよ。私たちが付いているし、本院には先生もおられますし…」と言われたので、私は母に「もう帰ってもよかね。」と聞きました。母は不安そうな顔で、小さく「よかよ。」と言いました。私はその言葉を信じて、後ろ髪を引かれる想いで家に帰りました。
 その日の夜は、胸騒ぎがしてなかなか寝付かれませんでした。すると明け方五時に、電話の音が鳴り響きました。私は飛び起きて電話を取りました。すると当直の看護師さんからでした。「お母さんが、心肺停止になられました。直ぐに来て下さい…」私は電話を切ると、兄たちに連絡して、直ぐに車に飛び乗りました。まだ外は暗く、不安が増しました。私は車の中で叫び続けました。「お母さん…お母さん…逝ったらいかんよ…逝ったらいかん…」と気が狂いそうでした。
 施設に着くと、母はナースステーションの前の広いラウンジにベットごと連れて来られて、そこで蘇生処置を受けていました。私は母の耳元により、大声で「お母さん…お母さん…」と呼び続けました。程なくして、兄たちも駆けつけてきました。兄たちも心配そうな顔で、母の蘇生を見ていました。まだ母の手足は暖かく、私には何が何だか分かりませんでした。お腹を触ると、お腹がパンパンに膨れ上がっていました。私は「どうして…どうして、こんなにお腹が膨れていると…お母さん…お母さん…」と叫び続けました。冷静になって考えれば、蘇生処置の影響でそうなっているのだと分かるのでしょうが、その時の私にはそれが出来ませんでした。
 そんな様子を見てか、下の兄が先生に「蘇生処置はもうどれ位されていますか…」と聞いていました。そして、「もう駄目よ。おふくろば楽にさせてやろう…」と言いました。私は、仕方なくそれに同意しました。先生が、「だいぶん良くなってきたから、少しづつ家で生活をする時間を長くしようね。」と言われた矢先の事でした。まさか、こんな事になるとは夢にも思っていませんでした。三月五日の午前五時五十分でした。
 実を言うと、この日のあくる日(三月六日)に、父の三十三回忌の法要をする予定でした。しかし、私は母の体調も考えて、母が二月の月末に家に帰って来た時に、「お母さんが法要に出席するとは大変やから、帰って来ている間にお墓参りだけでもしておこうか…」と言って、母の納得のうえでお墓参りをさせて置きました。だから、父が母を呼びに来たのかなとも思いました。私と母は何時も喧嘩ばかりしていました。でも、私は私なりに、一生懸命に母の介護をしたつもりです。母も、家の玄関のスロープを車いすで昇り降りする時などは、決して施設の人にはさせず「他の人がすると恐いけん、あんたがせんね。」と言って、誰よりも私の事を信頼していたと思います。ただ、一つだけ心残りがあります。看護師さんが「もう大丈夫ですよ」と言われた時に「本院でCTを撮って下さい。」となぜ言わなかったのか…CTさえ撮っておけば…という気持ちが心の中を駆け巡っています。
 あれから一年が過ぎました。あっという間でした。まだ、茶の間の母の指定席だったテーブルや寝室の破れた襖(母が夜中にひとりで起きて、倒れて突き破った襖)も全てがそのままです。母がいつ戻って来ても直ぐに生活が出来ます。しかし、母はもう戻って来ません。
 ありがとう、お母さん。
娘より

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