2016年9月12日月曜日

筑紫の磐井

筑紫の磐井

 この本の帯には、次のように書かれている。
 六世紀の初め、北部九州八女の地に巨大な岩戸山古墳を築いた大王がいた。風雲急を告げる朝鮮半島をめぐり、大和の大王・継体に仕掛けられた戦いを有利に導きながらも、人々の平和を願い、その身を引いた筑紫の大王・磐井の偉大な生涯を描く。
新泉社
著者紹介
太郎良盛幸(たろうら・もりゆき)
1945年 福岡県八女郡矢部村生まれ、八女市在住
1968年 熊本大学教育学部社会科卒業
1968年~1999年 福岡県立浮羽東・八女・久留米農芸(久留米筑水)・黒木高等学校社会科教諭
1999年~2006年 福岡県立福島高等学校定時制・黒木・三池工業高等学校教頭・校長
2006年 福岡県立三池工業高等学校退職
2007年~2009年 岩戸山歴史資料館館長
2009年より日本経済大学教授
著作 「八女電照菊の産地形成」「福岡県の農業」(光文館)、「角川地名大辞典40福岡」(角川書店)、「福岡県百科事典」(西日本新聞社)に一部執筆、「九州の南朝」(新泉社)

装画・挿絵
青沼茜雲(あおぬま・せいうん)
1935年 福岡県久留米市生まれ、アトリエを八女郡広川町におく
フランス・サロン・ドトンヌ会員、ノルウェーノーベル財団認定作家、世界芸術遺産認定作家、日展所属。1992年の国際芸術文化賞受賞をはじめとし、21世紀芸術宝冠賞、フランス・美の革命展グランプリ、ニューヨーク芸術大賞など数多くの賞を受賞。
20121月、フランス芸術最高勲章受賞。6月、イギリスロンドンオリンピック記念展金賞受賞。

 著者は、あとがきに次のように書いている。
 昨年(二〇〇七年)五月より縁あって、私は岩戸山歴史資料館に勤務することになった。
岩戸山歴史資料館は、古代の英傑磐井が精魂を傾けて築造した岩戸山古墳出土の石人・石馬等々の石像物を中心に八女古墳群出土の遺物を展示している。
私は、高校社会科の教諭として三十年間教鞭をとっていたが、専門が地理であったこともあって、磐井を日本史の授業で扱う機会はあっても、少しだけ磐井をひいきめに解説するだけで、教科書の記述以上に深く追うことはなかった。しかし、資料館に勤務するようになり、岩戸山古墳をはじめ人形原・長い峰と呼ばれた八女丘陵上の古墳群をより深く学んでみると、あらためて磐井の偉大さがわかってきた。そして岩戸山古墳および歴史資料館の存在を広く多くの方々に知っていただきたいと考えるようになった。
そこで、学芸員でもなく門外漢ではあるが、私なりに『古事記』『日本書紀』『風土記』『三国史記』などの各種の文献から継体・磐井戦争の真相、当時の半島情勢などを読み解き、それを多くの方々に読んでいただくため、史実に合わせた小説とすることにした。
小説では、継体・磐井戦争の発端となった磐井による大和王権新羅遠征軍の阻止の真相、大和王権による百済への伽耶諸国(任那の四県)割譲の意味などを当時の半島情勢も参考にしながら検証し、磐井の実像に迫ることにした。人物名は、『日本書紀』などの文献に出ている名前以外は、極力その人物の出身地をあてた。
『筑後国風土記』逸文によれば、磐井は岩戸山古墳に衙頭という別区を造り、「解部」と呼ばれる行政官に見立てた石人を立て、裁判の様子を後世に残そうとしたとされる。このことから磐井はすでに法律をつくっていたのではないかとも考えられ、磐井の先進性をうかがうことができる。また、磐井は地理的にも近い半島情勢を大和王権以上に正しく把握しており、大和王権の百済一辺倒の半島政策とは相容れなかったと判断される。
館を訪れてくださる方々や「岩戸山古墳及び乗場古墳を守る会」に結集されておられる方々の大半が、磐井を反逆者とする見方には疑問を持たれている。
この小説を通して、進取の気性にとんだ英傑磐井を正しく理解いただければと思う……

筑紫の磐井を読んで思うこと

 筑紫の磐井と言えば、日本の古代史における最大の反乱の主人公。学校では磐井の乱(527528年)として、九州の豪族、筑紫の君・磐井が、大和王権に反乱を起こしたとしか習っていないような気がするのだが、この小説によると、筑紫連合王国と大和王権の外交方針の違いが原因のようだ。
 高句麗が南下し、弾き出された百済が伽耶に侵攻、伽耶に権益の有った大和王権に対して、伽耶四県の平和的割譲(513年)を求めた。大和王権はそれを認めたのだが、伽耶の豪族たちは大和王権に不満を抱き、新羅に接近して行く。新羅と百済の板挟みになって、困ったのが筑紫連合王国だった。実は、磐井の父は、新羅に留学の経験があった。そして母は、新羅の智証王の妹だった。百済に傾斜してゆく大和王権に、磐井は不信感を持たざるを得なかった。
 大和王権の百済傾斜には、付箋があった。二十五代武烈天皇には、後継ぎが無く、十五代応神天皇の五世孫である男大迹(おおど)王が即位し、二十六代継体天皇と成ったのだが、継体天皇は二十年近く大和入りすることが出来なかった。百済系の大和の有力豪族たちが反対したからである。大和権が百済に傾斜しなければならない理由が、ここにあったのである。
 526年、継体天皇が大和入りすると、翌年、大和王権は新羅征伐の為に兵を出すのだが、そこで立ちはだかったのが筑紫の磐井だった。一年半の長期戦となったのだが、善戦虚しく、磐井は破れてしまった。磐井は譲位し、息子の葛子に大王の座を譲ると、筑紫連合王国に属する豊の国の山奥に消えて行った。しかし、この善戦によって和議が整い、糟屋の港を大和王権に渡すだけで、その他の筑紫の領地は安堵された。
 その後、大和王権は半島政策に失敗し、562年半島における足場を失った。それ以後も百済との関係は続くのだが、磐井との戦いから135年後の663年、白村江の戦の敗戦により、半島政策を変える事になる。

 私は、この本を読んで、歴史とは、書く者によって変わるのだなと思った。一般的に中央(継体天皇)から見た歴史は知られているが、地方(筑紫の君・磐井)から見た歴史は知られていない。この時代、地方から見ると、大和の中央集権化は進んでおらず、ゆるやかに結ばれていた連合政権の長が、大和王権の大王(天皇)だったのかも知れない。
日本列島には、百済系だけでなく、新羅系や高句麗系が点在し、絡み合い、外交を複雑にしていたのではと…そして、現在の教科書で流動的な任那の日本府は、実在していたと思う。なぜなら、もし任那の日本府が実在しなかったら、磐井の乱が日本史から消えるかも知れないと思ったからである。少なくとも朝鮮半島の南部には、大和の権益が及んでいたはずだ。それにしても、当時の東アジアは、現在にも劣らぬほどの外交と紛争が繰り広げられていたのだなと思った。
 ところで、岩戸山古墳(八女市)から遠く離れた筑紫野市原田の筑紫神社のことは詳しく書かれていたのだが、隣の久留米市にある高良大社(高良玉垂の命)については書かれていなかった。かろうじて、磐井の乱に際して、高良山に陣地を置いたと書かれていた。

 確かに、高良山の中腹にある高良大社から見下ろすと、筑紫平野が一望できる。大河(筑後川)が、筑紫平野を二つに切り裂き、まるで天守閣から見た外堀のようにも見える。神功皇后や応神天皇もこの地に陣を置いたと聞く。だが、この地には、何らかの権力も集積していたと聞くのだが…せめて、筑紫連合王国会議を持ち回りにせず、地理的に中心所在地である高良大社で開催したことにしてほしかった。八女出身の人が書くとこうなるのだなと思った。

2016年8月3日水曜日

勝手に古代史

 ふと日本の古代史に興味がわき、何冊かの本を読んでみた。もちろん普及本なのだが、学生時代には習わなかった事が分かって興味深かった。そして幾つかの疑問もわいて来た。

 日本の古代史と言えば邪馬台国論争。代表的なものは近畿説と九州説なのだが、邪馬台国が何処にあったかを知るためには、魏志倭人伝を読まなければならない。漢文を読めない私には縁遠い物だったのだが、全文を現代語訳されたものが別冊宝島の「邪馬台国と卑弥呼」と言う本に掲載されていた。
 魏志倭人伝には、朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの行程が詳しく掲載されている。それによると対馬国・壱岐国・松盧国(唐津市)・伊都国(糸島市)・奴国(福岡市)までは現在の所在地が確定しているのだが、それ以降は確定していない。魏志倭人伝どおり行けば、邪馬台国は九州を通り抜けて東シナ海や南シナ海の島国という事になる。これは有り得ない事なので、九州説では魏志倭人伝に書かれている距離が間違っていると主張するのに対して、近畿説では方角が間違っていると主張している。
 現在は近畿説が有力のようだ。確かに魏志倭人伝には、松盧国から東南に五百里で伊都国、伊都国から東南に百里で奴国と書かれているのだが、現代の地図を見てみると福岡市は唐津市の東北にあり方角が間違っている。このくらい誤差の内と言われれば、私には反論できるだけの知識が無い。ただ、魏志倭人伝は三世紀の日本を書いたもの、日本の紀元をどう捉えるのかでも考え方が変わるのではないかと思う。
 今年(平成28年・2016年)は、紀元2676年である。つまり紀元前七世紀に神武天皇が日本を建国したと言われている。実際の年代は、もっと下るにしても、魏志倭人伝の三世紀よりはさかのぼるに違いない。元来、北部九州の遺跡は、縄文晩期から古墳時代までが集積していて、甕棺の様な近畿には無い物が発掘される。この事は、北部九州には、近畿よりも古くから、政権が根付いていた証ではなかろうか。(後漢書によれば、建武中元二年(西暦57年)後漢の光武帝によって倭奴国が冊封され金印を授与されているのが、日本で最も古い歴史的事実だ。)
記紀によると神武天皇は、日向から筑紫、そして近畿へ東征したと書かれている。もともと九州にあった政権が、近畿に移ったとも考えられる。邪馬台国が大和朝廷へとつながるのならば、やはり近畿説が有力の様な気がする。

邪馬台国と言えば女王卑弥呼が有名なのだが、日本の古代史に置いて卑弥呼が誰なのかは解明されていない。私は天照大御神が卑弥呼とばかり思っていたのだが、別冊宝島「日本の古代史」には、次のように書いてある。
卑弥呼と考えられている五人の女性たち
天照大御神
「古事記」「日本書紀」に登場する女神。イザナギの(みそぎ)から生まれた、高天原を統治する太陽神。「邪馬台国九州説」の日本史学者・安本美典が歴代天皇の即位期間から推測し、「卑弥呼の時代は神武東征以降」であり、「日の巫女であった卑弥呼」はアマテラスだと提唱。
倭迹迹(やまととと)日百襲媛(ひももそひめの)(みこと)
第七代孝霊天皇の皇女。「古事記」では、オオクニヌシの国作りを支えたオオモノヌシの妻となった巫女。その墓とされる奈良県桜井市の箸墓の後円部分が直径150メートルであることと、「魏志倭人伝」の「卑弥呼の死後、径百余歩の墓が作られた」という記述が一致するとして、考古学者・笠井新也が比定した。
(やまと)(ひめの)(みこと)
第十一代(すい)(にん)天皇の皇女で、ヤマトタケルの叔母。ヤマトタケルの東西遠征時に草薙剣などを授けた人物。伊勢神宮の創始に関わり、斎王を務めた。「邪馬台国畿内説」のもと、卑弥呼と定される。卑弥呼も倭姫命も神に仕える立場であったことに由来している。
神功皇后
第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、第十五代応神天皇の生母。仲哀天皇亡き後、国の実権を69年間握った。「日本書紀」では、天皇以外の人物では唯一、一巻を割いて「神功皇后紀」として綴られている。これは「日本書紀」の編纂者が神功皇后を卑弥呼だと仮説したためとされている。
熊襲の女酋
記紀神話に登場する、九州の反王権勢力「熊襲」の女性首長。江戸時代の国学者・本居宣長が、「ヤマト王権に対抗するべく、熊襲の女酋が勝手に倭王を名乗り、魏に遣いを送った」と提唱。よって、卑弥呼は熊襲の女酋であり、さらにその勢力を制圧したのは神功皇后であるとも主張した(「邪馬台国偽僣(ぎせん)説」)。

卑弥呼は誰だったのか?…八世紀(記紀の書かれた時代)からすでに論争が開始されていたようだ。
30もの服属国を持つ邪馬台国の女王として君臨していた卑弥呼であるが、不思議な事に「古事記」や「日本書紀」など正史と呼ばれる日本の史書にはほとんど記述がない。
わずかに「日本書紀」の神功皇后39年の条の分註として「明帝景初三年六月、倭の女王が大夫の難升(なし)()を遣わし、郡に至り、天子に詣でて朝献することを求め、太子(りゅう)()は役人をつけ使者を都へ送った」など魏志倭人伝からの引用が見られるだけである。神功皇后の条には他に二度倭人伝から引用していることから、「日本書紀」の編纂者は、神功皇后が卑弥呼と考えていた可能性が高い。(別冊宝島日本の古代史より)
神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后で、第15代応神天皇の生母である。朝鮮半島(高句麗・百済・新羅)遠征を成功させた人でもある。よって、神功皇后の活動した年代を推定するには、朝鮮半島における日本の皇室のカウンターパートナーの活動した年代を史書から見つけ出せばいい。
『古事記』では、応神天皇の治世に百済王照古王が馬1つがいと『論語』『千字文』を応神天皇に献上し、阿知吉師(あちきし)と和邇吉師(わにきし)を使者として日本に遣わしたとされている。この照古王のことを『日本書紀』では肖古王としていて、年代や系譜関係からみて近肖古王に比定されているが、古事記の照古王については第5代の肖古王とする説もある。『三国史記』百済本紀によると、それまで百済に文字はなかったが、近肖古王の時代に高興という人物がやってきて漢字を伝えたので、この時より百済に初めて「書き記すということ」が始まったという。つまり照古王を近肖古王とした場合、百済は初めて伝来したばかりの『論語』『千字文』をほぼ即時に日本に献上したことになる。
近肖(きんしょう)古王(こおう)百済13代王で、3469月に先代の(けい)(おう)薨去(こうきょ)し、王位を継いだ。倭国に対しても七支刀(作成は369年と考えられている)を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。在位30年にして37511月に死去した。(ウィキペディアより)
 魏志倭人伝には、景初三年(239年)から正始八年(247年)の間に、倭国から四度の朝貢があったと書かれている。つまり卑弥呼の時代と応神天皇の時代に百年以上の差が有り、生母である神功皇后とでは百年近くの差があるという事である。よって、神功皇后は卑弥呼ではないと証明できるのではなかろうか。
 魏志倭人伝には、もう一人、倭の女王が登場する。卑弥呼が亡くなると男王を立てたのだが、倭が乱れたので、再び女王として、十三歳になったばかりの卑弥呼の宗女壱与を立てると治まったとある。そして266年、倭の女王(壱与)が魏を滅ぼした晋に遣いを送ったという記述が『晋書』にある。
 私の勝手な解釈だが、天照大神は、初代神武天皇の御先祖様だから、時代がさかのぼり過ぎて、卑弥呼では有り得ない。熊襲の女酋が卑弥呼なら、邪馬台国に敵対する狗奴国はどこにあるのだろうか。鹿児島を通り越して海上にでもあると言うのだろうか。また、熊襲に30もの服属国があったとは聞いたことがない。有り得ない。(熊襲は熊本県人吉市周辺・鹿児島県霧島市周辺にあったと言われている。)よって、消去法によると倭迹迹日百襲命と倭姫命が残る事になる。安易な比定とは思うが、年代順から言えば、倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼ならば、倭姫命は壱与という事になる。

 ところで、邪馬台国は近畿あるいは九州で、ほぼ確定しているのだが、高天原は何処にあったのだろうか。高天原は神話の世界、空想にすぎないと言われればそれまでだが、簡単に納得していいのだろうか。誰か専門の先生に調べてもらいたいものだ。私の独断と偏見で、誤解を恐れずに、あえて言えば、あんがい朝鮮半島にあったのではと思う…
 天孫降臨の地は、日本人の誰もが日向の高千穂であったと思っている。しかし、宮崎県には、「高千穂の峰」が二つある。一つは、宮崎県北西部の高千穂町にある(くしふる)(たけ)。もう一つは、宮崎県と鹿児島県との県境にある霧島峰で、韓国(からくに)岳を主峰とする霧島火山群の一つ。この二つは、どちらも有力な候補地とされ、未だに決着がついていない。江戸時代の国学者・本居宣長は、どちらも決め難いとして、「高千穂移動説」を唱えている。(東西社 図解古事記・日本書紀より)ここで注目すべきは、南九州の山の名前に、なぜ韓の字がついているのかという事だ。また時代は八世紀と下るが、百済王族禎嘉王・福智王)る神社(神門神社・比木神社)も近くに創建されている。不思議な話だ。
 古事記によると、天孫降臨が行われる前に、高天原への出雲の国譲りが行われている。やはり、高天原が何処にあったのかが気になる。高天原からは、天の鳥船に乗って使者が出雲に来たそうだ。天の鳥船は、空を飛んで来たように書かれているが、実際は、海上交通にたけた部族だったのだろう。そして、出雲の首長・大国主命から六代さかのぼるとスサノオであり、スサノオは天照大御神の弟である。山陰の出雲と天孫降臨の地日向は、同族であることが分かる。この時代の海は、現代の高速道路の役割を果たしていたのではなかろうか。環日本海には、緩やかに結ばれた国、あるいは経済圏があったのではなかろうか。そして、それが倭国だったのではなかろうか。
 私が、こう思うようになったのは、韓流時代劇「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」を観てからだ。ヨンゲソムンは、高句麗末期の宰相なのだが、やたらと天孫族と言う言葉を発し、旗には三本足のカラスの紋章が描かれていた。三本足のカラスと言えば八咫(やた)(がらす)。八咫烏と言えば、日本サッカー協会のエンブレムに描かれている黒い鳥。そして、神武東征で道案内をしたのが八咫烏だ。八咫烏は太陽の化身とも言われているそうだ。
 韓流時代劇「朱蒙(ちゅもん)(高句麗初代王)」の最終回では、権力抗争に敗れた第二妃、実子の二人の王子沸流(ふつりゅう)温祚(おんそ)を引き連れて朝鮮半島を南下するところで終わる。百済神話によると、兄の沸流(ふつりゅう)は沿岸部に、弟の温祚(おんそ)漢山の地で(ウィ)()に都をおいた。兄の沸流は、湿気と塩害で体を崩し、弟の温祚に吸収され、温祚が百済の初代王となった。高句麗と百済は同族で、天孫族という事になる。沸流と温祚の兄弟は、何となく海幸彦と山幸彦に似ているようで、偶然が重なり過ぎている様な気もする
 『三国史記』新羅本紀によれば、新羅の初代王(朴(かく)(きょ)(せい))は倭人だったと記されている。それ以後も新羅の王統に倭人の血が混じっているようだ。逆に、朴赫居世の次男アメノヒボコは、倭国へ行き居住した。日本書紀では、アメノヒボコの子孫のうちの一人が、神功皇后だったと書かれている。
 済州島の三姓神話によると、最初に「高、梁、夫」の3つの姓を持った3人の神人がいて、東国の碧浪国(倭国とも言われている)から3人のが遣って来て、それぞれと結婚した。約900年後に皆の人望を集めた高氏を王として、初めて「タクラ」という王国が成立したとされている。また、朝鮮半島南部では、近年、前方後円墳などの日本の影響を受けた遺跡が発掘されているようだが、ここまで偶然が重なると、やはり、古代の環日本海には、ゆるやかな経済圏があったのではなかろうか。そしてそれが、倭国だったのではなかろうか。高天原が朝鮮半島にあったとしても突拍子な事ではないと思う。
 こんなことを書くと、韓流ドラマなんかを引き合いに出して、何を言い出すのだと、日韓両国の右派の方々にお叱りを受けるかも知れないが、歴史に政治を持ち込むべきではないと思う。私が学生のころ任那の日本府は、高校入試に必ず出る問題でした。それがいつしか、教科書から消え、伽耶となり、今また復活しているようです。韓国がうるさくて、せからしいという理由で消え、韓国に苛立ちを覚え、遠慮すべきではないという理由で復活したとしたら、歴史は学問ではないという事になります。政治を排除して、日韓の歴史学者が、膝を突き合わせて話し合うべきだと思うのですが…