2015年12月29日火曜日

「大地の子」の再放送を見て思うこと



「大地の子」の再放送を見て思うこと

 NHKBSのアンコールドラマ「大地の子」を録画で一気に見た。二十年前の作品とは思えない感動がよみがえってきた。さすがにモンテカルロ国際テレビ祭で最優秀作品賞を受賞し、国内では、平成七年度芸術作品賞を受賞しただけあって、日本にも中国にも偏らず、人間のすべての感情(恨み・妬み・差別・良心・親子隣人への愛情…)が描かれていたように思う。戦争とは惨いものだな、終わった後もこれだけの悲劇を残すのかと今更ながら感じた。しかし、二十年前に見た、断片的な記憶の映像と、いま視覚で捉えた映像が重なった時に、時代の世情の違いも感じ取った。途上国で援助を必要としていた中国が、改革開放で経済大国となり、尖閣諸島や南沙諸島では脅威となっている…韓国をも含めて、反日的思想にどのように対応すべきかと…

 原作者の山崎豊子さんが亡くなられて二年が過ぎ、今年(2015年)は、日本中が安全保障問題に明け暮れ、嫌韓・嫌中がはびこった。これはNHKの確信的再放送だったのかも知れない。もう一度冷静になって、戦争の悲惨さや戦前戦後の日本人の贖罪(しょくざい)について考えるべきではという…ならば、BSではなく地上波で再放送すべきではなかったかとも思う。

 聖書(マテオ第73節―5節)には次のように書いてある。
 「なぜ、兄弟の目にあるわらくずをみて、自分の目にある梁に気をとめないのか。また、自分の目に梁があるのに、なぜ、兄弟にむかって、あなたの目のわらくずを取らせてくれといえるのか。偽善者よ、まず、自分の目から梁をとり去るがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目のわらくずも取ることができよう。」

 しかし、これを実行することは、非常に難しいことのように思う。人と人との間では、まだできるかもしれない。失敗すれば自己責任で済むから…けれど、国と国との間では、誰が責任を取るのか。それは政府に決まっている。しかし政府は、国民の利益と安全を一番に考えなければならない。よって、確率の低いものに、国民の利益と安全を掛けることができない。国は奇跡を待ち望んではいけないということだ。ただ、政府を率いる者の心の片隅で、自国の目に梁があることを認識していれば、よりましな行動が取れるのかも知れない。

 戦後七十年、日中・日韓、それぞれに言い分はあると思う。どこかで妥協をしなければ関係改善は築けない。それとは別に、学者の歴史の真実の追及に、政治が圧力を掛けるべきではない。この問題は複雑で、なかなか解答が出ないように思う。ただ、毅然とした対応が必要だとも思う。事実の歪曲によって、偽りの歴史が定着するからである。

 ところで、陸一心役の上川隆也さん、実父松本耕次役の仲代達也さん、お二人とも若いですね…特に新人で主役に抜擢された上川さんの姿を見ると、当時、あの人は誰と世間が騒いだことを思い出しました。そして、名前の代わりに「大地の子」と呼ばれていました。物語のラスト近くで、製鉄所が完成し、二人だけで記念の三峡川下りの旅に出た時に、船上で実父が思い悩んで「日本に帰ってこないか…」と言うと、一心は、無償の愛で育ててくれた養父母の想いを捨てることができずに、涙を浮かべながら「私は大地の子です…」と言って中国残留を決意したシーンが、あまりにも感動的だったからかもしれません。この作品の好演によって、上川さんはスターへの階段を登られて行ったように思います。



仲代さんは言うまでもなく、当時すでに大スターでしたが、年月が流れ、今年、文化勲章を受章されました。親授式をテレビのニュースで拝見していたら、お姿が見えずに不思議に思っていたら、芝居の公演と重なって欠席されたとのことでした。役者の世界は、親の死に目にも会えない世界だとは聞いていましたが、栄えある日に、一役者として、地方の舞台に上がるというのも凄いですね…役者としての生き様を見たような気がしました。

2015年12月16日水曜日

エホバの証人の宣教で思うこと

最近、ときおりエホバの証人の方が宣教に来られる。以前にも来られていたことがあるのだが、今度の方は違う方のようだ。いつもきまって週の後半の午前十一時前後に来られる。どこから来られているのかは知らないが、歩いて一軒一軒回られているようだ。人当たりもソフトで、信仰心の強い方だなと思わざるを得ない。私には到底出来ることではない様に思う。
 最初はインターホン越しに「聖書をお持ちですか」と聞かれたので「持っています。」と答えると少し驚かれたようだった。私が地元のカトリック系の短大を卒業したと言うと理解されたようで、「私たちが使っている聖書とは、訳が少し違うのかもしれませんね」と言われた。そして「郵便受けにパンフレットを入れて置きますので読んでください。」と言われて帰られた。
 しばらくして郵便受けを見に行くと、小冊子が二冊(ものみの塔・目覚めよ!)が入っていた。私は取り出すと家に持ち帰って、小冊子を開くこともなく無造作にテーブルの上に置いた。
 実を言うと、遠い昔の学生時代に、ご指導を受けていたシスターから「プロテスタントの教会に行ってもいいけど、エホバの証人だけはやめときなさい…」と言われた記憶がある。「あそこは、ちょっと変わっているから…」と…その当時、手術をする際に輸血を拒否したり、血液の代わりに生理食塩水を使うように要求したりして、社会問題にもなっていた。
 確か聖書に、それらしき理由を記した箇所があったような気もするのだが、クリスチャンではない私には、今となっては忘れてしまってどうでもよいことだった。ただその当時、極端な解釈だなと思った記憶が残っている。

 一二週間後、また同じ時間帯にやってこられて「パンフレットは読んで頂けましたか…」
と聞かれたので、私が「いいえ…」と答えると、今度は、はがき大のカードをインターホンのカメラに向けられて「聖書の言葉を書いておきましたので読んでください。郵便受けに入れておきますから…」と言われて帰られた。私は「そこまでしなくても…」と思いつつ、しばらくしてカードを取りに行った。
 カードには綺麗な字で、表題として「どうすれば幸せになれますか」と書かれ、聖書の言葉と解釈が次のように書かれていた。
 「命を支える物と身をおおう物とがあれば、わたしたちはそれで満足するのです」
テモテ第一6:8
 家族が必要としているのは食物と衣服だけではありません。住む場所も必要です子供には教育が必要です。そのほかにも医療費などの諸経費がかかります。それでも、自分の欲しいものを際限なく手に入れるのではなく、必要を満たすことで満足するなら、生活はもっと楽になります。

 要は、「華燭に溺れず、足るを知れ…」と言いたいのでしょうが、人の幸不幸にはいろいろあるし、私のような素人には、この文章だけでは、なかなか悟りが開けないように思った。いきなりテモテ第一6:8と言われても、マイナー過ぎて「これ何」と思った。「マテオやマルコなら聞き覚えがあるけど…」と…
 そう思いつつ、自分の聖書を手に取って目次を開いてみると、巻末近くに「ティモテオへの前の手紙」というのがあった。私は、68節を開いてみると次のように書かれていた。
 「食べるものと着るものとがあれば、それで満足しなければならない。」
 私は、「何じゃ!これで幸せになれるのか…」と思いつつ、段落の変わった6節までさかのぼって読んでみた。
 「たしかに、足ることを知る人々にとっては、敬虔(けいけん)は利益の道である。私たちは何も持たずにこの世に来て、また何も持って去ることができない。食べるものと着るものがあれば、それで満足しなければならない。ところが、富をもとめる人々は、(いざな)いとわなと、人間を堕落と滅亡とに落とし込む愚かな()ずかしい欲望におちいる。実に、すべての悪の根は、金への執心である。それを得て信仰から迷い、さまざまの苦しみをもって自分自身をさし貫いた人々がある。」
 どうやら、私の直感は当たっているようで「華燭に溺れず、足るを知ることが、幸せへの道につながる…」のだろうと思った。このティモテオへの前の手紙は、そう長くなく、最初から読んでみるとパウロが弟子のティモテオへ送った手紙のようだ。
 パウロはティモテオに「ある人々に違った教えをのべさせないようにせよ…」と書いている。この当時からすでに分派活動が行われていたのだろうか…二千年後の現在、プロテスタントの中に様々な宗派があるのは仕方がないことなのかもしれない。聖書を伝える言語が変われば訳も変わる。ただ、三位一体を否定されると新約聖書の根底が崩れるのではなかろうか。なぜこのようなことを書くかと言えば、エホバの証人で検索してみると、ウィキペディアに「聖書は主に新世界訳聖書を使用する。三位一体などの教義を否定する立場を取るため、主流派キリスト教界からは異端もしくはキリスト教ではないとされる。」と書かれていたからである。神に祈るとき「父と子と聖霊との御名によりてアーメン」と唱えるようにと教えられた私には違和感が大きすぎたからである。
とは言え、久しく読まなかった聖書を読むきっかけを作ってくれたのはエホバの証人の伝道者であったことは間違いない。良しとしなければ成らないのかも知れない。元来、私は自身のことを「石地にまかれた種」と思っていた。だが、種は未だに枯れていないようだ。路側帯や側溝の隙間で、いびつな形に育ったド根性大根のように…決して店頭に並ぶことはないが、大根には違いない…


追記

その後、来訪が続き、カードが数枚たまった。インターホン越しで応対をしていたら、画像や音声が途中で切れたりして、意思の疎通が上手くいかなくなり、私はついに玄関のドアを開けてしまった。すると今度は、文庫本サイズのマタイによる福音書を手渡された。自分の聖書が読みやすいのにと思いつつ、何も言えずに受け取った。まあ、ひまを見つけて新世界訳と自分の聖書を比較してみようかなとも思った。また機会があればブログにでも書いてみようかな…