2017年12月1日金曜日

横綱の品格

横綱の品格

 日馬富士の暴行問題で、世間では、横綱の品格が話題になっている。横綱の品格と言われても、日本人さえハッキリと答えられないのに、モンゴル人の横綱に、どこまで理解できているかは疑問に思う。

 朝青龍は論外だが、日馬富士のように引退会見で悪びれずに、礼節を教える為に殴ったと言われても、何時の時代の話だと言いたくなる。相撲界には、「無理偏に拳骨と書いて兄弟子と読む」という言葉があるが、違う部屋の横綱に、弟弟子と言われても、貴乃花親方や貴ノ岩にしてみれば、いい迷惑だと思う。

 貴乃花親方の伯父は、土俵の鬼と言われた横綱の初代若乃花、その教えを受けた父は、名大関の初代貴乃花。彼らの教えは、「力士は孤独でなければならない。いつ対戦するかもわからない他の部屋の力士とつるんではいけない。」これを忠実に教え伝えている貴乃花親方にしてみれば、モンゴル力士会は邪魔物でしかなかったはず。

 高校の同窓会と言って許しを受けた貴ノ岩にしてみれば、同窓会にモンゴル人の横綱が三人もいたのは不思議だったと思う。まして日馬富士に殴られている間、他の横綱が助けてくれなかったのは、集団リンチとも感じたのでは……精神的ショックは大きかったはず。

 最近、白鵬の言動が、朝青龍に似て来たような気がする。四十回も優勝して自信をつけているのだろうが、モンゴル人特有の性格かも知れない。私は、そんな白鵬に、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という日本の言葉を送りたい。口では、角聖双葉山の「未だ木鶏足りえず」を引用したり、昭和の大横綱大鵬を角界の父と言っているようだが、その品格は足元にも及ばないような気がする。

 私は子供のころ、世紀の大誤審と言われた大鵬と戸田の相撲をテレビで見た記憶がある。この当時の大鵬は、双葉山の記録をことごとく塗り替えて、最後の関門69連勝に挑戦していた時期だった。最初の軍配は大鵬に上がったのだが、物言いがつき、行司差し違いで、軍配は戸田に上がり、45連勝でストップした。しかし、スローモーションビデオでは、大鵬有利に見えた。全国の視聴者から判定にクレームがついたのだが、勝敗は覆られなかった。これに対して大鵬は、「横綱として物言いの付くような相撲を取った自分が悪い。」と言って事を収めた。決して白鵬のように、土俵下で手を上げて、判定に不服をアピールするようなことはしなかった。(この誤審の結果、物言いの裁定にビデオが導入される事になった。これは世界的にも画期的な事だった。)

 四十回目の優勝後、白鵬は土俵下のインタビューで、日馬富士と貴ノ岩を土俵に戻してやりたいと言った後、観客に向かって万歳三唱の唱和を求めた。まるでプロレスラーがアピールするように…横綱だからと言って法は書き換えられないし、土俵はリングではない。この国はモンゴルではなく日本であり、相撲は日本の国技だ。そして相撲は、ただのスポーツではなく神事でもある。力士は強ければ良いというものではない。言葉では理解しがたい横綱の品格を誰がモンゴル人の横綱に教えるのだろうか。親方衆は、よくよく考えるべきだ。モンゴル人を入れた事が、相撲の衰退につながっては元も子もない。

追記
白鵬が、だんだん朝青龍に似て来た。モンゴルの国民性だろうか
四十回の優勝は立派だが、横綱は強ければ良いというものではない。

 平幕には平幕の相撲があり、横綱には横綱の相撲が有る。平幕が立ち会いに変化をして勝っても、師匠に叱られるぐらいだが、横綱が立ち会いに変化をして勝ったら、観客席から座布団が舞う。そこまでして勝ちたいのかとこれが相撲だ。

 横綱の品格とは、言葉にするのは難しく、横綱の姿かたちで示すもの日本人の精神性をモンゴル人の横綱たちは、何処まで理解しているのだろうか。相撲が亡ぶ前に、誰かが教えてやるべきだ。教える事が出来なければ排除すべきかも

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