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2016年9月12日月曜日

筑紫の磐井

筑紫の磐井

 この本の帯には、次のように書かれている。
 六世紀の初め、北部九州八女の地に巨大な岩戸山古墳を築いた大王がいた。風雲急を告げる朝鮮半島をめぐり、大和の大王・継体に仕掛けられた戦いを有利に導きながらも、人々の平和を願い、その身を引いた筑紫の大王・磐井の偉大な生涯を描く。
新泉社
著者紹介
太郎良盛幸(たろうら・もりゆき)
1945年 福岡県八女郡矢部村生まれ、八女市在住
1968年 熊本大学教育学部社会科卒業
1968年~1999年 福岡県立浮羽東・八女・久留米農芸(久留米筑水)・黒木高等学校社会科教諭
1999年~2006年 福岡県立福島高等学校定時制・黒木・三池工業高等学校教頭・校長
2006年 福岡県立三池工業高等学校退職
2007年~2009年 岩戸山歴史資料館館長
2009年より日本経済大学教授
著作 「八女電照菊の産地形成」「福岡県の農業」(光文館)、「角川地名大辞典40福岡」(角川書店)、「福岡県百科事典」(西日本新聞社)に一部執筆、「九州の南朝」(新泉社)

装画・挿絵
青沼茜雲(あおぬま・せいうん)
1935年 福岡県久留米市生まれ、アトリエを八女郡広川町におく
フランス・サロン・ドトンヌ会員、ノルウェーノーベル財団認定作家、世界芸術遺産認定作家、日展所属。1992年の国際芸術文化賞受賞をはじめとし、21世紀芸術宝冠賞、フランス・美の革命展グランプリ、ニューヨーク芸術大賞など数多くの賞を受賞。
2012年1月、フランス芸術最高勲章受賞。6月、イギリスロンドンオリンピック記念展金賞受賞。

 著者は、あとがきに次のように書いている。
 昨年(二〇〇七年)五月より縁あって、私は岩戸山歴史資料館に勤務することになった。
岩戸山歴史資料館は、古代の英傑磐井が精魂を傾けて築造した岩戸山古墳出土の石人・石馬等々の石像物を中心に八女古墳群出土の遺物を展示している。
私は、高校社会科の教諭として三十年間教鞭をとっていたが、専門が地理であったこともあって、磐井を日本史の授業で扱う機会はあっても、少しだけ磐井をひいきめに解説するだけで、教科書の記述以上に深く追うことはなかった。しかし、資料館に勤務するようになり、岩戸山古墳をはじめ人形原・長い峰と呼ばれた八女丘陵上の古墳群をより深く学んでみると、あらためて磐井の偉大さがわかってきた。そして岩戸山古墳および歴史資料館の存在を広く多くの方々に知っていただきたいと考えるようになった。
そこで、学芸員でもなく門外漢ではあるが、私なりに『古事記』『日本書紀』『風土記』『三国史記』などの各種の文献から継体・磐井戦争の真相、当時の半島情勢などを読み解き、それを多くの方々に読んでいただくため、史実に合わせた小説とすることにした。
小説では、継体・磐井戦争の発端となった磐井による大和王権新羅遠征軍の阻止の真相、大和王権による百済への伽耶諸国(任那の四県)割譲の意味などを当時の半島情勢も参考にしながら検証し、磐井の実像に迫ることにした。人物名は、『日本書紀』などの文献に出ている名前以外は、極力その人物の出身地をあてた。
『筑後国風土記』逸文によれば、磐井は岩戸山古墳に衙頭という別区を造り、「解部」と呼ばれる行政官に見立てた石人を立て、裁判の様子を後世に残そうとしたとされる。このことから磐井はすでに法律をつくっていたのではないかとも考えられ、磐井の先進性をうかがうことができる。また、磐井は地理的にも近い半島情勢を大和王権以上に正しく把握しており、大和王権の百済一辺倒の半島政策とは相容れなかったと判断される。
館を訪れてくださる方々や「岩戸山古墳及び乗場古墳を守る会」に結集されておられる方々の大半が、磐井を反逆者とする見方には疑問を持たれている。
この小説を通して、進取の気性にとんだ英傑磐井を正しく理解いただければと思う……

筑紫の磐井を読んで思うこと

 筑紫の磐井と言えば、日本の古代史における最大の反乱の主人公。学校では磐井の乱(527-528年)として、九州の豪族、筑紫の君・磐井が、大和王権に反乱を起こしたとしか習っていないような気がするのだが、この小説によると、筑紫連合王国と大和王権の外交方針の違いが原因のようだ。
 高句麗が南下し、弾き出された百済が伽耶に侵攻、伽耶に権益の有った大和王権に対して、伽耶四県の平和的割譲(513年)を求めた。大和王権はそれを認めたのだが、伽耶の豪族たちは大和王権に不満を抱き、新羅に接近して行く。新羅と百済の板挟みになって、困ったのが筑紫連合王国だった。実は、磐井の父は、新羅に留学の経験があった。そして母は、新羅の智証王の妹だった。百済に傾斜してゆく大和王権に、磐井は不信感を持たざるを得なかった。
 大和王権の百済傾斜には、付箋があった。二十五代武烈天皇には、後継ぎが無く、十五代応神天皇の五世孫である男大迹(おおど)王が即位し、二十六代継体天皇と成ったのだが、継体天皇は二十年近く大和入りすることが出来なかった。百済系の大和の有力豪族たちが反対したからである。大和王権が百済に傾斜しなければならない理由が、ここにあったのである。
 526年、継体天皇が大和入りすると、翌年、大和王権は新羅征伐の為に兵を出すのだが、そこで立ちはだかったのが筑紫の磐井だった。一年半の長期戦となったのだが、善戦虚しく、磐井は破れてしまった。磐井は譲位し、息子の葛子に大王の座を譲ると、筑紫連合王国に属する豊の国の山奥に消えて行った。しかし、この善戦によって和議が整い、糟屋の港を大和王権に渡すだけで、その他の筑紫の領地は安堵された。
 その後、大和王権は半島政策に失敗し、562年半島における足場を失った。それ以後も百済との関係は続くのだが、磐井との戦いから135年後の663年、白村江の戦の敗戦により、半島政策を変える事になる。

 私は、この本を読んで、歴史とは、書く者によって変わるのだなと思った。一般的に中央(継体天皇)から見た歴史は知られているが、地方(筑紫の君・磐井)から見た歴史は知られていない。この時代、地方から見ると、大和の中央集権化は進んでおらず、ゆるやかに結ばれていた連合政権の長が、大和王権の大王(天皇)だったのかも知れない。
日本列島には、百済系だけでなく、新羅系や高句麗系が点在し、絡み合い、外交を複雑にしていたのではと…そして、現在の教科書で流動的な任那の日本府は、実在していたと思う。なぜなら、もし任那の日本府が実在しなかったら、磐井の乱が日本史から消えるかも知れないと思ったからである。少なくとも朝鮮半島の南部には、大和の権益が及んでいたはずだ。それにしても、当時の東アジアは、現在にも劣らぬほどの外交と紛争が繰り広げられていたのだなと思った。
 ところで、岩戸山古墳(八女市)から遠く離れた筑紫野市原田の筑紫神社のことは詳しく書かれていたのだが、隣の久留米市にある高良大社(高良玉垂の命)については書かれていなかった。かろうじて、磐井の乱に際して、高良山に陣地を置いたと書かれていた。

 確かに、高良山の中腹にある高良大社から見下ろすと、筑紫平野が一望できる。大河(筑後川)が、筑紫平野を二つに切り裂き、まるで天守閣から見た外堀のようにも見える。神功皇后や応神天皇もこの地に陣を置いたと聞く。だが、この地には、何らかの権力も集積していたと聞くのだが…せめて、筑紫連合王国会議を持ち回りにせず、地理的に中心所在地である高良大社で開催したことにしてほしかった。八女出身の人が書くとこうなるのだなと思った。

2016年8月3日水曜日

勝手に古代史

 ふと日本の古代史に興味がわき、何冊かの本を読んでみた。もちろん普及本なのだが、学生時代には習わなかった事が分かって興味深かった。そして幾つかの疑問もわいて来た。

 日本の古代史と言えば邪馬台国論争。代表的なものは近畿説と九州説なのだが、邪馬台国が何処にあったかを知るためには、魏志倭人伝を読まなければならない。漢文を読めない私には縁遠い物だったのだが、全文を現代語訳されたものが別冊宝島の「邪馬台国と卑弥呼」と言う本に掲載されていた。
 魏志倭人伝には、朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの行程が詳しく掲載されている。それによると対馬国・壱岐国・松盧国(唐津市)・伊都国(糸島市)・奴国(福岡市)までは現在の所在地が確定しているのだが、それ以降は確定していない。魏志倭人伝どおり行けば、邪馬台国は九州を通り抜けて東シナ海や南シナ海の島国という事になる。これは有り得ない事なので、九州説では魏志倭人伝に書かれている距離が間違っていると主張するのに対して、近畿説では方角が間違っていると主張している。
 現在は近畿説が有力のようだ。確かに魏志倭人伝には、松盧国から東南に五百里で伊都国、伊都国から東南に百里で奴国と書かれているのだが、現代の地図を見てみると福岡市は唐津市の東北にあり方角が間違っている。このくらい誤差の内と言われれば、私には反論できるだけの知識が無い。ただ、魏志倭人伝は三世紀の日本を書いたもの、日本の紀元をどう捉えるのかでも考え方が変わるのではないかと思う。
 今年(平成28年・2016年)は、紀元2676年である。つまり紀元前七世紀に神武天皇が日本を建国したと言われている。実際の年代は、もっと下るにしても、魏志倭人伝の三世紀よりはさかのぼるに違いない。元来、北部九州の遺跡は、縄文晩期から古墳時代までが集積していて、甕棺の様な近畿には無い物が発掘される。この事は、北部九州には、近畿よりも古くから、政権が根付いていた証ではなかろうか。(後漢書によれば、建武中元二年(西暦57年)後漢の光武帝によって倭奴国が冊封され金印を授与されているのが、日本で最も古い歴史的事実だ。)
記紀によると神武天皇は、日向から筑紫、そして近畿へ東征したと書かれている。もともと九州にあった政権が、近畿に移ったとも考えられる。邪馬台国が大和朝廷へとつながるのならば、やはり近畿説が有力の様な気がする。

邪馬台国と言えば女王卑弥呼が有名なのだが、日本の古代史に置いて卑弥呼が誰なのかは解明されていない。私は天照大御神が卑弥呼とばかり思っていたのだが、別冊宝島「日本の古代史」には、次のように書いてある。
卑弥呼と考えられている五人の女性たち
天照大御神
「古事記」「日本書紀」に登場する女神。イザナギの禊(みそぎ)から生まれた、高天原を統治する太陽神。「邪馬台国九州説」の日本史学者・安本美典が歴代天皇の即位期間から推測し、「卑弥呼の時代は神武東征以降」であり、「日の巫女であった卑弥呼」はアマテラスだと提唱。
倭迹迹(やまととと)日百襲媛(ひももそひめの)命(みこと)
第七代孝霊天皇の皇女。「古事記」では、オオクニヌシの国作りを支えたオオモノヌシの妻となった巫女。その墓とされる奈良県桜井市の箸墓の後円部分が直径150メートルであることと、「魏志倭人伝」の「卑弥呼の死後、径百余歩の墓が作られた」という記述が一致するとして、考古学者・笠井新也が比定した。
倭(やまと)姫(ひめの)命(みこと)
第十一代垂(すい)仁(にん)天皇の皇女で、ヤマトタケルの叔母。ヤマトタケルの東西遠征時に草薙剣などを授けた人物。伊勢神宮の創始に関わり、斎王を務めた。「邪馬台国畿内説」のもと、卑弥呼と比定される。卑弥呼も倭姫命も神に仕える立場であったことに由来している。
神功皇后
第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、第十五代応神天皇の生母。仲哀天皇亡き後、国の実権を69年間握った。「日本書紀」では、天皇以外の人物では唯一、一巻を割いて「神功皇后紀」として綴られている。これは「日本書紀」の編纂者が神功皇后を卑弥呼だと仮説したためとされている。
熊襲の女酋
記紀神話に登場する、九州の反王権勢力「熊襲」の女性首長。江戸時代の国学者・本居宣長が、「ヤマト王権に対抗するべく、熊襲の女酋が勝手に倭王を名乗り、魏に遣いを送った」と提唱。よって、卑弥呼は熊襲の女酋であり、さらにその勢力を制圧したのは神功皇后であるとも主張した(「邪馬台国偽僣(ぎせん)説」)。

卑弥呼は誰だったのか?…八世紀(記紀の書かれた時代)からすでに論争が開始されていたようだ。
30もの服属国を持つ邪馬台国の女王として君臨していた卑弥呼であるが、不思議な事に「古事記」や「日本書紀」など正史と呼ばれる日本の史書にはほとんど記述がない。
わずかに「日本書紀」の神功皇后39年の条の分註として「明帝景初三年六月、倭の女王が大夫の難升(なし)米(め)を遣わし、郡に至り、天子に詣でて朝献することを求め、太子劉(りゅう)夏(か)は役人をつけ使者を都へ送った」など魏志倭人伝からの引用が見られるだけである。神功皇后の条には他に二度倭人伝から引用していることから、「日本書紀」の編纂者は、神功皇后が卑弥呼と考えていた可能性が高い。(別冊宝島日本の古代史より)
神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后で、第15代応神天皇の生母である。朝鮮半島(高句麗・百済・新羅)遠征を成功させた人でもある。よって、神功皇后の活動した年代を推定するには、朝鮮半島における日本の皇室のカウンターパートナーの活動した年代を史書から見つけ出せばいい。
『古事記』では、応神天皇の治世に百済王照古王が馬1つがいと『論語』『千字文』を応神天皇に献上し、阿知吉師(あちきし)と和邇吉師(わにきし)を使者として日本に遣わしたとされている。この照古王のことを『日本書紀』では肖古王としていて、年代や系譜関係からみて近肖古王に比定されているが、古事記の照古王については第5代の肖古王とする説もある。『三国史記』百済本紀によると、それまで百済に文字はなかったが、近肖古王の時代に高興という人物がやってきて漢字を伝えたので、この時より百済に初めて「書き記すということ」が始まったという。つまり照古王を近肖古王とした場合、百済は初めて伝来したばかりの『論語』『千字文』をほぼ即時に日本に献上したことになる。
近肖(きんしょう)古王(こおう)は百済13代王で、346年9月に先代の契(けい)王(おう)が薨去(こうきょ)し、王位を継いだ。倭国に対しても七支刀(作成は369年と考えられている)を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。在位30年にして375年11月に死去した。(ウィキペディアより)
 魏志倭人伝には、景初三年(239年)から正始八年(247年)の間に、倭国から四度の朝貢があったと書かれている。つまり卑弥呼の時代と応神天皇の時代に百年以上の差が有り、生母である神功皇后とでは百年近くの差があるという事である。よって、神功皇后は卑弥呼ではないと証明できるのではなかろうか。
 魏志倭人伝には、もう一人、倭の女王が登場する。卑弥呼が亡くなると男王を立てたのだが、倭が乱れたので、再び女王として、十三歳になったばかりの卑弥呼の宗女壱与を立てると治まったとある。そして266年、倭の女王(壱与)が魏を滅ぼした晋に遣いを送ったという記述が『晋書』にある。
 私の勝手な解釈だが、天照大神は、初代神武天皇の御先祖様だから、時代がさかのぼり過ぎて、卑弥呼では有り得ない。熊襲の女酋が卑弥呼なら、邪馬台国に敵対する狗奴国はどこにあるのだろうか。鹿児島を通り越して海上にでもあると言うのだろうか。また、熊襲に30もの服属国があったとは聞いたことがない。有り得ない。(熊襲は熊本県人吉市周辺・鹿児島県霧島市周辺にあったと言われている。)よって、消去法によると倭迹迹日百襲媛命と倭姫命が残る事になる。安易な比定とは思うが、年代順から言えば、倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼ならば、倭姫命は壱与という事になる。

 ところで、邪馬台国は近畿あるいは九州で、ほぼ確定しているのだが、高天原は何処にあったのだろうか。高天原は神話の世界、空想にすぎないと言われればそれまでだが、簡単に納得していいのだろうか。誰か専門の先生に調べてもらいたいものだ。私の独断と偏見で、誤解を恐れずに、あえて言えば、あんがい朝鮮半島にあったのではと思う…
 天孫降臨の地は、日本人の誰もが日向の高千穂であったと思っている。しかし、宮崎県には、「高千穂の峰」が二つある。一つは、宮崎県北西部の高千穂町にある槵触(くしふる)嶽(たけ)。もう一つは、宮崎県と鹿児島県との県境にある霧島峰で、韓国(からくに)岳を主峰とする霧島火山群の一つ。この二つは、どちらも有力な候補地とされ、未だに決着がついていない。江戸時代の国学者・本居宣長は、どちらも決め難いとして、「高千穂移動説」を唱えている。(東西社 図解古事記・日本書紀より)ここで注目すべきは、南九州の山の名前に、なぜ韓の字がついているのかという事だ。また、時代は八世紀と下るが、百済王族(禎嘉王・福智王)を祀る神社(神門神社・比木神社)も近くに創建されている。不思議な話だ。
 古事記によると、天孫降臨が行われる前に、高天原への出雲の国譲りが行われている。やはり、高天原が何処にあったのかが気になる。高天原からは、天の鳥船に乗って使者が出雲に来たそうだ。天の鳥船は、空を飛んで来たように書かれているが、実際は、海上交通にたけた部族だったのだろう。そして、出雲の首長・大国主命から六代さかのぼるとスサノオであり、スサノオは天照大御神の弟である。山陰の出雲と天孫降臨の地日向は、同族であることが分かる。この時代の海は、現代の高速道路の役割を果たしていたのではなかろうか。環日本海には、緩やかに結ばれた国、あるいは経済圏があったのではなかろうか。そして、それが倭国だったのではなかろうか。
 私が、こう思うようになったのは、韓流時代劇「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」を観てからだ。ヨンゲソムンは、高句麗末期の宰相なのだが、やたらと天孫族と言う言葉を発し、旗には三本足のカラスの紋章が描かれていた。三本足のカラスと言えば八咫(やた)烏(がらす)。八咫烏と言えば、日本サッカー協会のエンブレムに描かれている黒い鳥。そして、神武東征で道案内をしたのが八咫烏だ。八咫烏は太陽の化身とも言われているそうだ。
 韓流時代劇「朱蒙(ちゅもん)(高句麗初代王)」の最終回では、権力抗争に敗れた第二妃が、実子の二人の王子(沸流(ふつりゅう)・温祚(おんそ))を引き連れて朝鮮半島を南下するところで終わる。百済神話によると、兄の沸流(ふつりゅう)は沿岸部に、弟の温祚(おんそ)は漢山の地で慰(ウィ)礼(レ)城に都をおいた。兄の沸流は、湿気と塩害で体を崩し、弟の温祚に吸収され、温祚が百済の初代王となった。高句麗と百済は同族で、天孫族という事になる。沸流と温祚の兄弟は、何となく海幸彦と山幸彦に似ているようで、偶然が重なり過ぎている様な気もする。
 『三国史記』新羅本紀によれば、新羅の初代王(朴赫(かく)居(きょ)世(せい))は倭人だったと記されている。それ以後も新羅の王統に倭人の血が混じっているようだ。逆に、朴赫居世の次男アメノヒボコは、倭国へ行き居住した。日本書紀では、アメノヒボコの子孫のうちの一人が、神功皇后だったと書かれている。
 済州島の三姓神話によると、最初に「高、梁、夫」の3つの姓を持った3人の神人がいて、東国の碧浪国(倭国とも言われている)から3人の姫が遣って来て、それぞれと結婚した。約900年後に皆の人望を集めた高氏を王として、初めて「タクラ」という王国が成立したとされている。また、朝鮮半島南部では、近年、前方後円墳などの日本の影響を受けた遺跡が発掘されているようだが、ここまで偶然が重なると、やはり、古代の環日本海には、ゆるやかな経済圏があったのではなかろうか。そしてそれが、倭国だったのではなかろうか。高天原が朝鮮半島にあったとしても突拍子な事ではないと思う。
 こんなことを書くと、韓流ドラマなんかを引き合いに出して、何を言い出すのだと、日韓両国の右派の方々にお叱りを受けるかも知れないが、歴史に政治を持ち込むべきではないと思う。私が学生のころ任那の日本府は、高校入試に必ず出る問題でした。それがいつしか、教科書から消え、伽耶となり、今また復活しているようです。韓国がうるさくて、せからしいという理由で消え、韓国に苛立ちを覚え、遠慮すべきではないという理由で復活したとしたら、歴史は学問ではないという事になります。政治を排除して、日韓の歴史学者が、膝を突き合わせて話し合うべきだと思うのですが…





2015年12月29日火曜日

「大地の子」の再放送を見て思うこと



「大地の子」の再放送を見て思うこと

 NHKBSのアンコールドラマ「大地の子」を録画で一気に見た。二十年前の作品とは思えない感動がよみがえってきた。さすがにモンテカルロ国際テレビ祭で最優秀作品賞を受賞し、国内では、平成七年度芸術作品賞を受賞しただけあって、日本にも中国にも偏らず、人間のすべての感情(恨み・妬み・差別・良心・親子隣人への愛情…)が描かれていたように思う。戦争とは惨いものだな、終わった後もこれだけの悲劇を残すのかと今更ながら感じた。しかし、二十年前に見た、断片的な記憶の映像と、いま視覚で捉えた映像が重なった時に、時代の世情の違いも感じ取った。途上国で援助を必要としていた中国が、改革開放で経済大国となり、尖閣諸島や南沙諸島では脅威となっている…韓国をも含めて、反日的思想にどのように対応すべきかと…

 原作者の山崎豊子さんが亡くなられて二年が過ぎ、今年(2015年)は、日本中が安全保障問題に明け暮れ、嫌韓・嫌中がはびこった。これはNHKの確信的再放送だったのかも知れない。もう一度冷静になって、戦争の悲惨さや戦前戦後の日本人の贖罪(しょくざい)について考えるべきではという…ならば、BSではなく地上波で再放送すべきではなかったかとも思う。

 聖書(マテオ第7章3節―5節)には次のように書いてある。
 「なぜ、兄弟の目にあるわらくずをみて、自分の目にある梁に気をとめないのか。また、自分の目に梁があるのに、なぜ、兄弟にむかって、あなたの目のわらくずを取らせてくれといえるのか。偽善者よ、まず、自分の目から梁をとり去るがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目のわらくずも取ることができよう。」

 しかし、これを実行することは、非常に難しいことのように思う。人と人との間では、まだできるかもしれない。失敗すれば自己責任で済むから…けれど、国と国との間では、誰が責任を取るのか。それは政府に決まっている。しかし政府は、国民の利益と安全を一番に考えなければならない。よって、確率の低いものに、国民の利益と安全を掛けることができない。国は奇跡を待ち望んではいけないということだ。ただ、政府を率いる者の心の片隅で、自国の目に梁があることを認識していれば、よりましな行動が取れるのかも知れない。

 戦後七十年、日中・日韓、それぞれに言い分はあると思う。どこかで妥協をしなければ関係改善は築けない。それとは別に、学者の歴史の真実の追及に、政治が圧力を掛けるべきではない。この問題は複雑で、なかなか解答が出ないように思う。ただ、毅然とした対応が必要だとも思う。事実の歪曲によって、偽りの歴史が定着するからである。

 ところで、陸一心役の上川隆也さん、実父松本耕次役の仲代達也さん、お二人とも若いですね…特に新人で主役に抜擢された上川さんの姿を見ると、当時、あの人は誰と世間が騒いだことを思い出しました。そして、名前の代わりに「大地の子」と呼ばれていました。物語のラスト近くで、製鉄所が完成し、二人だけで記念の三峡川下りの旅に出た時に、船上で実父が思い悩んで「日本に帰ってこないか…」と言うと、一心は、無償の愛で育ててくれた養父母の想いを捨てることができずに、涙を浮かべながら「私は大地の子です…」と言って中国残留を決意したシーンが、あまりにも感動的だったからかもしれません。この作品の好演によって、上川さんはスターへの階段を登られて行ったように思います。



仲代さんは言うまでもなく、当時すでに大スターでしたが、年月が流れ、今年、文化勲章を受章されました。親授式をテレビのニュースで拝見していたら、お姿が見えずに不思議に思っていたら、芝居の公演と重なって欠席されたとのことでした。役者の世界は、親の死に目にも会えない世界だとは聞いていましたが、栄えある日に、一役者として、地方の舞台に上がるというのも凄いですね…役者としての生き様を見たような気がしました。

2015年11月6日金曜日

祖父の獣魂供養塔

  火災で焼け落ちた屋根から陽が漏れ、今にも朽ち果てようとしている屠畜場跡(福岡県うきは市吉井町)の前に建つ苔むした獣魂供養塔。我が家の言い伝えでは、祖父の書が刻まれていると聞いていた。未だに供えられている花を見て、この供養塔は生きている。いつ取り崩されてもおかしくない供養塔に、思わず感謝の念が湧いてきた。

 事の始まりは、長兄の初盆にお供え物が四国の従兄弟から届いたことにある。従兄弟にお礼の電話をすると「定年前の最後の学会が久留米大学であるので、出席しようかと思うんだけど、お爺さんの書が刻まれている供養塔に案内してくれないか…長女として妹達に言い伝えておこうと思って…」と頼まれた。実を言うと私も行ったことがなかったので、少しためらっていると「石碑はあるんでしょう」と尋ねられた。私は思わず「あります。」と答えながらも、どうしようかと頭を巡らせていると、ふと次兄は、子供の頃、父のバイクの後ろに乗せられて、何度も行っていることを思い出し「私は行ったことがないけど、次兄は行った事があると思うので、聞いて見ます。」と言って電話を切った。

 次兄に電話をして、四国の従兄弟から頼まれたことを伝えると、少し間をおいて、ためらいがちに「おふくろの法事の時、吉井の叔父さん(父の従兄弟)から、屠畜場は火事になって放置されていると聞いたけど、供養塔は、まだあるだろうか……子供のころに何回か親父に連れられて行ったきりで、道も良く覚えてないしね…」と言った。そして「家のことは全て兄貴が仕切っていたから…俺は好く分からない…とにかくまだ先の話だから調べてみよう。供養塔が無くなっているにしても、家には爺じっちゃまの卒業証書とか、書類が残っていると聞いていたけど、探しておいてくれないか…主だった物をコピーしてやれば、もし供養塔が無くなっていても、気が済むかもしれないから…」と言った。
 こうして二人で祖父のことを調べることになるのだが、後に驚きの連続になることをまだ知る由もなかった。

 数日後、次兄がやって来て、爺ちゃまの書類等を「探した…」と聞かれた。
「ある場所は、だいたい分かっていたから、探してざっと目を通したけど、旧字体で私の国語力では解読できない部分が多かったけど…それにしても凄かよ…爺ちゃまが、頭が良かったとは聞いていたけど、あそこまでとは思わんやったよ。獣医学校の成績表が出て来てね。見たら主席で卒業してあった。それも一年から三年まで主席で、特待生授業料免除の書類が出て来たと…卒業の時は、副賞に和英大辞典をもらってあるみたい。」
 次兄は、驚いた様子で「へーそんなのが出て来た。何処にある…」と尋ねた。
 「押入れの中にある。見たら驚くよ。他にもいろいろあるから…」こう言いながら、二人して仏間の押入れへと向かった。

 押入れの襖を開けると、中には数年前に85歳で亡くなった母のタンスが置かれており、タンスの上に棚が作られている。私は棚の上に置かれている木箱を指差して「あの中に入っている。」と言うと、椅子を持って来て木箱を取りだした。
 木箱は杉材で出来ており、縦40cm横30cm深さ10cm、ふたの側面に未決、中箱の側面に既決と書いてあった。その昔、如何にも官庁で使われていたと思われる書類箱だった。
 次兄が「随分古めかしい箱やね。」と言いながらふたを開けると、ぎっしりと書類やノートが詰められていた。次兄は無造作に箱の端に筒状に丸めてあった紙を取り出して「これが卒業証書」と言いながら開いた。

 卒業証書は、卒業証明書と二枚重ねになっていたので、取り外そうとした時に、しわになっていた部分が少し破れてしまった。私は思わず「百年近く前の物やから、丁寧に扱わないと…」と言った。
 卒業証書には、大正十年三月二十六日の日付があり、祖父の生年が、明治三十年八月生と書かれていた。つまり、祖父が生きていれば118歳で、94年前に卒業したことになっている。
 次兄が「日本獣医学校となっているけど、大学じゃなかったと…」と聞いた。
 「私も獣医大学と聞いていたけど、専門学校みたいね。考えてみればこの当時の大学に、獣医学部みたいに細分化した学部は無かったろうしね…学生時代の写真を見ると角帽をかぶってあるから、何処かで言い伝えが間違ったのかも知れんね…」


 卒業証明書の方を見ると、紙質も大きさも卒業証書と同じもので、授業を受けた教授陣の名前や役職・位階などが細々と墨で書かれていた。
 「陸軍関係の人が多かね…」
 「この時代には、まだ騎兵隊があったろうしね…兵站にも牛馬が使われていたろうし…陸軍が最先端の技術を持っていたとやろね…」

  私は、次々に重要であると思われる物を取りだして、次兄に見せた。獣医学校時代の物だけでなく、小学校時代の通信簿や書・絵・手書きのノート等、中学時代の絵や作文・英語・数学などの答案用紙・賞状・柔道大会の取り組み表などを見せた。
 私が最も感動したのは、小学生時代の手作りの地理のノートだった。表紙には筆で「地理科」「泉 古一郎」と書かれており、インク壺とペンが描かれていた。裏表紙には、筆で「明治四十二年度・姫治村大字新川・第六学年 泉古一郎・保護者兄 泉盛吉」と書かれていた。ノートを開くと、上段に各地方の地図が手書きで書かれ、下段に注釈が書かれていた。手書きの地図は正確で、小学生が好く書けた物だと呆れてしまった。






次兄は、黒っぽい表紙の手帳の様な物を見つけて「これは何…」と聞いた。表紙には筆で学資控簿と書かれていた。
 「中学校から獣医学校を卒業するまでの仕送りを毎月記録してあるみたいね…」
「中学から?」
「まだ久大本線も無かった時代やから、久留米に下宿しないと明善には通えないでしょう。」
 「誰が仕送りしたと…」
 私は地理のノートの裏表紙を見せながら「それはお兄さんでしょう。お父さん(曾祖父)は、早くに亡くなってあるから…このノートにも、保護者兄 泉盛吉と書いてあるから…」と言った。

(過去帳によると、曾祖父源市は、明治35年に64歳で亡くなられている。祖父は後妻の長男で、この時五歳だった。ちなみに曾祖母エキは、昭和4年に73歳で亡くなられている。)
 「それにしても几帳面やね…」
 「お兄さんに対して、感謝の気持ちがあったとじゃないと…普通なら、これだけの長期間の仕送りは、親でも出来んよ…」

 私は最後に、辞令や賞状を四つ折りにしてまとめてあった物を次兄に渡した。次兄は、その中からセピア色に変色した一枚の辞令に着目した。
 「永川郡畜産同業組合技手を命ずち書いてあるけど、永川郡って福岡県には無いやろう…」
 「浮羽郡は、明治になって、生葉郡と竹野郡とが合併して出来そうよ。五人庄屋を調べていたら、何かの本に書いてあったよ。永川郡も合併して消滅したのかもしれんね…」
 次兄は、納得できない様子で「爺っちゃまは、獣医学校を卒業して吉井に赴任されたとじゃなかと…ちょっと調べてみようかね…」と言った。そして「書類はこれだけ…」と聞いた。私は、遠い記憶をたどりながら話し始めた。
 「昔は、段ボール箱みたいなのが、もう二つ三つ有ったとやけど…」
 「それはどげんしたと…」
 「私が小学生だった頃、婆(ばば)しゃまの初盆か一周忌だったか覚えとらんけど、浮羽から顔も見たことの無い親戚の人達が『葬式の時、何で知らせんやった…』ち言うて来られたでしょうが…覚えとらんね…」
 次兄は、記憶の欠片もなさそうに「覚えとらん…」と答えた。
 「吉井の爺ちゃま(祖父の弟)が、お父ちゃんが浮羽の親戚と付き合うのを嫌って知らせちゃないとよ…それで、風の便りかなんかで聞きつけて来られたとやけど…
その時、この書類を全部見せたとやけどね…爺ちゃまの小学校の同級生の習字やら絵が混ざっていたとよ。今で言うタイムカプセルを開けた時のように驚かれてね…同級生がまだ生きてあって…持って帰られたとよ。
残りは、段ボール箱に入っていたせいか、湿気やら虫食いが激しくてね…それで、私が風呂の焚きつけにしたから記憶が残っているとよ…結局残ったのは、これだけたい…婆しゃまは、空襲の時、この箱を持って、防空壕に逃げたそうよ…爺っちゃまの形見やから大切に保管してあったとやろね…」
 「よく覚えとるね…」
 「子供の時の記憶やけん、何処まで確かかは分からんよ…」
 次兄は、書類や絵の中から、重要だと思われる卒業証書や絵・作文などを取り出して「これだけをカラーコピーするから借りて行くよ…」と言うと帰宅した。

 数日後、次兄は祖父の書類とコピー用紙を持って遣って来た。次兄の顔には、誇らしげな頬笑みがあり、それらを差し出しながら「あれからパソコンで検索したとやけど、いくつか新しいことが分かったよ…」と言った。コピーの中には、次兄が独自で探し出した書類も混ざっていた。
 「爺ちゃまが卒業した日本獣医学校は、現在の日本獣医生命科学大学になっていて、日本医科大学と同系列の大学だって…大学のホームページの歴史を印刷したのがこれ…」
 大学のホームページによると1881年(明治14年)9月、東京・小石川に日本最初の私立獣医学校として開校…1911年(明治44年)3月、東京・目黒に校舎を新築移転し、「日本獣医学校」と改称…1949年(昭和24年)2月、「日本獣医畜産大学」の設立を認可され、獣医学科および畜産学科を設置…1952年(昭和27年)4月、学校法人「日本医科大学」と合併…2006年(平成18年)4月、「日本獣医生命科学大学」へ校名を変更と書かれていた。
 「好く調べたね…」
 「それがまだあると…永川郡で検索したら、朝鮮のヨンチョン郡が出て来たと…」
 私は驚いて思わず「朝鮮のヨンチョン」と復唱してしまった。
 「爺ちゃまが、朝鮮におっちゃったち聞いたことある…」
 「初耳やけど…」
 「永川は朝鮮語ではヨンチョンち発音するみたいよ…それで他に手掛かりはないかと思って、検索を続けたら、神戸大学の図書館のファイルに1919年(大正8年)11月2日付けの大阪朝日新聞の記事が出て来たと…それがこれ…」次兄は、書類の中から新聞記事のコピーを探し出すと、私に見せてくれた。
 大阪朝日新聞の記事は、当然旧字体で書かれていた。私には、即座には何が書かれているか理解することは出来なかった。
 「うあ~漢文調で、難しそうな漢字ばかりやね…私に読める訳がなかろう…」
 「俺も理系やけんで、あんまり分からんけど…獣医が不足していたみたいね。下の方に永川という地名が出て来るやろう…今の慶尚北道ヨンチョン市たい。」
 私は「う~ん」と唸りながら黙りこんでしまった。
 「どげん思う…」
 「わからん…お父ちゃんに、叔母ちゃん伯父ちゃん、子供の代まで、みんな死じゃるけんね…誰に聞きようもないしね…」
 「せめて兄貴が生きとったら、少しは分かるかもしれんけどね…」

 「そうやね。長兄ちゃんなら知っとったかも知れんね…でも、あり得ぬ話ではないと思うよ。この時代の交通アクセスを考えたら、久留米から東京に行くよりも、博多で船に乗り換えて釜山に行く方が近かったと思うよ。ヨンチョンは釜山の近くみたいやし…」私はこう言うと、ふと頭の中に、セピア色の微かな映像が甦って来た。そして「ちょっと待って」と言うと、仏間の押入れの襖をあけ、父の古いアルバムを取り出して一枚の写真を探し始めた。
 「あった~これこれ…見て…」
 「また古か写真やね…」
 「山高帽をかぶってある人が爺ちゃま、その隣が婆しゃま、その隣の子供が正子おばちゃん(祖母の妹)たい…」
 「この子供が正子おばちゃんち、何で分かると…」
 「正子おばちゃんの面影があろうが…」
 祖母の妹には子供がいなく、私を自分の子供のように可愛がってくれていた。兄弟三人のうち、祖母の妹と一番接点があったのは私だった。
 「正子おばちゃんやったか、お父ちゃんやったか忘れたけど、何か聞いた記憶が微かにある…それに、正子おばちゃんは明治45年生まれやから、婆しゃまとの歳の差が13歳ち聞いとるけん、大正時代に撮った写真なら辻褄が合うやろ…」
 次兄は、半信半疑という感じで「何でお前が、そこまで覚えていると…」と聞いた。私は、仏間の壁に飾ってある祖父の遺影を指差して「あの写真の原本がこの写真たい」と答えた。次兄は、まじまじと写真を見比べながら「ほんなこと…」と言った。
 「婆しゃまが死なはって、遺影を飾る時に、一人じゃ寂しかろうち言うて、お父ちゃんが写真館で引き伸ばしたと…それで覚えとるとたい…」
 次兄は、感心するように「よう覚えとるね…」と言った。私はそれよりも、この写真の背景が気になっていた。
 「それで、後ろに立っている二人の男の人の服装は、日本人じゃなかろう…朝鮮の人ち聞いたような、聞かんような…」

 私は、断定する程の自信は無かった。しかし次の瞬間だった。隣のページの写真が目に入ったのは…その写真は、祖父の職場での記念写真のようであった。前列に背広を着た人たちが座っており、後列に白っぽい服を着た人たちが立っていた。ただ、あまりにも古い写真で、鮮明さに欠けていた。
 「この写真にも同じような服装の人が写っとるよ…」
「爺っちゃまはどこにおっちゃる。」
「前列の一番左たい。」
「ほんなこつ…」
そして私は、建物の柱に掛けてあった看板に気がついた。
 「見て見て、この看板の字を…永が切れて写ってないけど、永川郡畜産同業組合じゃないと…」
 次兄は、父のアルバムを手にとり、じっと写真を見つめた。建物の柱に掛けてあった看板の文字が読みとれたのか「ほんなこと…永は切れとるけど、後の字は全部ある。」と言った。これでヨンチョンと祖父が繋がった。次兄は困惑した表情で「ほんなら、お父ちゃんは朝鮮で生まれたと…爺っちゃまは吉井に何時赴任せらはったと…」と聞いた。私は「お父ちゃんは、朝鮮では生まれてなかろう。吉井ち思うよ…」と答えると立ち上がり、椅子を持って来て、押入れの棚から祖父の書類箱を取り出した。その中から辞令の束を見つけると、年代順に並べた。
 永川郡に赴任したのは、辞令によると獣医学校を卒業した半年後の大正十年十一月八日だった。次に、大正十二年八月三十一日の日付の辞令に、福岡県衛生技手に任ずと書いてあった。また、同じ日付の辞令がもう一枚あり、それには福岡県警察獣医を命ずと書いてあった。おそらく、この日付で吉井町に赴任されたと思われる。
 吉井町は、久留米の城下町と天領日田とをつなぐ街道の宿場町として栄え、江戸時代には、五人庄屋が筑後川に堰を造り、荒れ野を穀倉地帯へと変えた。明治になってからは、用水路の水力を利用して、製粉業が盛んになっており、郡役所やその他の官庁も置かれていた。
 「警察の獣医もしよっちゃったと…」
 「同じ日付やから、兼職じゃなかったとかな…」
 最後に、昭和七年三月二十六日の日付の辞令に、願に依り本職を免ずと書いてあった。
 「結局、吉井には十年ぐらいしかおっちゃなかったと…」
 「もともと実家は姫治村やけんね…今じゃ同じうきは市ばってんね…」
 次兄は、感慨深げに「この後すぐに久留米に出て、一年後に亡くなっちゃるとか…昔、
伯父ちゃんに聞いたとやけど、今で言う動物病院ば開業する為に久留米に出られたち…」と言った。
 祖父が三十七歳の若さで亡くなると、父の生活は激変したそうだ。祖母は、裁縫で身を立てて子供四人を育てたそうだが、生活は苦しく、父は浮羽の親戚に何度か預けられたそうだ。小学校を卒業して、明善中学に入学したのだが、学費が続かず夜間に転部して、市役所の給仕をしながら卒業したそうだ。そんな父の心の支えが、屠畜場の獣魂供養塔だと聞いていた。
次兄は、並べた辞令を食い入るように見ながら「これを見ると、親父は大正十四年生まれやから、吉井で生まれとるたい…ほんなら叔母ちゃんは…」と言った。
 「叔母ちゃんは、お父ちゃんより二つ年上やけんで、大正十二年生まれやけん朝鮮で生まれちゃる可能性もあるね。ただ、これ以上は分からんよ…」
 「まあ、これだけ調べたとやけん、きちっと説明してコピーばやれば、もし供養塔が無くなっていても納得してくれるやろう…」
 「そうやね…」
 次兄は「コピー用紙は、しわが寄らないように保管しておいて…」と言うと帰宅した。次兄が居る時には気付かなかったのだが、ふと気付いたことがある。叔母の名前は永子(えいこ)だった。ヨンチョンのヨン(永)が使われていることを…偶然かも知れないが、私は必然だと思った。

 九月に入った日曜日に次兄がやってきた。いつもなら、朝早く来て、仏壇に手を合わせ、お茶を一杯飲んで、ジムに行って汗を流すのが、休日の次兄のルーティーンなのだが、この日は午前十一時ぐらいに遣って来た。
 私は御茶の用意をしながら「えらい中途半端な時間に来たね。先にジムに行ったと…」と尋ねた。
 「いや、今日は朝早く起きて、吉井に言って来た。その帰りたい。」
 「吉井に…」
 「供養塔が、有るか無いか考えても仕方がないけんで…行った方が早かろうち思たと…カーナビを見ながら行ってみたら、子供の時の記憶が残っとって、するすると行けた。」
 「そいで供養塔は有ったね。」
 「有った…そうばってん、囲いばしてあって中に入られんごとなっとった…そばにある建物が、吉井の伯父ちゃんが言いよっちゃったごと、火事で屋根が抜け落ちて、陽が漏れて見えるとよ…」
 「それからどげんした…」
 「日曜やけんかも知れんけど、人が誰もおらんやったけんで、脇の方から、こそっと入って写真ば撮って来た。」

 次兄は、携帯をポーチから取り出すと自慢そうに写真を見せてくれた。苔むした台座の上に、獣魂供養塔と刻まれた石塔が写っていた。私は感動して、思わず「これが爺っちゃまの供養塔か…」と言った。
 「供養塔の後ろの建物ば見てんね。屋根が抜け落ちて光が見えるやろ…もう、いつ取り崩されてもおかしくなかち言うか…放置してあること事態が不思議ち思うよ。」
 私は、写真をじっと見つめながら「これは供養塔も、いつ取り崩されても仕方なかね…よか時に、写真ば撮ったっちゃなかと…記録に残せてよかったよ。何か虫が知らせたとかも知れんね…泉の家にとっては大事な供養塔でも他の人には関係なかけんね…」
 「俺もそげん思う…爺っちゃまの名前が刻まれてないかと思て見たけど、台座には寄進した人の名前と大正十四年十二月に建てたちしか刻まれとらんやった…」
 「不思議やね…お父ちゃんが生まれた年に建てられたとか…」
 私は母の言葉を思い出していた。「お父ちゃんは、五十二歳で亡くなるまで、好きにつけ悪しきにつけ、何か事があるたびにお参りに行きよっちゃった…」と…父にとって、この供養塔は、幼い時に亡くなった祖父の霊と触れ合い、自分をさらけ出せる場所だったのかも知れないと思った。
 その時、私は、供養塔の台座に花が飾られていることに気付いた。
 「うわ~見て見て、花が飾っちゃるよ…まだ誰かお参りしよっちゃっとよ…この供養塔は、まだ生きとるとよ…」私の心には、感謝の念が湧いてきた。次兄も同様だったに違いない…
 次兄は「この写真も遣ろうかね…お前、写真の焼き増し出来るやろう。メールで写真を送るから、焼き増しをしてくれないか…」と言うと帰宅した。私は後日、パソコンで写真の焼き増しをし、私のプリンターで出来る範囲で、辞令や賞状などのコピーを追加した。
 四国の従兄弟は、九月の中旬過ぎの週末に遣って来た。家族が集まって食事会をしながら、写真や書類の説明をしたのは言うまでも無い。そして、従兄弟の学会の日程の合間を見て、次兄が吉井の獣魂供養塔に案内した。その後、従兄弟は満足して四国に帰ったようだ…
 この一月、私達は不思議な体験をしたような気がする。黄泉の国に旅立った、長兄の置き手紙だったのかもしれない。


追記

 大阪朝日新聞1919年(大正8年)11月2日の記事を読んで見た。
 この記事は、朝鮮慶尚北道藤川道知事の畜産技術員への訓示を記載している。要約すると、慶尚北道は、古来より良牛の産地で、併合以前は畜牛数十万三千頭だったのが、現在は十六万八千頭に増加しているが、施設経営に改善努力の余地がある。また、内地における畜牛の需要が増加しており、農民を善導し改良増殖に努力を要す。
 家畜衛生思想の普及発達の為に努力し、自らの技術を研き、地元の牛医を教育指導せよ。また、家畜の伝染病の蔓延の兆しがあるので、予防消毒を行うなど予防制圧に努めて欲しい…
 畜産の増殖改善は、みだりに新規の施設を試み急激な改良を強いてはいけない…今春騒擾以来民心未だ安静を見るに至らず、動揺させないように慎重に考慮し、民風習慣を参酌し、堅実に発達させ、民衆の福利増進に努めよ…
指導奨励は、熱心と温情で接し、懇切な実地指導をするように……等と書いてある。

 この記事で気になったのは、指導員の重要性もだが、今春騒擾以来民心未だに安静を見るに至らず…という文だ。今春騒擾とは、三・一独立運動のようである。道知事の道民に対する温情が見えるような気もするが、異民族の統治の難しさが垣間見えるような気もする。ちなみに朝鮮併合は、1910年(明治43年)だから、九年後の記事である。祖父は記事の二年後に永川郡(ヨンチョン郡)に赴任したことになる。

 原文は次の通りです。(ルビが間違っていたらごめんなさい)


新聞記事文庫:大阪朝日新聞1919.11.2

新聞記事文庫 畜産業(2-135)
大阪朝日新聞 1919.11.2(大正8)


慶北畜産

道知事の訓示

慶北道にては這(この)回(たび)道内の畜産技術員を召集し畜産会議を開きたるが其際藤川道知事のなしたる訓示左の如し(大邱)
 茲(ここ)に畜産技術員を召集し親しく畜産の状況を聴取し且(かつ)此(この)機会に於て所思の一端を告ぐるは本官の欣幸(きんこう)とする所なり
 惟(おも)うに畜産は国家重要の産業にして労力肥料及食料品として将(はた)亦(また)工芸原料として其(その)需要は愈(いよいよ)多き加うるに至り之(これ)が振(しん)否(ぴ)は産業経済両方面に及ぼす所寔(まこと)に深甚(しんじん)なるものあり翻(ひるがえ)て本道の畜産界を観察するに近時大いに其面目を一新し向上発展の機運に向かいつつありと雖(いえど)其の施設経営に至りては尚改善努力の余地頗(すこぶ)る多きを認む殊(こと)に戦後世界の大勢は自作自給の方針に向かい着々其計画を樹立しつつあり此秋に方り之が増殖振興を企図(きと)するは洵(まこと)に現下の最大要事と請(こ)わざるべからず
 畜牛は農業の要素にして地方経済上及各種産業上関係する所頗(すこぶる)広く将来農工業の進歩発達に伴い其需要は益増加の趨勢(すうせい)にあるを以て夙(つと)に之が改良増殖に主力を傾注したる所以(ゆえん)なり本道は朝鮮に於(お)ける有数の産牛地にして古来良牛を産し土地亦(また)肥沃にして広大なる耕地を有する理想的農業地なり寔(まこと)に之が飼養(しよう)の奨励も亦農耕を基礎とし其面積を標準とせざるべからず本道新政当時の畜牛数は十万三千余頭に過ぎざりしも今や移出牛の激増を以てして尚十六万八千余頭の現在数を算すと雖(いえども)之を耕地面積に対照するときは一頭当たり二町三段歩にして農家十戸に対し五頭余に相当し孰(いず)れも尚将来増殖の余地多きを認む殊(こと)に一面内地に於ける畜牛の需要は益(ますます)増加し供給は之に伴わずして其不足は之を我に求むる愈(いよいよ)多きを加え将来益増加の趨勢(すうせい)にあり従て牛価の昂騰(こうとう)を来し飼養(しよう)生産の利潤亦昔日(せきじつ)の比にあらず其影響は畜牛の移動を多からしめ動もすれば良牛を抜き去らるるの傾向なきにあらず此際之が調節を計ると共に畜牛の増飼を奨励するは最機宜(きぎ)に適したるものと認む宜しく農民を善導し之が改良増殖に一段の努力を要す
 種畜の供給に関しては保護牛の設置ありと雖(いえども)未だ之が所要を充(みた)すに足らず畜産同業組合の活動に依り其及ばざるを補いつつあるも其資質に至りては尚遺憾の点少なからず是等に対しては漸次(ぜんじ)淘汰を行い以て之が向上を計り或いは種畜部落の設置に依り系統的蕃殖を以て優良種畜補給の方法を講ずる等種畜の改善供給に関し遺憾なきを期すべし
 飼料の供給を豊富ならしむるは畜牛改良増殖上の一要件なりとす然(しか)るに冬季飼料たる乾(ほし)草貯蔵の如き未だ所期の目的を達するに至らず宜しく牧野設置の確実を期し之に保護を加え野草の改良及刈取貯蔵の奨励緑肥(りょくひ)及農産物等の利用に依り之が供給を潤沢ならしむる畜産同業組合は畜産改良増殖の中枢機関にして其財政略(はかり)独立し事業亦順調に発達し成績の見るべきものあるに至れり殊(こと)に本年に於(おい)て連合会の設置を見るに至りしは寔(まこと)に嬉ぶべき現象なりとす而(しか)してその事業の発達如何(いかん)は主として技術員の精励(せいれい)努力に竢(ま)たざるべからず諸子は一面組合職員として之が経営指導の任にあるものなれば事業施行に際しては細密周到なる注意を払い事の緩急を考慮し冗費(じょうひ)を省(はぶ)き以て穏健なる発達を期すべし
 近く連合会の経営せんとする畜牛共済事業は組合員相互の救済に依り其飼養の安全を期し以て良牛を飼育せしめんとするの施設なるを以て実施の暁には趣旨の普及徹底を図り事業遂行上遺憾なきを期すべし
 家畜衛生の普及発達如何(いかん)は畜産の消長及公衆衛生に関連する所頗(すこぶ)る大なるものあり諸子は直接其衝(しょう)に当るものなれば宜しく自ら技を研き牛医の教育指導に努め以て衛生の施設を完備し患畜の合理的治療を施すと共に一面講習講和等を行い以て家畜衛生思想の普及発達に努力すべし本道に於て発生する獣疫中最も被害の多きは気腫疽(きしゅそ)にして此年其跡を絶たず常時存在するの現況なるを以て其発生に際しては診断の適確系統の追究に留意し厳密なる消毒を行い其伝播を未然に防止し蔓延の兆(きざし)あるに於ては直ぐに予防消毒を行う等之が予防制遏(せいあつ)に努め以て撲滅を期すべし
 流行性鵝(が)口(こう)瘡(そう)は本春西鮮地方よりの移出牛の病毒携帯に依り永川及達城の二郡に突発したるも僅(わずか)に十六頭にして終熄(しゅうそく)し一頭の斃(へい)獣(じゅう)をも出さざりしは防疫上の処置宜しきを得たるものにして満足すべき成績なりとす然(しか)るに今又西鮮地方に其の発生の報あり之が来襲誠に測り難きものあり此際一層の警戒を要す
 養豚養鶏は共に農家の副業中最も有利なる事業にして又農家に好適せる家庭的事業なり近時生活状態の向上に伴い卵肉の需要は益増加の趨勢(すうせい)に在り従って其価格も著しく昂騰(こうとう)し飼養者の利潤亦昔の比にあらず其飼料の如きも農家生産物の残滓(ざんし)若くは廃物の利用に依り之を飼養することを得殊(こと)に養豚は蕃殖力旺盛にして其肉附の迅速なる到底牛馬の及ぶ所にあらず加うるに肥料を生産し農営上稗(ひ)益(えき)する所尠(せん)少(しょう)ならざるものあり宜しく適切なる方法を講じ之が飼養の奨励に努力すべし
 以上は畜産の増殖振興上孰(いず)れ喫緊(きっきん)なる事項なりとす宜しく其趣旨を体し銃意各要項の実現に努力せんか畜産の改善増殖は期して竢(ま)つべきものあるべし若(も)し夫(そ)れ之が施設計画に至りては漫(みだ)りに新規の施設を試み或は急劇なる改良を強い以て事功を急ぐが如きは素より戒(いまし)むべきことに属す殊に今春騒擾(そうじょう)以来民心未だ安静を見るに至らず動(やや)もすれば動揺を来さんとするの情勢にあるを以て宜しく慎重なる考慮を加え民風習慣を参酌(さんしゃく)し漸(ぜん)を追うて堅実なる発達に努め民衆の福利増進を期すべく之が指導奨励に際しては熱心と温情とを以て之に接し懇切なる実地指導を行い民衆をして深く当局に倚頼(いらい)する所あらしめんことを期すべし
(データー作成:2010.3神戸大学付属図書館)