2011年7月24日日曜日

元祖市民ランナー采谷義秋選手

 巷では、今年(2011年)の東京マラソンで日本人トップの3位(2時間8分37秒)となった川内優輝選手の事を市民ランナーと持てはやしているようですが、元祖市民ランナーとも言うべき、采谷義秋選手の事をご存知ですか。
采谷選手は、1960年代後半から70年代に活躍されたマラソンランナーです。あの伝説のランナー、メキシコオリンピック銀メダリストで、根性の人と形容された、君原健二選手と互角以上に戦われた名ランナーです。
采谷選手は、日本体育大学出身で、在学中は箱根駅伝で区間賞や東京ユニバーシアードのマラソンで優勝されるなど活躍されました。卒業後は実業団には行かれず、広島の県立高校の教諭をされながら、マラソンランナーとして活躍されました。
采谷選手と言えば、何といっても、メキシコオリンピックの代表の座を君原選手と熾烈な争いをした事で有名です。当時、君原選手は東京オリンピック以後スランプに陥り、メキシコは危ないと言われていました。しかし、高橋進コーチと二人三脚でメキシコオリンピックを目指す事になりました。そこに立ちはだかったのが采谷選手でした。
メキシコオリンピックの最終予選(毎日マラソン)の結果は、①宇佐美選手②采谷選手③君原選手でした。しかし、この大会は欠場したものの、国際マラソン(現在の福岡国際マラソン)で、クレートン(2時間10分の壁を初めて破った)と競り合い、負けはしたものの当時の世界最高記録を破った佐々木精一郎選手の当確は周知の認めるところでした。
マラソン代表の枠は三つ、残る二つを宇佐美・采谷・君原の三選手で争っていたのです。宇佐美は、最終予選で優勝したという事ですんなり決まりましたが、残りの一枠を采谷と君原のどちらにするかで喧々諤々の論争が起きたのです。


大会名
別府マラソン
昭和422
プレオリンピック
昭和429
国際マラソン
昭和4212
別府マラソン
昭和432
毎日マラソン
昭和434
宇佐美
3
2時間1450
3位
2時間2430
13
2時間1816
5
2時間1648
1
2時間1349
采谷
(不参加)
(出場できず)
6
2時間1449
2
2時間1522
2
2時間1423
君原
1
2時間1338
2
2時間2157
(足痛・不参加)
3
2時間1632
3
2時間1446
佐々木
2
2時間1338
4
2時間2613
2
2時間1117
1
2時間1323
(不参加)

(マラソンの青春・時事通信社参照)

上の表は、至近5レースの四者成績表です。これを見てもらえば分かるように、直接対決で、采谷選手が君原選手に勝っています。当然、采谷選手が選ばれるべきと思うのですが、ここでもう一つの条件が浮かび上がって来ました。それは、メキシコオリンピックの特殊性にありました。メキシコシティーは、海抜2300メートルで空気が薄く気温が高いという気象の特殊性にありました。
代表選手の原案を作る強化部会では、高地でのマラソン経験が豊富な君原を代表にすべきだという意見が持ち上がりました。そして、宇佐美、佐々木という新人に、ベテランの君原を加える事は、構成上の要件でもあるという意見が…この意見を強力に推し進めたのが、君原選手のコーチでもある高橋進氏でした。君原が一枚加われば、日本チームの中から入賞、あるいは旗を上げる事が出来ると…
こうして強化部会の原案は、宇佐美、佐々木、君原の三人を正選手に、采谷は補欠と決まりました。しかし、その後の理事会では、この原案が覆ります。喧々諤々の論争が続いたのです。結局、その日には正選手を決める事が出来ず、四人を代表選手に選び、折を見て正選手を決める事になりました。
その後、君原はウィンザーマラソンで優勝をし、采谷はメキシコで高地トレーニングをしたのですが結果が出ず、正選手には宇佐美、佐々木、君原が選ばれました。マスコミは、大騒ぎしました。当時、私は小学生だったので、世の中が騒いでいる事は知っていましたが、郷土の君原選手が選ばれた事を喜んでいました。しかし、今考えてみると、落とされた采谷選手には、後ろ盾のない市民ランナーの悲哀を感じます。そして、選ばれた君原選手には、何というプレッシャーを掛けたのかと感じます。いずれにしても悲劇でした。(後に女子マラソンでも、これと同じような事が、有森裕子選手と松野明美選手の間で繰り広げられました。記憶にある方もいらっしゃると思いますが、ここでは、そういう事例があったという事だけにとどめておきます。)
この後は、皆さんもご承知の通り、君原選手がメキシコオリンピックで見事に銀メダルを取られました。さすがに名伯楽と言われていた高橋進コーチの考えが間違いではなかった事が証明されたのです。しかし、采谷選手の側から見てみれば、最終予選が終わった後に、ハードルをもう一つ付け加えられるという、究極の後だしジャンケンをされてしまっては、どうする事も出来なかったと思います。まして采谷選手は、公務員で市民ランナー、実業団のように海外合宿などには慣れていなかったと思いますし、特定のコーチはおらず、練習量も日頃と比べれば、かなりのハードスケジュールになっていたのだと思います。ハンディーが大き過ぎたと考えられます。
しかし、采谷選手は、このままでは終わりませんでした。一人、黙々と走り続けられました。2年後の70126日の福岡国際マラソンでは、2時間1212秒(自己ベスト)で3位。翌年の71321日の毎日マラソンでは、2時間1645秒で優勝。そして、翌年の72319日の毎日マラソン(ミュンヘンオリンピックの最終選考会)では、2時間2248秒で、①宇佐美②君原に続いて3位となり、ミュンヘンオリンピックの代表の座を得る事が出来ました。
ミュンヘンオリンピックでは、2時間2559秒で36位と振るいませんでしたが、市民ランナーが、実業団の選手を相手に、オリンピックの代表になった事だけでも素晴らしい出来事でした。まして、この当時の日本のマラソンの水準は、現在とは比べ物にならないほど高かったのです。世界最高記録を出す選手やオリンピックでメダルや入賞を取る選手が沢山いました。その中から選ばれた代表なのですから、素晴らしい足跡だと思います。
例えば、寺沢徹選手は、63年の別府大分毎日マラソンで、裸足の王様アベベの記録を上回る2時間1515秒の世界最高記録を出して優勝しました。寺沢選手はとにかく強かった。それだけが記憶に残っています。そして、君原選手が目標とする選手でした。しかし、その重圧が、東京オリンピックでは重くのしかかり、15位で終わりましたが、その翌年(65年)の国際朝日マラソン(現在の福岡国際マラソン)では、2時間1448秒の日本最高記録で優勝しています。
重松森雄選手は、654月のボストンマラソンで、2時間1633秒の大会新記録で優勝。さらに6月のウィンザーマラソンで、2時間1200秒の世界最高記録を出して優勝しました。これは、前年に行われた東京オリンピックでアベベが作った記録の更新です。
佐々木精一郎選手は、67年の福岡国際マラソンで、デレク・クレートン選手(豪州)に次いで2位でしたが、優勝したクレートンの記録は、2時間936秒という途方もない大記録でした。17キロ付近から独走態勢に入って、誰も寄せ付けなかったのですが、佐々木選手が果敢に追い上げ、28キロ付近で追い付き、それからしばらく並走したのですが、34キロ付近で振り切られ、2位でゴールしました。記録は2時間1117秒で、重松が持つ当時の世界最高記録を上回る結果を出しています。

東京オリンピック(1964年)
3位 円谷幸吉 2時間1622
8位 君原健二 2時間1949
15位 寺沢徹  2時間239

 メキシコオリンピック(1968年)
2位 君原健二  2時間2331
9位 宇佐美彰郎 2時間286
途中棄権 佐々木精一郎

 ミュンヘンオリンピック(1972年)
5位 君原健二  2時間1626
12位 宇佐美彰郎 2時間1858
36位 采谷義秋  2時間2559

宇佐美選手は、君原選手の次世代で最強のマラソンランナーでした。オリンピックの代表にも、君原選手と同じく3回なっています。しかし、クレートン選手や寺沢選手と同じように、オリンピックでは不思議と活躍する事が出来ませんでした。プレッシャーも有ったのかもしれませんが、この時期は、スピードマラソンが台頭してきた時期とも重なります。そしてマラソンは、従来は冬の競技でしたが、オリンピックは夏場の大会でした。そのような観点から、生理学上の問題をトレーニングに生かせなかったのかも知れません。そういう意味では、アベベ選手の強さは、圧倒的なものでした。

 これらを見ても分かる通り、当時の日本は、マラソンの強豪国でした。福岡国際マラソンには、世界の強豪選手が大勢遣って来ました。ミュンヘンオリンピックの覇者フランク・ショータ―選手(米国)も、世界デビューは福岡国際マラソンでした。
 最近の日本の選手は、2時間10分を切ったら、サブテンランナーと言って持てはやされていますが、采谷選手が活躍した時代は、四十数年前の記録を目標にするほど、ていたらくでは無かったのです。そういう意味でも、公務員で市民ランナーの采谷選手をもっと再評価すべきだと思います。そして現在、公務員で市民ランナーの川内優輝選手へのアドバイスをお願いしたいものです。

 参照文献
 ぼくはなぜ走るのだろう  浜上潮児著       講談社
 マラソンの青春      君原健二・高橋進共著  時事通信社
 福岡国際マラソンプレイバック(福岡国際マラソン公式サイト)
 Wikipedia (ウィキペディア)

2 件のコメント:

荻利行 さんのコメント...

keiさん、初めまして。こんにちは。

荻と申します。

元祖市民ランナー采谷選手のことを知り、ネットで調べていくうちにkeiさんのブログに辿り着きました。詳細な記事、拝読させていただきました。ありがとうございます。

かつての日本マラソンのレベルは本当に高かったですね。
小学生の頃、宇佐美選手がレース前にお餅を食べて優勝したというインタビューを見たのを覚えています。

川内選手はプロに転向されましたが、今後も変わらずに応援続けたいと思いました。

ありがとうございました。

kei さんのコメント...

荻さん、七年も前の投稿にコメントしていただいてありがとうございます。
本当に昔の日本マラソンは強かったですね。64東京五輪から半世紀が過ぎ去り、円谷選手や君原選手、そして采谷選手を知らない人が沢山いると思いますが、時には過去を振り返ることが2020東京五輪につながると思います。プロに転向された川内選手が酷暑に打ち勝ちセンターポールに日の丸をあげられることを祈ります。 Kei