2011年9月30日金曜日

四代目市川猿之助・九代目市川中車襲名に思うこと(香川照之の決意)

 テレビを見ていたら、市川亀治郎さんが、四代目市川猿之助を襲名するという会見が始まりました。私は直感的にスーパー歌舞伎の事を思い浮べました。三代目が病に倒れてから、スーパー歌舞伎の事が殆ど報道されなくなっていたからかもしれません。
 藤間紫さんがご健在の時は、紫さんの指導のもと、市川猿之助一門の弟子たちで受け継がれていたのですが、いつの間にか先細りして、最近では殆ど聞かなくなっていたからです。猿之助一門は殆どが世襲ではなく、試験を受けて歌舞伎役者になった人ばかりで、猿之助が舞台に立てなければそれも仕方のないこと…それで亀治郎さんが四代目を襲名して猿之助一門を盛りたてるのだろうと思いました。
 しかし、香川照之さんが会見に出席された事には驚きました。お母様の浜木綿子さんと猿之助さんが離婚されて、幼子の時から交流がないと伺っていたからです。その上、香川さんも、九代目市川中車を襲名、長男の政明君も五代目市川団子を襲名されるということでした。驚きでした。いくら大看板の俳優と言っても、そんなに簡単に歌舞伎役者に成れるのだろうか…しかも45歳という年齢…凄い事をするなと思いました。
 話を聞けば、物凄い決意を持っての事と受け取りました。
 「政明が生まれ、曾祖父、祖父、父の名の『政』をつけた時から、長男がいる以上、この船に乗らないわけにはいかない。乗らずに死ねないと思った…」
 「本当に素人で何も出来ません。ゼロからのスタートです。全ての歌舞伎俳優の皆さん、助けて下さい。」
 血への回帰というか、DNAがこう言わせたのでしょうか。大看板の俳優がなかなかこういう言葉は言えないと思いました。
 25歳のとき、猿之助さんに会いに行った際「今の僕とあなたとは関係ない…自分の力で一人前になりなさい…」と言われたそうです。初めて会いに行った父親にこう言われて、香川さんの気持ちを考えると、辛くて複雑なものだったと思います。しかし、猿之助さんにしてみれば、女の手で立派に育て上げた浜さんの存在に対して、こう言わざるを得なかったのかも知れません。20年後に、大看板に成った息子との和解…まるで花登筐の世界みたいでした。
 ご本人は「辛いことはなかった…45年、話もしなかったのに…ほんとかよ…映画みたいです…」と仰っていました。
 会見が終わると、そこに猿之助さんが現われました。脳梗塞の後遺症で体が思うように動かず、香川さんと亀治郎さんに支えられての登場でした。そして、回らない口で懸命に「隅から隅までずずずいっと、おん願い奉ります」と口上を言われました。普通の人なら無事に回復されたというべきなのでしょうが、役者としては到底そう言うことが出来ませんでした。
 猿之助さんは「浜さんありがとう。恩讐の彼方にありがとう…」と言われました。恩讐の彼方とは、菊池寛の名作で、父の仇を討つためにやっと見つけた敵が、僧に成り、里人の為に19年もかけてトンネルを掘り上げた姿を見て、仇を討つ事を辞めるという話ですが…恩讐の彼方にと言った以上、猿之助さんも自分の非を認められたことに成ります。
 そして、この会見の陰の主役は、浜木綿子さんではないでしょうか。
 離婚をして、女手一つで育てた息子が、別れた夫の面倒をみる。その上、歌舞伎の世界に入る…普通の感覚なら、息子を奪われたという気持ちに陥るのでしょうが…納得して息子を送り出しています。なかなか出来る事ではないと思います。
 浜さんは、「息子が選んだ道。彼の事を信じているし、見守っていこうと思います。」と言われています。また、三年ほど前に「父の面倒を見ようと思う。病気を治したい…」と、香川さんから言われたそうです。
 浜さんは「俳優として名前を大きくしたのに…歌舞伎の道に進む…何か思うことがあるのでしょうね…」と言われています。そして、香川さんが会見で「お母さん、ありがとう…」と言っていたことを知ると「面と向かって感謝の言葉を言われることはないしね…公の場で言うとは嬉しいじゃないですか…」と…顔には笑みがあっても、内心は複雑なものがあると思います。それでも、息子や孫の為に自分が折れる姿は、日本の母の愛を感じました。
 これからの澤瀉屋(おもだかや)の活躍が楽しみです。スーパー歌舞伎が復活するかもしれません。

追記

スポーツ報知インターネット(6月6日)

市川中車、涙の口上「生涯をかけて歌舞伎に精進していく」…「六月大歌舞伎」開幕

俳優の香川照之(46)が5日、東京・新橋演舞場で開幕した「六月大歌舞伎」(29日まで)で「市川中車」の名前で歌舞伎デビューした。初舞台を踏んだ長男の市川團子(8)、父の市川猿翁(72)、市川猿之助(36)とともに口上に並んだ中車は「生涯をかけて歌舞伎に精進していく所存でございます」とあいさつ。あらためて、今後は歌舞伎俳優として生きていくことを誓った。
「香川照之」として幾つもの大舞台を経験していても「市川中車」としての初舞台では緊張を隠せなかった。昼の部「小栗栖の長兵衛」が幕を開けて18分。花道から登場し、万雷の拍手を受けた中車は、すでに汗だくだった。
いきなり約3分の長ぜりふ。それを乗り越えると、安心感からか徐々に表情も柔らかになった。おかしみのある役に、観客からは笑いと「澤瀉(おもだか)屋!」「中車!」の掛け声が飛んだ。帝を演じた夜の部のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」では、3階席までスタンディングオベーションの中、カーテンコールに登場。猿翁、猿之助、團子らと手をつないで歓声に応えた。名実共に“澤瀉屋の一員”となった瞬間だった。
20年以上、俳優として活躍を続けてきた後に歌舞伎の道に入るという、前代未聞の挑戦。口上では、その苦しみ、困難を乗り越えて生きていく決意の言葉を絞り出した。「由緒のある大きな、大きな名前を、祖父、曽祖父の五十回忌で襲名させていただくのは誠にありがたく、感無量の思いでございます。この後は生涯をかけまして精進してまいりたいと思います」。喜びと使命感からか、目には涙を浮かべていた。
46歳でのデビューには、格別の思いがある。「『ヤマトタケル』の初演が86年、ちょうど父が46歳の時でございました。私は学生でして、きらびやかな絵巻物として、眺めていたように記憶しています」。それから26年、同じ年齢で歌舞伎の舞台を踏んだ。「まさか『ヤマトタケル』で初めて歌舞伎の舞台にお目見えできるとは…」と声を震わせた。
ただ、歌舞伎俳優として今後活動していく中で、中車の前に苦難の道が待ち構えているのは間違いない。「小栗栖―」では「人間の運というのは、分からないもんだぜ」というせりふがあるが、運だけではどうにもならないのが歌舞伎の世界。これまで以上の、血のにじむような努力が必要だ。
それでも、中車にめげる様子は全くない。「今後は生涯をかけて精進し、この名跡を継いで、名乗らせていただく責任を全うしていきたいと思います」。前だけを見て“第二の人生”をスタートさせた。
◆市川 中車(いちかわ・ちゅうしゃ)本名・香川照之。1965年12月7日、東京都生まれ。46歳。父は市川猿翁、母は女優の浜木綿子。東大文学部を卒業後の89年にNHK大河ドラマ「春日局」で俳優デビュー。2000年に出演した中国映画「鬼が来た!」が、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞し、注目を集める。06年の報知映画賞助演男優賞(対象作は「ゆれる」)ほか、受賞多数。熱狂的なボクシングファンとしても知られる。
特集 舞台・演劇
[2012/6/6-06:00 スポーツ報知]


追記

 NHKスペシャル香川照之密着300日(2013年1月6日)を見ました。俳優として大看板のプライドを捨てて、猿翁さんに教えを請う中車(香川)さん…不自由な言葉や体を使って、懸命に指導する猿翁さん…感動しました。
 民放のお昼のワイドショーなどでは、中車さんが稽古をしていない、する暇が無い、これで歌舞伎が出来るのだろうか等と囃し立てていましたが、立派に襲名興行をやり遂げられました。ご本人は、涙を流しながら猿翁さんにお礼を言われていました。さすがは大看板の役者さん、ジャンルは違っても基礎がしっかり出来あがっているので、稽古をしている間にも歌舞伎役者としての成長がうかがえました。まだまだこれからだと思いますが、頑張って欲しいと思いました。
 そんな中車さんに、猿翁さんは大きな役を与えました。この役を遣りきれば奇跡だと言いながらも、師匠と父親の顔を使い分けながら、中車さんを厳しく、そして暖かく見守っていました。その舞台が、正月興行として今行われているので、評価はこれからだと思いますが、奇跡が起きる事を祈ります。
 私が思うに、45歳での歌舞伎役者としてのデビューは、遅すぎるのかもしれませんが、体は不自由でも、猿翁さんが歌舞伎の指導が出来る体力をお持ちであった事が幸いだったと思いました。血の絆は、何物にも代えがたい大きな存在のような気がします。中車さんの努力次第では、猿翁さんが作り上げた猿之助歌舞伎を継承する事が出来るかもしれないと思いました。

2011年9月25日日曜日

陸上自衛隊幹部候補生学校周辺映像そしてウイニングラン

 その昔、私が喫茶店をしていた時、土日になると幹部候補生学校の学生さん達がよくお見えになりました。ご本人達は、私服を着ているので分からないと思っていらしたのでしょうが、見たらすぐに分かりました。髪は短髪で、肌は小麦色に日焼けして、背筋がピンと伸びている青年…理知的で、物静かなお客さんたちでした。そのうちに仲が良くなって、カウンターでお話をするようになった方もいました。
 どんなに仲が良くなっても、学生さん達は一年たてば全国に散らばって行かれます。中には教官として戻って来られた方もいらしたのですが、ほとんどの方とは二度とお会いすることがありませんでした。今は懐かしい思い出です。
 そんな人達の為に…そして、これから幹部候補生学校を目指す人達の為に映像アルバムを作ってみました。バックミュージックは、小坂恭子さんの「ウイニング・ラン」です。






 高良台演習場は、私が子供の時分は「はげちゃん山」と言っていました。山と言ってもそんなに高くはなく、丘と言った方が好いと思います。そして、文字通り木が生えていない丘でした。
小学校の遠足と言えば、はげちゃん山の一本松と決まっていました。その頃は、まだ演習場として、そんなに厳しく管理されていなかったように思います。
休みのときなどは、兄達に連れられて洞窟の探検をよくしました。「なんでこんなところに洞窟があるのだろう…不思議だ…」とか言って…。今考えてみると、戦時中に陸軍によって作られたのだろうと、容易に推測できるのですが…
 今、一本松や洞窟はどうなっているのかなと思うことがあります。



 左の写真は、久留米藩鋳造所跡の石碑です。髙牟礼市民センター(市役所の出張所)の敷地内にあります。
幕末にこの地で、からくり儀右衛門こと田中久重(東芝の創業者)が、アームストロング砲の試射をしていたそうです。すぐ近くには、陸上自衛隊幹部候補生学校(前川原駐屯地)や第四特科連隊(久留米駐屯地)があります。何か不思議な縁を感じます。




左の写真は、久留米大学医療センターです。
1994年行政改革によって、国立久留米病院が民間移転となり、久留米大学医療センターとなりました。この病院は、1945年以前は久留米陸軍病院としてこの地にありました。







左の写真は、JR久留米駅です。
写真の左側に写っているのは、田中久重(東芝創業者)が作った太鼓のからくり時計をモニュメントにした物です。一時間おきに、久留米出身の中村八大・松田聖子・チェッカーズ等の曲を聴くことが出来ます。
写真の右側に写っているのは、世界一大きなタイヤのモニュメントです。ブリヂストンから九州新幹線の開通を記念して贈られたものです。外国の鉱山などで使う超大型のダンプに使われているタイヤだそうです。
陸上自衛隊幹部候補生学校に行くには、JR久留米駅のバス乗り場から、3番青峰団地行きに乗車して、約40分で到着します。また、西鉄久留米駅バスセンターからは、約25分で到着します。
 飛行機で来られる場合は、福岡国際空港から地下鉄で天神まで行き、西鉄電車に乗車されるか、空港から直接高速バスで西鉄久留米駅バスセンターまで来られると便利です。

2011年9月9日金曜日

善徳女王(韓流時代劇)の最終回を見ました

①今日は一日胃の調子が悪くて何も出来ませんでした。ただ、善徳女王の最終回だけは見なければと思い、今見終わったところです。ピダムがユシンの手に掛かり、涙しながらじっと耐える女王。ずうっと守ってくれたアルチョンロウを上大等に任命し、愛し合って一緒になれなかったユシンに後を託しました。

②姉が暗殺された時にユシンロウと一緒に逃げていれば、女として幸せな一生を送れたのかもしれない。姉もそう願っていた。しかしトマンはミシェルを許せなかった。王に成る決意をした時に、ユシンロウとの別れは決まっていた。悲しい物語ですが誰かが遣らなければ、新羅王室の存亡にかかわる

③一緒に戦いぬいたユシンロウとアルチョンロウそしてトンマン。三人の絆だけが残った…ユシンと結婚出来たならどんなに幸せだった事か。女王の立場と女としての想い…孤独な思いをピダムが和らげてくれたのだが、個人の想いと派閥の想いは別物で、ピダムは派閥に騙され内乱となった。

④ピダムの想いはトマンに通じていたのに、ピダムはユシンロウやアルチョンロウのようにトマンを信じる事が出来ずに、自分が王に成ってトマンを手に入れようとした。そこがピダムの心の弱さだった。結局残ったのは、ご烙印と誰もが知らなかった頃から命をかけて戦った戦友のユシンロウとアルチョンロウ

⑤善徳女王はこうして新羅王室の安泰を成し遂げたのだが、心労が重なり病に伏してしまった。ユシンロウに看取られて…ユシンロウも心からトマンを愛していたのに…悲しい物語でした。今まで見た韓流の中ではチャングムと甲乙付け難い最高の作品でした。日本人に良く理解できる作品でした。

昨日、善徳女王の最終回を見ました。まだ、胸の中がもやもやしています。女王の立場と女としての想い…ピダムはトンマンと言いながら死んで行きました。夢の中で、西域から遣って来た子どもの自分に、試練を乗り越えて頑張りなさいと言う女王…去って行く子どもの自分に涙を流す女王たまりませんでした

 (ここまでは、95日にtwitterにツイートした原文です。)

 昨日、無料動画サイトで、もう一度最終回を見ました。何回見ても良かったです。
 つくづく、本当はユシンと結婚するのが一番よかったのにと思いました。唯でさえ、運命の荒波にもまれ続けたのに…姉さんが暗殺された時に、遺言どおりにユシンと二人で他国に逃げれば良かったのにと思いました。トンマンとしては、それが出来なかった。姉の仇と、自分と母の運命をズタズタにしたミシルを討って、女王の道を選んだことが、女としての人生を狂わせてしまいました。
こうなると分かっていたのに遣らざるを得ませんでした。姉の息子チュンチュンは、まだ幼く、王座に就くことは出来ない。自分が育てなければという想いがあったのだろうと思います。
 養母ソファやコクソンの考えは正しかった。ユシンがダメならせめてアルチョンロウに思いをぶつければ良かったのに、三人の中で一番心の弱いピダムの誘いに乗ってしまった。ピダムがいけないという訳ではないが、一番人間的過ぎたのでは…心を制御できずにトンマンを疑ってしまった。
王ではなく、公主のままだったらどれだけ楽だったろう。ユシンとの結婚も有りえた。あるいはピダム・アルチョンロウとの結婚も有りえた。
 王の立場と女の想い…悲劇でした。それを一番理解していたのがユシンロウとアルチョンロウだと思います。本当に悲劇でした。
 トンマンは、岩場の上からユシンロウと二人で景色を眺めていました。
 トンマンは、新羅に来て、最初から最後までユシンロウが側にいて、力添えしてくれたことに感謝します。そして、三韓統一の夢をユシンロウに託します。ユシンロウも確りと受け止めます。
トンマンはユシンロウに、「夢で子供の自分に会った女性の顔を思い出したと言います。」ユシンロウは、それが誰かを聞こうとしますが、トンマンは、はぐらかします。
 そしてトンマンは、ユシンロウに「以前二人で逃げようとしたことを覚えているか…今からでも逃げるか…」と聞きます。しかしユシンロウは「気恥ずかしゅうございます…」と言って、逃げるとは言えなかった。
 すると直後に、トンマンは涙を流しながら息を引き取ります。たとえ、ユシンロウにも立場があるとしてもトンマンは、ユシンロウから「はい」という言葉を聞きたかったのだと思います。ユシンロウも、言えるものなら「はい」と言いたかったと思います。
 トンマンは、ユシンロウが自分と逃げると答えてくれたら、夢の中の女性は自分だったと言ったと思います。しかし、ユシンロウは逃げると言えなかった。そんなユシンロウに、夢の中の女性は自分だったと言ったら、ユシンロウに重荷を背負わすことになる…だから何も言わずに死んでいったのだと思います。ただ、ユシンロウに看取られたことだけが救いでした。
 時は過ぎて、アルチョンロウは上大等を辞して、善徳女王の墓守をしていました。そこに、百済との戦に勝ったユシンロウが遣って来ます。アルチョンロウは、「トンマンの墓に向かって、陛下、ユシンロウが百済を征服しました。後は高句麗だけです…」と言います。三人の絆は確りと結ばれていました。
 最後に、夢の中の女性(善徳女王)が現われて、子どもの自分を抱きしめます。別れ際に、子供の自分を見つめて「……これからあなたには、いろんな苦しい事があるけれど…耐えるのよ…耐え抜くのよ」と言います。涙を流しながら…

 良い物語でした。日本人の私にも良く分かる物語でした。これが日本の物語なら、あそこが史実と違うとか言うのかもしれませんが、新羅の物語ですから…あまり古代の歴史を知らなかったから良かったのかもしれません。
 日本人は、どうしても歴史という前提を大事にしたがります。たとえ、フィクションであっても、歴史の流れに反することは嫌います。しかし、その歴史を知らないということは、歴史の呪縛から解き放されて、純粋にエンターテイメントとしてとらえることが出来たのだと思います。本当にいい作品でした。

 また何時の日にか、改めて「善徳女王」について書きたいと思います。今日はこのへんで終わります。

2011年9月6日火曜日

筑後川そして久留米

 私の住む久留米市は、市町村施行時(188941日)からの市で、日本で最も伝統のある都市の一つです。筑後川流域最大の都市で、人口は30万人で、福岡県3位、九州で8位の都市で、九州では、県庁所在地以外では唯一の中核都市です。
 久留米市は、ゴム工業と医者、そして農業の町です。先人は久留米の事を「水と緑の人間都市」とか「テクノポリス」とか言っていましたが、私は「偉大なる田園都市」だと思っています。
 久留米市は、喜びも悲しみも筑後川と共に生きて来ました。その筑後川と久留米市を映像で紹介したいと思います。パソコン教室で習った技術で初めて作った作品です。決して上手ではありませんが、一生懸命に作りました。ご鑑賞下さい。


 動画は「あなたの空を翔びたい(筑後川そして久留米)です。これを見ると、筑後川と共に生きた久留米の歴史が、少しは分かるかもしれません。


 左の写真は、昭和28年(1953年)に筑後川が大洪水を起こした時の写真です。
 写真は、まだ木造だった、小森の橋が流され、橋の上に取り残された市民の映像です。
 左下の写真は、現在の小森の橋の映像です。流された後直ぐに鉄筋コンクリートで作られた物です。すぐそばには、久留米大学医学部の病棟や研究棟が立てられています。
 筑後川(筑紫次郎)は暴れ川でしたが、上流にダムを作ったり、堤防を補強したりして、昭和28年の大洪水以来、洪水は起きていません。