ふと日本の古代史に興味がわき、何冊かの本を読んでみた。もちろん普及本なのだが、学生時代には習わなかった事が分かって興味深かった。そして幾つかの疑問もわいて来た。
日本の古代史と言えば邪馬台国論争。代表的なものは近畿説と九州説なのだが、邪馬台国が何処にあったかを知るためには、魏志倭人伝を読まなければならない。漢文を読めない私には縁遠い物だったのだが、全文を現代語訳されたものが別冊宝島の「邪馬台国と卑弥呼」と言う本に掲載されていた。
魏志倭人伝には、朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの行程が詳しく掲載されている。それによると対馬国・壱岐国・松盧国(唐津市)・伊都国(糸島市)・奴国(福岡市)までは現在の所在地が確定しているのだが、それ以降は確定していない。魏志倭人伝どおり行けば、邪馬台国は九州を通り抜けて東シナ海や南シナ海の島国という事になる。これは有り得ない事なので、九州説では魏志倭人伝に書かれている距離が間違っていると主張するのに対して、近畿説では方角が間違っていると主張している。
現在は近畿説が有力のようだ。確かに魏志倭人伝には、松盧国から東南に五百里で伊都国、伊都国から東南に百里で奴国と書かれているのだが、現代の地図を見てみると福岡市は唐津市の東北にあり方角が間違っている。このくらい誤差の内と言われれば、私には反論できるだけの知識が無い。ただ、魏志倭人伝は三世紀の日本を書いたもの、日本の紀元をどう捉えるのかでも考え方が変わるのではないかと思う。
今年(平成28年・2016年)は、紀元2676年である。つまり紀元前七世紀に神武天皇が日本を建国したと言われている。実際の年代は、もっと下るにしても、魏志倭人伝の三世紀よりはさかのぼるに違いない。元来、北部九州の遺跡は、縄文晩期から古墳時代までが集積していて、甕棺の様な近畿には無い物が発掘される。この事は、北部九州には、近畿よりも古くから、政権が根付いていた証ではなかろうか。(後漢書によれば、建武中元二年(西暦57年)後漢の光武帝によって倭奴国が冊封され金印を授与されているのが、日本で最も古い歴史的事実だ。)
記紀によると神武天皇は、日向から筑紫、そして近畿へ東征したと書かれている。もともと九州にあった政権が、近畿に移ったとも考えられる。邪馬台国が大和朝廷へとつながるのならば、やはり近畿説が有力の様な気がする。
邪馬台国と言えば女王卑弥呼が有名なのだが、日本の古代史に置いて卑弥呼が誰なのかは解明されていない。私は天照大御神が卑弥呼とばかり思っていたのだが、別冊宝島「日本の古代史」には、次のように書いてある。
卑弥呼と考えられている五人の女性たち
天照大御神
「古事記」「日本書紀」に登場する女神。イザナギの禊から生まれた、高天原を統治する太陽神。「邪馬台国九州説」の日本史学者・安本美典が歴代天皇の即位期間から推測し、「卑弥呼の時代は神武東征以降」であり、「日の巫女であった卑弥呼」はアマテラスだと提唱。
倭迹迹日百襲媛命
第七代孝霊天皇の皇女。「古事記」では、オオクニヌシの国作りを支えたオオモノヌシの妻となった巫女。その墓とされる奈良県桜井市の箸墓の後円部分が直径150メートルであることと、「魏志倭人伝」の「卑弥呼の死後、径百余歩の墓が作られた」という記述が一致するとして、考古学者・笠井新也が比定した。
倭姫命
第十一代垂仁天皇の皇女で、ヤマトタケルの叔母。ヤマトタケルの東西遠征時に草薙剣などを授けた人物。伊勢神宮の創始に関わり、斎王を務めた。「邪馬台国畿内説」のもと、卑弥呼と比定される。卑弥呼も倭姫命も神に仕える立場であったことに由来している。
神功皇后
第十四代仲哀天皇の皇后で、第十五代応神天皇の生母。仲哀天皇亡き後、国の実権を69年間握った。「日本書紀」では、天皇以外の人物では唯一、一巻を割いて「神功皇后紀」として綴られている。これは「日本書紀」の編纂者が神功皇后を卑弥呼だと仮説したためとされている。
熊襲の女酋
記紀神話に登場する、九州の反王権勢力「熊襲」の女性首長。江戸時代の国学者・本居宣長が、「ヤマト王権に対抗するべく、熊襲の女酋が勝手に倭王を名乗り、魏に遣いを送った」と提唱。よって、卑弥呼は熊襲の女酋であり、さらにその勢力を制圧したのは神功皇后であるとも主張した(「邪馬台国偽僣説」)。
卑弥呼は誰だったのか?…八世紀(記紀の書かれた時代)からすでに論争が開始されていたようだ。
30もの服属国を持つ邪馬台国の女王として君臨していた卑弥呼であるが、不思議な事に「古事記」や「日本書紀」など正史と呼ばれる日本の史書にはほとんど記述がない。
わずかに「日本書紀」の神功皇后39年の条の分註として「明帝景初三年六月、倭の女王が大夫の難升米を遣わし、郡に至り、天子に詣でて朝献することを求め、太子劉夏は役人をつけ使者を都へ送った」など魏志倭人伝からの引用が見られるだけである。神功皇后の条には他に二度倭人伝から引用していることから、「日本書紀」の編纂者は、神功皇后が卑弥呼と考えていた可能性が高い。(別冊宝島日本の古代史より)
神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后で、第15代応神天皇の生母である。朝鮮半島(高句麗・百済・新羅)遠征を成功させた人でもある。よって、神功皇后の活動した年代を推定するには、朝鮮半島における日本の皇室のカウンターパートナーの活動した年代を史書から見つけ出せばいい。
『古事記』では、応神天皇の治世に百済王照古王が馬1つがいと『論語』『千字文』を応神天皇に献上し、阿知吉師(あちきし)と和邇吉師(わにきし)を使者として日本に遣わしたとされている。この照古王のことを『日本書紀』では肖古王としていて、年代や系譜関係からみて近肖古王に比定されているが、古事記の照古王については第5代の肖古王とする説もある。『三国史記』百済本紀によると、それまで百済に文字はなかったが、近肖古王の時代に高興という人物がやってきて漢字を伝えたので、この時より百済に初めて「書き記すということ」が始まったという。つまり照古王を近肖古王とした場合、百済は初めて伝来したばかりの『論語』『千字文』をほぼ即時に日本に献上したことになる。
近肖古王は百済13代王で、346年9月に先代の契王が薨去し、王位を継いだ。倭国に対しても七支刀(作成は369年と考えられている)を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。在位30年にして375年11月に死去した。(ウィキペディアより)
魏志倭人伝には、景初三年(239年)から正始八年(247年)の間に、倭国から四度の朝貢があったと書かれている。つまり卑弥呼の時代と応神天皇の時代に百年以上の差が有り、生母である神功皇后とでは百年近くの差があるという事である。よって、神功皇后は卑弥呼ではないと証明できるのではなかろうか。
魏志倭人伝には、もう一人、倭の女王が登場する。卑弥呼が亡くなると男王を立てたのだが、倭が乱れたので、再び女王として、十三歳になったばかりの卑弥呼の宗女壱与を立てると治まったとある。そして266年、倭の女王(壱与)が魏を滅ぼした晋に遣いを送ったという記述が『晋書』にある。
私の勝手な解釈だが、天照大神は、初代神武天皇の御先祖様だから、時代がさかのぼり過ぎて、卑弥呼では有り得ない。熊襲の女酋が卑弥呼なら、邪馬台国に敵対する狗奴国はどこにあるのだろうか。鹿児島を通り越して海上にでもあると言うのだろうか。また、熊襲に30もの服属国があったとは聞いたことがない。有り得ない。(熊襲は熊本県人吉市周辺・鹿児島県霧島市周辺にあったと言われている。)よって、消去法によると倭迹迹日百襲媛命と倭姫命が残る事になる。安易な比定とは思うが、年代順から言えば、倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼ならば、倭姫命は壱与という事になる。
ところで、邪馬台国は近畿あるいは九州で、ほぼ確定しているのだが、高天原は何処にあったのだろうか。高天原は神話の世界、空想にすぎないと言われればそれまでだが、簡単に納得していいのだろうか。誰か専門の先生に調べてもらいたいものだ。私の独断と偏見で、誤解を恐れずに、あえて言えば、あんがい朝鮮半島にあったのではと思う…
天孫降臨の地は、日本人の誰もが日向の高千穂であったと思っている。しかし、宮崎県には、「高千穂の峰」が二つある。一つは、宮崎県北西部の高千穂町にある槵触嶽。もう一つは、宮崎県と鹿児島県との県境にある霧島峰で、韓国岳を主峰とする霧島火山群の一つ。この二つは、どちらも有力な候補地とされ、未だに決着がついていない。江戸時代の国学者・本居宣長は、どちらも決め難いとして、「高千穂移動説」を唱えている。(東西社 図解古事記・日本書紀より)ここで注目すべきは、南九州の山の名前に、なぜ韓の字がついているのかという事だ。また、時代は八世紀と下るが、百済王族(禎嘉王・福智王)を祀る神社(神門神社・比木神社)も近くに創建されている。不思議な話だ。
古事記によると、天孫降臨が行われる前に、高天原への出雲の国譲りが行われている。やはり、高天原が何処にあったのかが気になる。高天原からは、天の鳥船に乗って使者が出雲に来たそうだ。天の鳥船は、空を飛んで来たように書かれているが、実際は、海上交通にたけた部族だったのだろう。そして、出雲の首長・大国主命から六代さかのぼるとスサノオであり、スサノオは天照大御神の弟である。山陰の出雲と天孫降臨の地日向は、同族であることが分かる。この時代の海は、現代の高速道路の役割を果たしていたのではなかろうか。環日本海には、緩やかに結ばれた国、あるいは経済圏があったのではなかろうか。そして、それが倭国だったのではなかろうか。
私が、こう思うようになったのは、韓流時代劇「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」を観てからだ。ヨンゲソムンは、高句麗末期の宰相なのだが、やたらと天孫族と言う言葉を発し、旗には三本足のカラスの紋章が描かれていた。三本足のカラスと言えば八咫烏。八咫烏と言えば、日本サッカー協会のエンブレムに描かれている黒い鳥。そして、神武東征で道案内をしたのが八咫烏だ。八咫烏は太陽の化身とも言われているそうだ。
韓流時代劇「朱蒙(高句麗初代王)」の最終回では、権力抗争に敗れた第二妃が、実子の二人の王子(沸流・温祚)を引き連れて朝鮮半島を南下するところで終わる。百済神話によると、兄の沸流は沿岸部に、弟の温祚は漢山の地で慰礼城に都をおいた。兄の沸流は、湿気と塩害で体を崩し、弟の温祚に吸収され、温祚が百済の初代王となった。高句麗と百済は同族で、天孫族という事になる。沸流と温祚の兄弟は、何となく海幸彦と山幸彦に似ているようで、偶然が重なり過ぎている様な気もする。
『三国史記』新羅本紀によれば、新羅の初代王(朴赫居世)は倭人だったと記されている。それ以後も新羅の王統に倭人の血が混じっているようだ。逆に、朴赫居世の次男アメノヒボコは、倭国へ行き居住した。日本書紀では、アメノヒボコの子孫のうちの一人が、神功皇后だったと書かれている。
済州島の三姓神話によると、最初に「高、梁、夫」の3つの姓を持った3人の神人がいて、東国の碧浪国(倭国とも言われている)から3人の姫が遣って来て、それぞれと結婚した。約900年後に皆の人望を集めた高氏を王として、初めて「タクラ」という王国が成立したとされている。また、朝鮮半島南部では、近年、前方後円墳などの日本の影響を受けた遺跡が発掘されているようだが、ここまで偶然が重なると、やはり、古代の環日本海には、ゆるやかな経済圏があったのではなかろうか。そしてそれが、倭国だったのではなかろうか。高天原が朝鮮半島にあったとしても突拍子な事ではないと思う。
こんなことを書くと、韓流ドラマなんかを引き合いに出して、何を言い出すのだと、日韓両国の右派の方々にお叱りを受けるかも知れないが、歴史に政治を持ち込むべきではないと思う。私が学生のころ任那の日本府は、高校入試に必ず出る問題でした。それがいつしか、教科書から消え、伽耶となり、今また復活しているようです。韓国がうるさくて、せからしいという理由で消え、韓国に苛立ちを覚え、遠慮すべきではないという理由で復活したとしたら、歴史は学問ではないという事になります。政治を排除して、日韓の歴史学者が、膝を突き合わせて話し合うべきだと思うのですが…
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