最近、ときおりエホバの証人の方が宣教に来られる。以前にも来られていたことがあるのだが、今度の方は違う方のようだ。いつもきまって週の後半の午前十一時前後に来られる。どこから来られているのかは知らないが、歩いて一軒一軒回られているようだ。人当たりもソフトで、信仰心の強い方だなと思わざるを得ない。私には到底出来ることではない様に思う。
最初はインターホン越しに「聖書をお持ちですか…」と聞かれたので「持っています。」と答えると少し驚かれたようだった。私が地元のカトリック系の短大を卒業したと言うと理解されたようで、「私たちが使っている聖書とは、訳が少し違うのかもしれませんね…」と言われた。そして「郵便受けにパンフレットを入れて置きますので読んでください。」と言われて帰られた。
しばらくして郵便受けを見に行くと、小冊子が二冊(ものみの塔・目覚めよ!)が入っていた。私は取り出すと家に持ち帰って、小冊子を開くこともなく無造作にテーブルの上に置いた。
実を言うと、遠い昔の学生時代に、ご指導を受けていたシスターから「プロテスタントの教会に行ってもいいけど、エホバの証人だけはやめときなさい…」と言われた記憶がある。「あそこは、ちょっと変わっているから…」と…その当時、手術をする際に輸血を拒否したり、血液の代わりに生理食塩水を使うように要求したりして、社会問題にもなっていた。
確か聖書に、それらしき理由を記した箇所があったような気もするのだが、クリスチャンではない私には、今となっては忘れてしまってどうでもよいことだった。ただその当時、極端な解釈だなと思った記憶が残っている。
一二週間後、また同じ時間帯にやってこられて「パンフレットは読んで頂けましたか…」
と聞かれたので、私が「いいえ…」と答えると、今度は、はがき大のカードをインターホンのカメラに向けられて「聖書の言葉を書いておきましたので読んでください。郵便受けに入れておきますから…」と言われて帰られた。私は「そこまでしなくても…」と思いつつ、しばらくしてカードを取りに行った。
カードには綺麗な字で、表題として「どうすれば幸せになれますか」と書かれ、聖書の言葉と解釈が次のように書かれていた。
「命を支える物と身をおおう物とがあれば、わたしたちはそれで満足するのです」
テモテ第一6:8
家族が必要としているのは食物と衣服だけではありません。住む場所も必要です子供には教育が必要です。そのほかにも医療費などの諸経費がかかります。それでも、自分の欲しいものを際限なく手に入れるのではなく、必要を満たすことで満足するなら、生活はもっと楽になります。
要は、「華燭に溺れず、足るを知れ…」と言いたいのでしょうが、人の幸不幸にはいろいろあるし、私のような素人には、この文章だけでは、なかなか悟りが開けないように思った。いきなりテモテ第一6:8と言われても、マイナー過ぎて「これ何」と思った。「マテオやマルコなら聞き覚えがあるけど…」と…
そう思いつつ、自分の聖書を手に取って目次を開いてみると、巻末近くに「ティモテオへの前の手紙」というのがあった。私は、6章8節を開いてみると次のように書かれていた。
「食べるものと着るものとがあれば、それで満足しなければならない。」
私は、「何じゃ!これで幸せになれるのか…」と思いつつ、段落の変わった6節までさかのぼって読んでみた。
「たしかに、足ることを知る人々にとっては、敬虔は利益の道である。私たちは何も持たずにこの世に来て、また何も持って去ることができない。食べるものと着るものがあれば、それで満足しなければならない。ところが、富をもとめる人々は、誘いとわなと、人間を堕落と滅亡とに落とし込む愚かな恥ずかしい欲望におちいる。実に、すべての悪の根は、金への執心である。それを得て信仰から迷い、さまざまの苦しみをもって自分自身をさし貫いた人々がある。」
どうやら、私の直感は当たっているようで「華燭に溺れず、足るを知ることが、幸せへの道につながる…」のだろうと思った。このティモテオへの前の手紙は、そう長くなく、最初から読んでみるとパウロが弟子のティモテオへ送った手紙のようだ。
パウロはティモテオに「ある人々に違った教えをのべさせないようにせよ…」と書いている。この当時からすでに分派活動が行われていたのだろうか…二千年後の現在、プロテスタントの中に様々な宗派があるのは仕方がないことなのかもしれない。聖書を伝える言語が変われば訳も変わる。ただ、三位一体を否定されると新約聖書の根底が崩れるのではなかろうか。なぜこのようなことを書くかと言えば、エホバの証人で検索してみると、ウィキペディアに「聖書は主に新世界訳聖書を使用する。三位一体などの教義を否定する立場を取るため、主流派キリスト教界からは異端もしくはキリスト教ではないとされる。」と書かれていたからである。神に祈るとき「父と子と聖霊との御名によりてアーメン」と唱えるようにと教えられた私には違和感が大きすぎたからである。
とは言え、久しく読まなかった聖書を読むきっかけを作ってくれたのはエホバの証人の伝道者であったことは間違いない。良しとしなければ成らないのかも知れない。元来、私は自身のことを「石地にまかれた種」と思っていた。だが、種は未だに枯れていないようだ。路側帯や側溝の隙間で、いびつな形に育ったド根性大根のように…決して店頭に並ぶことはないが、大根には違いない…
追記
その後、来訪が続き、カードが数枚たまった。インターホン越しで応対をしていたら、画像や音声が途中で切れたりして、意思の疎通が上手くいかなくなり、私はついに玄関のドアを開けてしまった。すると今度は、文庫本サイズのマタイによる福音書を手渡された。自分の聖書が読みやすいのにと思いつつ、何も言えずに受け取った。まあ、ひまを見つけて新世界訳と自分の聖書を比較してみようかなとも思った。また機会があればブログにでも書いてみようかな…
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