2015年12月29日火曜日

「大地の子」の再放送を見て思うこと



「大地の子」の再放送を見て思うこと

 NHKBSのアンコールドラマ「大地の子」を録画で一気に見た。二十年前の作品とは思えない感動がよみがえってきた。さすがにモンテカルロ国際テレビ祭で最優秀作品賞を受賞し、国内では、平成七年度芸術作品賞を受賞しただけあって、日本にも中国にも偏らず、人間のすべての感情(恨み・妬み・差別・良心・親子隣人への愛情…)が描かれていたように思う。戦争とは惨いものだな、終わった後もこれだけの悲劇を残すのかと今更ながら感じた。しかし、二十年前に見た、断片的な記憶の映像と、いま視覚で捉えた映像が重なった時に、時代の世情の違いも感じ取った。途上国で援助を必要としていた中国が、改革開放で経済大国となり、尖閣諸島や南沙諸島では脅威となっている…韓国をも含めて、反日的思想にどのように対応すべきかと…

 原作者の山崎豊子さんが亡くなられて二年が過ぎ、今年(2015年)は、日本中が安全保障問題に明け暮れ、嫌韓・嫌中がはびこった。これはNHKの確信的再放送だったのかも知れない。もう一度冷静になって、戦争の悲惨さや戦前戦後の日本人の贖罪(しょくざい)について考えるべきではという…ならば、BSではなく地上波で再放送すべきではなかったかとも思う。

 聖書(マテオ第73節―5節)には次のように書いてある。
 「なぜ、兄弟の目にあるわらくずをみて、自分の目にある梁に気をとめないのか。また、自分の目に梁があるのに、なぜ、兄弟にむかって、あなたの目のわらくずを取らせてくれといえるのか。偽善者よ、まず、自分の目から梁をとり去るがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目のわらくずも取ることができよう。」

 しかし、これを実行することは、非常に難しいことのように思う。人と人との間では、まだできるかもしれない。失敗すれば自己責任で済むから…けれど、国と国との間では、誰が責任を取るのか。それは政府に決まっている。しかし政府は、国民の利益と安全を一番に考えなければならない。よって、確率の低いものに、国民の利益と安全を掛けることができない。国は奇跡を待ち望んではいけないということだ。ただ、政府を率いる者の心の片隅で、自国の目に梁があることを認識していれば、よりましな行動が取れるのかも知れない。

 戦後七十年、日中・日韓、それぞれに言い分はあると思う。どこかで妥協をしなければ関係改善は築けない。それとは別に、学者の歴史の真実の追及に、政治が圧力を掛けるべきではない。この問題は複雑で、なかなか解答が出ないように思う。ただ、毅然とした対応が必要だとも思う。事実の歪曲によって、偽りの歴史が定着するからである。

 ところで、陸一心役の上川隆也さん、実父松本耕次役の仲代達也さん、お二人とも若いですね…特に新人で主役に抜擢された上川さんの姿を見ると、当時、あの人は誰と世間が騒いだことを思い出しました。そして、名前の代わりに「大地の子」と呼ばれていました。物語のラスト近くで、製鉄所が完成し、二人だけで記念の三峡川下りの旅に出た時に、船上で実父が思い悩んで「日本に帰ってこないか…」と言うと、一心は、無償の愛で育ててくれた養父母の想いを捨てることができずに、涙を浮かべながら「私は大地の子です…」と言って中国残留を決意したシーンが、あまりにも感動的だったからかもしれません。この作品の好演によって、上川さんはスターへの階段を登られて行ったように思います。



仲代さんは言うまでもなく、当時すでに大スターでしたが、年月が流れ、今年、文化勲章を受章されました。親授式をテレビのニュースで拝見していたら、お姿が見えずに不思議に思っていたら、芝居の公演と重なって欠席されたとのことでした。役者の世界は、親の死に目にも会えない世界だとは聞いていましたが、栄えある日に、一役者として、地方の舞台に上がるというのも凄いですね…役者としての生き様を見たような気がしました。

2015年12月16日水曜日

エホバの証人の宣教で思うこと

最近、ときおりエホバの証人の方が宣教に来られる。以前にも来られていたことがあるのだが、今度の方は違う方のようだ。いつもきまって週の後半の午前十一時前後に来られる。どこから来られているのかは知らないが、歩いて一軒一軒回られているようだ。人当たりもソフトで、信仰心の強い方だなと思わざるを得ない。私には到底出来ることではない様に思う。
 最初はインターホン越しに「聖書をお持ちですか」と聞かれたので「持っています。」と答えると少し驚かれたようだった。私が地元のカトリック系の短大を卒業したと言うと理解されたようで、「私たちが使っている聖書とは、訳が少し違うのかもしれませんね」と言われた。そして「郵便受けにパンフレットを入れて置きますので読んでください。」と言われて帰られた。
 しばらくして郵便受けを見に行くと、小冊子が二冊(ものみの塔・目覚めよ!)が入っていた。私は取り出すと家に持ち帰って、小冊子を開くこともなく無造作にテーブルの上に置いた。
 実を言うと、遠い昔の学生時代に、ご指導を受けていたシスターから「プロテスタントの教会に行ってもいいけど、エホバの証人だけはやめときなさい…」と言われた記憶がある。「あそこは、ちょっと変わっているから…」と…その当時、手術をする際に輸血を拒否したり、血液の代わりに生理食塩水を使うように要求したりして、社会問題にもなっていた。
 確か聖書に、それらしき理由を記した箇所があったような気もするのだが、クリスチャンではない私には、今となっては忘れてしまってどうでもよいことだった。ただその当時、極端な解釈だなと思った記憶が残っている。

 一二週間後、また同じ時間帯にやってこられて「パンフレットは読んで頂けましたか…」
と聞かれたので、私が「いいえ…」と答えると、今度は、はがき大のカードをインターホンのカメラに向けられて「聖書の言葉を書いておきましたので読んでください。郵便受けに入れておきますから…」と言われて帰られた。私は「そこまでしなくても…」と思いつつ、しばらくしてカードを取りに行った。
 カードには綺麗な字で、表題として「どうすれば幸せになれますか」と書かれ、聖書の言葉と解釈が次のように書かれていた。
 「命を支える物と身をおおう物とがあれば、わたしたちはそれで満足するのです」
テモテ第一6:8
 家族が必要としているのは食物と衣服だけではありません。住む場所も必要です子供には教育が必要です。そのほかにも医療費などの諸経費がかかります。それでも、自分の欲しいものを際限なく手に入れるのではなく、必要を満たすことで満足するなら、生活はもっと楽になります。

 要は、「華燭に溺れず、足るを知れ…」と言いたいのでしょうが、人の幸不幸にはいろいろあるし、私のような素人には、この文章だけでは、なかなか悟りが開けないように思った。いきなりテモテ第一6:8と言われても、マイナー過ぎて「これ何」と思った。「マテオやマルコなら聞き覚えがあるけど…」と…
 そう思いつつ、自分の聖書を手に取って目次を開いてみると、巻末近くに「ティモテオへの前の手紙」というのがあった。私は、68節を開いてみると次のように書かれていた。
 「食べるものと着るものとがあれば、それで満足しなければならない。」
 私は、「何じゃ!これで幸せになれるのか…」と思いつつ、段落の変わった6節までさかのぼって読んでみた。
 「たしかに、足ることを知る人々にとっては、敬虔(けいけん)は利益の道である。私たちは何も持たずにこの世に来て、また何も持って去ることができない。食べるものと着るものがあれば、それで満足しなければならない。ところが、富をもとめる人々は、(いざな)いとわなと、人間を堕落と滅亡とに落とし込む愚かな()ずかしい欲望におちいる。実に、すべての悪の根は、金への執心である。それを得て信仰から迷い、さまざまの苦しみをもって自分自身をさし貫いた人々がある。」
 どうやら、私の直感は当たっているようで「華燭に溺れず、足るを知ることが、幸せへの道につながる…」のだろうと思った。このティモテオへの前の手紙は、そう長くなく、最初から読んでみるとパウロが弟子のティモテオへ送った手紙のようだ。
 パウロはティモテオに「ある人々に違った教えをのべさせないようにせよ…」と書いている。この当時からすでに分派活動が行われていたのだろうか…二千年後の現在、プロテスタントの中に様々な宗派があるのは仕方がないことなのかもしれない。聖書を伝える言語が変われば訳も変わる。ただ、三位一体を否定されると新約聖書の根底が崩れるのではなかろうか。なぜこのようなことを書くかと言えば、エホバの証人で検索してみると、ウィキペディアに「聖書は主に新世界訳聖書を使用する。三位一体などの教義を否定する立場を取るため、主流派キリスト教界からは異端もしくはキリスト教ではないとされる。」と書かれていたからである。神に祈るとき「父と子と聖霊との御名によりてアーメン」と唱えるようにと教えられた私には違和感が大きすぎたからである。
とは言え、久しく読まなかった聖書を読むきっかけを作ってくれたのはエホバの証人の伝道者であったことは間違いない。良しとしなければ成らないのかも知れない。元来、私は自身のことを「石地にまかれた種」と思っていた。だが、種は未だに枯れていないようだ。路側帯や側溝の隙間で、いびつな形に育ったド根性大根のように…決して店頭に並ぶことはないが、大根には違いない…


追記

その後、来訪が続き、カードが数枚たまった。インターホン越しで応対をしていたら、画像や音声が途中で切れたりして、意思の疎通が上手くいかなくなり、私はついに玄関のドアを開けてしまった。すると今度は、文庫本サイズのマタイによる福音書を手渡された。自分の聖書が読みやすいのにと思いつつ、何も言えずに受け取った。まあ、ひまを見つけて新世界訳と自分の聖書を比較してみようかなとも思った。また機会があればブログにでも書いてみようかな…

2015年11月6日金曜日

祖父の獣魂供養塔

  火災で焼け落ちた屋根から陽が漏れ、今にも朽ち果てようとしている屠畜場跡(福岡県うきは市吉井町)の前に建つ苔むした獣魂供養塔。我が家の言い伝えでは、祖父の書が刻まれていると聞いていた。未だに供えられている花を見て、この供養塔は生きている。いつ取り崩されてもおかしくない供養塔に、思わず感謝の念が湧いてきた。

 事の始まりは、長兄の初盆にお供え物が四国の従兄弟から届いたことにある。従兄弟にお礼の電話をすると「定年前の最後の学会が久留米大学であるので、出席しようかと思うんだけど、お爺さんの書が刻まれている供養塔に案内してくれないか…長女として妹達に言い伝えておこうと思って…」と頼まれた。実を言うと私も行ったことがなかったので、少しためらっていると「石碑はあるんでしょう」と尋ねられた。私は思わず「あります。」と答えながらも、どうしようかと頭を巡らせていると、ふと次兄は、子供の頃、父のバイクの後ろに乗せられて、何度も行っていることを思い出し「私は行ったことがないけど、次兄は行った事があると思うので、聞いて見ます。」と言って電話を切った。

 次兄に電話をして、四国の従兄弟から頼まれたことを伝えると、少し間をおいて、ためらいがちに「おふくろの法事の時、吉井の叔父さん(父の従兄弟)から、屠畜場は火事になって放置されていると聞いたけど、供養塔は、まだあるだろうか……子供のころに何回か親父に連れられて行ったきりで、道も良く覚えてないしね…」と言った。そして「家のことは全て兄貴が仕切っていたから…俺は好く分からない…とにかくまだ先の話だから調べてみよう。供養塔が無くなっているにしても、家にはじっちゃまの卒業証書とか、書類残っていると聞いていたけど探しておいてくれないか…主だった物をコピーしてればもし供養塔が無くなっていても、気が済むかもしれないから…」と言った。
 こうして二人で祖父のことを調べることになるのだが、後に驚きの連続になることをまだ知る由もなかった。

 数日後、次兄がやって来て、爺ちゃまの書類等を「探した…」と聞かれた。
「ある場所は、だいたい分かっていたから、探してざっと目を通したけど、旧字体で私の国語力では解読できない部分が多かったけど…それにしても凄かよ…爺ちゃまが、頭が良かったとは聞いていたけど、あそこまでとは思わんやったよ。獣医学校の成績表が出て来てね。見たら主席で卒業してあった。それも一年から三年まで主席で、特待生授業料免除の書類が出て来たと…卒業の時は、副賞に和英大辞典をもらってあるみたい。」
 次兄は、驚いた様子で「へーそんなのが出て来た。何処にある…」と尋ねた。
 「押入れの中にある。見たら驚くよ。他にもいろいろあるから…」こう言いながら、二人して仏間の押入れへと向かった。

 押入れの襖を開けると、中には数年前に85歳で亡くなった母のタンスが置かれており、タンスの上に棚が作られている。私は棚の上に置かれている木箱を指差して「あの中に入っている。」と言うと、椅子を持って来て木箱を取りだした。
 木箱は杉材で出来ており、縦40cm30cm深さ10cm、ふたの側面に未決、中箱の側面に既決と書いてあった。その昔、如何にも官庁で使われていたと思われる書類箱だった。
 次兄が「随分古めかしい箱やね。」と言いながらふたを開けると、ぎっしりと書類やノートが詰められていた。次兄は無造作に箱の端に筒状に丸めてあった紙を取り出して「これが卒業証書」と言いながら開いた。

 卒業証書は、卒業証明書と二枚重ねになっていたので、取り外そうとした時に、しわになっていた部分が少し破れてしまった。私は思わず「百年近く前の物やから、丁寧に扱わないと…」と言った。
 卒業証書には、大正十年三月二十六日の日付があり、祖父の生年が、明治三十年八月生と書かれていた。つまり、祖父が生きていれば118歳で、94年前に卒業したことになっている。
 次兄が「日本獣医学校となっているけど、大学じゃなかったと…」と聞いた。
 「私も獣医大学と聞いていたけど、専門学校みたいね。考えてみればこの当時の大学に、獣医学部みたいに細分化した学部は無かったろうしね…学生時代の写真を見ると角帽をかぶってあるから、何処かで言い伝えが間違ったのかも知れんね…」


 卒業証明書の方を見ると、紙質も大きさも卒業証書と同じもので、授業を受けた教授陣の名前や役職・位階などが細々と墨で書かれていた。
 「陸軍関係の人が多かね…」
 「この時代には、まだ騎兵隊があったろうしね…兵站にも牛馬が使われていたろうし…陸軍が最先端の技術を持っていたとやろね…」

  私は、次々に重要であると思われる物を取りだして、次兄に見せた。獣医学校時代の物だけでなく、小学校時代の通信簿や書・絵・手書きのノート等、中学時代の絵や作文・英語・数学などの答案用紙・賞状・柔道大会の取り組み表などを見せた。
 私が最も感動したのは、小学生時代の手作りの地理のノートだった。表紙には筆で「地理科」「泉 古一郎」と書かれており、インク壺とペンが描かれていた。裏表紙には、筆で「明治四十二年度・姫治村大字新川・第六学年 泉古一郎・保護者兄 泉盛吉」と書かれていた。ノートを開くと、上段に各地方の地図が手書きで書かれ、下段に注釈が書かれていた。手書きの地図は正確で、小学生が好く書けた物だと呆れてしまった。






次兄は、黒っぽい表紙の手帳の様な物を見つけて「これは何…」と聞いた。表紙には筆で学資控簿と書かれていた。
 「中学校から獣医学校を卒業するまでの仕送りを毎月記録してあるみたいね…」
「中学から?」
「まだ久大本線も無かった時代やから、久留米に下宿しないと明善には通えないでしょう。」
 「誰が仕送りしたと…」
 私は地理のノートの裏表紙を見せながら「それはお兄さんでしょう。お父さん(曾祖父)は、早くに亡くなってあるから…このノートにも、保護者兄 泉盛吉と書いてあるから…」と言った。

(過去帳によると、曾祖父源市は、明治35年に64歳で亡くなられている。祖父は後妻の長男で、この時五歳だった。ちなみに曾祖母エキは、昭和4年に73歳で亡くなられている。)
 「それにしても几帳面やね…」
 「お兄さんに対して、感謝の気持ちがあったとじゃないと…普通なら、これだけの長期間の仕送りは、親でも出来んよ…」

 私は最後に、辞令や賞状を四つ折りにしてまとめてあった物を次兄に渡した。次兄は、その中からセピア色に変色した一枚の辞令に着目した。
 「永川郡畜産同業組合技手を命ずち書いてあるけど、永川郡って福岡県には無いやろう…」
 「浮羽郡は、明治になって、生葉郡と竹野郡とが合併して出来そうよ。五人庄屋を調べていたら、何かの本に書いてあったよ。永川郡も合併して消滅したのかもしれんね…」
 次兄は、納得できない様子で「爺っちゃまは、獣医学校を卒業して吉井に赴任されたとじゃなかと…ちょっと調べてみようかね…」と言った。そして「書類はこれだけ…」と聞いた。私は、遠い記憶をたどりながら話し始めた。
 「昔は、段ボール箱みたいなのが、もう二つ三つ有ったとやけど…」
 「それはどげんしたと…」
 「私が小学生だった頃、(ばば)しゃまの初盆か一周忌だったか覚えけど、浮羽から顔も見たことの無い親戚の人達が葬式の時、何で知らせんやった…』ち言うて来られたでしょう…覚えとらんね…」
 次兄は、記憶の欠片もなさそうに「覚えとらん…」と答えた。
 「吉井の爺ちゃま(祖父の弟)が、お父ちゃんが浮羽の親戚と付き合うのを嫌って知らせちゃないとよ…それで、風の便りかなんかで聞きつけて来られたとやけど…
その時、この書類を全部見せたとやけどね…爺ちゃまの小学校の同級生の習字やら絵が混ざっていたとよ。今で言うタイムカプセルを開けた時のように驚かれてね…同級生がまだ生きてあって…持って帰られたとよ。
残りは、段ボール箱に入っていたせいか、湿気やら虫食いが激しくてね…それで、私が風呂の焚きつけにしたから記憶が残っているとよ…結局残ったのは、これだけたい…婆しゃまは、空襲の時、この箱を持って、防空壕に逃げたそうよ…爺っちゃまの形見やから大切に保管してあったとやろね…」
 「よく覚えとるね…」
 「子供の時の記憶やけん、何処まで確かかは分からんよ…」
 次兄は、書類や絵の中から、重要だと思われる卒業証書や絵・作文などを取り出して「これだけをカラーコピーするから借りて行くよ…」と言うと帰宅した。

 数日後、次兄は祖父の書類とコピー用紙を持って遣って来た。次兄の顔には、誇らしげな頬笑みがあり、それらを差し出しながら「あれからパソコンで検索したとやけど、いくつか新しいことが分かったよ…」と言った。コピーの中には、次兄が独自で探し出した書類も混ざっていた。
 「爺ちゃまが卒業した日本獣医学校は、現在の日本獣医生命科学大学になっていて、日本医科大学と同系列の大学だって…大学のホームページの歴史を印刷したのがこれ…」
 大学のホームページによると1881年(明治14年)9月、東京・小石川に日本最初の私立獣医学校として開校…1911年(明治44年)3月、東京・目黒に校舎を新築移転し、「日本獣医学校」と改称…1949年(昭和24年)2月、「日本獣医畜産大学」の設立を認可され、獣医学科および畜産学科を設置…1952年(昭和27年)4月、学校法人「日本医科大学」と合併…2006年(平成18年)4月、「日本獣医生命科学大学」へ校名を変更と書かれていた。
 「好く調べたね…」
 「それがまだあると…永川郡で検索したら、朝鮮のヨンチョン郡が出て来たと…」
 私は驚いて思わず「朝鮮のヨンチョン」と復唱してしまった。
 「爺ちゃまが、朝鮮におっちゃったち聞いたことある…」
 「初耳やけど…」
 「永川は朝鮮語ではヨンチョンち発音するみたいよ…それで他に手掛かりはないかと思って、検索を続けたら、神戸大学の図書館のファイルに1919年(大正8年)112日付けの大阪朝日新聞の記事が出て来たと…それがこれ…」次兄は、書類の中から新聞記事のコピーを探し出すと、私に見せてくれた。
 大阪朝日新聞の記事は、当然旧字体で書かれていた。私には、即座には何が書かれているか理解することは出来なかった。
 「うあ~漢文調で、難しそうな漢字ばかりやね…私に読める訳がなかろう…」
 「俺も理系やけんで、あんまり分からんけど…獣医が不足していたみたいね。下の方に永川という地名が出て来るやろう…今の慶尚北道ヨンチョン市たい。」
 私は「う~ん」と唸りながら黙りこんでしまった。
 「どげん思う…」
 「わからん…お父ちゃんに、叔母ちゃん伯父ちゃん、子供の代まで、みんな死じゃるけんね…誰に聞きようもないしね…」
 「せめて兄貴が生きとったら、少しは分かるかもしれんけどね…」

 「そうやね。長兄ちゃんなら知っとったかも知れんね…でも、あり得ぬ話ではないと思うよ。この時代の交通アクセスを考えたら、久留米から東京に行くよりも、博多で船に乗り換えて釜山に行く方が近かったと思うよ。ヨンチョンは釜山の近くみたいやし…」私はこう言うと、ふと頭の中に、セピア色の微かな映像が甦って来た。そして「ちょっと待って」と言うと、仏間の押入れの襖をあけ、父の古いアルバムを取り出して一枚の写真を探し始めた。
 「あった~これこれ…見て…」
 「また古か写真やね…」
 「山高帽をかぶってある人が爺ちゃま、その隣が婆しゃま、その隣の子供が正子おばちゃん(祖母の妹)たい…」
 「この子供が正子おばちゃんち、何で分かると…」
 「正子おばちゃんの面影があろうが…」
 祖母の妹には子供がいなく、私を自分の子供のように可愛がってくれていた。兄弟三人のうち、祖母の妹と一番接点があったのは私だった。
 「正子おばちゃんやったか、お父ちゃんやったか忘れたけど、何か聞いた記憶が微かにある…それに、正子おばちゃんは明治45年生まれやから、婆しゃまとの歳の差が13歳ち聞いとるけん、大正時代に撮った写真なら辻褄が合うやろ…」
 次兄は、半信半疑という感じで「何でお前が、そこまで覚えていると…」と聞いた。私は、仏間の壁に飾ってある祖父の遺影を指差して「あの写真の原本がこの写真たい」と答えた。次兄は、まじまじと写真を見比べながら「ほんなこと…」と言った。
 「婆しゃまが死なはって、遺影を飾る時に、一人じゃ寂しかろうち言うて、お父ちゃんが写真館で引き伸ばしたと…それで覚えとるとたい…」
 次兄は、感心するように「よう覚えとるね…」と言った。私はそれよりも、この写真の背景が気になっていた。
 「それで、後ろに立っている二人の男の人の服装は、日本人じゃなかろう…朝鮮の人ち聞いたような、聞かんような…」

 私は、断定する程の自信は無かった。しかし次の瞬間だった。隣のページの写真が目に入ったのは…その写真は、祖父の職場での記念写真のようであった。前列に背広を着た人たちが座っており、後列に白っぽい服を着た人たちが立っていた。ただ、あまりにも古い写真で、鮮明さに欠けていた。
 「この写真にも同じような服装の人が写っとるよ…」
「爺っちゃまはどこにおっちゃる。」
「前列の一番左たい。」
「ほんなこつ…」
そして私は、建物の柱に掛けてあった看板に気がついた。
 「見て見て、この看板の字を…永が切れて写ってないけど、永川郡畜産同業組合じゃないと…」
 次兄は、父のアルバムを手にとり、じっと写真を見つめた。建物の柱に掛けてあった看板の文字が読みとれたのか「ほんなこと…永は切れとるけど、後の字は全部ある。」と言った。これでヨンチョンと祖父が繋がった。次兄は困惑した表情で「ほんなら、お父ちゃんは朝鮮で生まれたと…爺っちゃまは吉井に何時赴任せらはったと…」と聞いた。私は「お父ちゃんは、朝鮮では生まれてなかろう。吉井ち思うよ…」と答えると立ち上がり、椅子を持って来て、押入れの棚から祖父の書類箱を取り出した。その中から辞令の束を見つけると、年代順に並べた。
 永川郡に赴任したのは、辞令によると獣医学校を卒業した半年後の大正十年十一月八日だった。次に、大正十二年八月三十一日の日付の辞令に、福岡県衛生技手に任ずと書いてあった。また、同じ日付の辞令がもう一枚あり、それには福岡県警察獣医を命ずと書いてあった。おそらく、この日付で吉井町に赴任されたと思われる。
 吉井町は、久留米の城下町と天領日田とをつなぐ街道の宿場町として栄え、江戸時代には、五人庄屋が筑後川に堰を造り、荒れ野を穀倉地帯へと変えた。明治になってからは、用水路の水力を利用して、製粉業が盛んになっており、郡役所やその他の官庁も置かれていた。
 「警察の獣医もしよっちゃったと…」
 「同じ日付やから、兼職じゃなかったとかな…」
 最後に、昭和七年三月二十六日の日付の辞令に、願に依り本職を免ずと書いてあった。
 「結局、吉井には十年ぐらいしかおっちゃなかったと…」
 「もともと実家は姫治村やけんね…今じゃ同じうきは市ばってんね…」
 次兄は、感慨深げに「この後すぐに久留米に出て、一年後に亡くなっちゃるとか…昔、
伯父ちゃんに聞いたとやけど、今で言う動物病院ば開業する為に久留米に出られたち…」と言った。
 祖父が三十七歳の若さで亡くなると、父の生活は激変したそうだ。祖母は、裁縫で身を立てて子供四人を育てたそうだが、生活は苦しく、父は浮羽の親戚に何度か預けられたそうだ。小学校を卒業して、明善中学に入学したのだが、学費が続かず夜間に転部して、市役所の給仕をしながら卒業したそうだ。そんな父の心の支えが、屠畜場の獣魂供養塔だと聞いていた。
次兄は、並べた辞令を食い入るように見ながら「これを見ると、親父は大正十四年生まれやから、吉井で生まれとるたい…ほんなら叔母ちゃんは…」と言った。
 「叔母ちゃんは、お父ちゃんより二つ年上やけんで、大正十二年生まれやけん朝鮮で生まれちゃる可能性もあるね。ただ、これ以上は分からんよ…」
 「まあ、これだけ調べたとやけん、きちっと説明してコピーばやれば、もし供養塔が無くなっていても納得してくれるやろう…」
 「そうやね…」
 次兄は「コピー用紙は、しわが寄らないように保管しておいて…」と言うと帰宅した。次兄が居る時には気付かなかったのだが、ふと気付いたことがある。叔母の名前は永子(えいこ)だった。ヨンチョンのヨン(永)が使われていることを…偶然かも知れないが、私は必然だと思った。

 九月に入った日曜日に次兄がやってきた。いつもなら、朝早く来て、仏壇に手を合わせ、お茶を一杯飲んで、ジムに行って汗を流すのが、休日の次兄のルーティーンなのだが、この日は午前十一時ぐらいに遣って来た。
 私は御茶の用意をしながら「えらい中途半端な時間に来たね。先にジムに行ったと…」と尋ねた。
 「いや、今日は朝早く起きて、吉井に言って来た。その帰りたい。」
 「吉井に…」
 「供養塔が、有るか無いか考えても仕方がないけんで…行った方が早かろうち思たと…カーナビを見ながら行ってみたら、子供の時の記憶が残っとって、するすると行けた。」
 「そいで供養塔は有ったね。」
 「有った…そうばってん、囲いばしてあって中に入られんごとなっとった…そばにある建物が、吉井の伯父ちゃんが言いよっちゃったごと、火事で屋根が抜け落ちて、陽が漏れて見えるとよ…」
 「それからどげんした…」
 「日曜やけんかも知れんけど、人が誰もおらんやったけんで、脇の方から、こそっと入って写真ば撮って来た。」

 次兄は、携帯をポーチから取り出すと自慢そうに写真を見せてくれた。苔むした台座の上に、獣魂供養塔と刻まれた石塔が写っていた。私は感動して、思わず「これが爺っちゃまの供養塔か…」と言った。
 「供養塔の後ろの建物ば見てんね。屋根が抜け落ちて光が見えるやろ…もう、いつ取り崩されてもおかしくなかち言うか…放置してあること事態が不思議ち思うよ。」
 私は、写真をじっと見つめながら「これは供養塔も、いつ取り崩されても仕方なかね…よか時に、写真ば撮ったっちゃなかと…記録に残せてよかったよ。何か虫が知らせたとかも知れんね…泉の家にとっては大事な供養塔でも他の人には関係なかけんね…」
 「俺もそげん思う…爺っちゃまの名前が刻まれてないかと思て見たけど、台座には寄進した人の名前と大正十四年十二月に建てたちしか刻まれとらんやった…」
 「不思議やね…お父ちゃんが生まれた年に建てられたとか…」
 私は母の言葉を思い出していた。「お父ちゃんは、五十二歳で亡くなるまで、好きにつけ悪しきにつけ、何か事があるたびにお参りに行きよっちゃった…」と…父にとって、この供養塔は、幼い時に亡くなった祖父の霊と触れ合い、自分をさらけ出せる場所だったのかも知れないと思った。
 その時、私は、供養塔の台座に花が飾られていることに気付いた。
 「うわ~見て見て、花が飾っちゃるよ…まだ誰かお参りしよっちゃっとよ…この供養塔は、まだ生きとるとよ…」私の心には、感謝の念が湧いてきた。次兄も同様だったに違いない…
 次兄は「この写真も遣ろうかね…お前、写真の焼き増し出来るやろう。メールで写真を送るから、焼き増しをしてくれないか…」と言うと帰宅した。私は後日、パソコンで写真の焼き増しをし、私のプリンターで出来る範囲で、辞令や賞状などのコピーを追加した。
 四国の従兄弟は、九月の中旬過ぎの週末に遣って来た。家族が集まって食事会をしながら、写真や書類の説明をしたのは言うまでも無い。そして、従兄弟の学会の日程の合間を見て、次兄が吉井の獣魂供養塔に案内した。その後、従兄弟は満足して四国に帰ったようだ…
 この一月、私達は不思議な体験をしたような気がする。黄泉の国に旅立った、長兄の置き手紙だったのかもしれない。


追記

 大阪朝日新聞1919年(大正8年)112日の記事を読んで見た。
 この記事は、朝鮮慶尚北道藤川道知事の畜産技術員への訓示を記載している。要約すると、慶尚北道は、古来より良牛の産地で、併合以前は畜牛数十万三千頭だったのが、現在は十六万八千頭に増加しているが、施設経営に改善努力の余地がある。また、内地における畜牛の需要が増加しており、農民を善導し改良増殖に努力を要す。
 家畜衛生思想の普及発達の為に努力し、自らの技術を研き、地元の牛医を教育指導せよ。また、家畜の伝染病の蔓延の兆しがあるので、予防消毒を行うなど予防制圧に努めて欲しい…
 畜産の増殖改善は、みだりに新規の施設を試み急激な改良を強いてはいけない…今春騒擾以来民心未だ安静を見るに至らず、動揺させないように慎重に考慮し、民風習慣を参酌し、堅実に発達させ、民衆の福利増進に努めよ…
指導奨励は、熱心と温情で接し、懇切な実地指導をするように……等と書いてある。

 この記事で気になったのは、指導員の重要性もだが、今春騒擾以来民心未だに安静を見るに至らず…という文だ。今春騒擾とは、三・一独立運動のようである。道知事の道民に対する温情が見えるような気もするが、異民族の統治の難しさが垣間見えるような気もする。ちなみに朝鮮併合は、1910年(明治43年)だから、九年後の記事である。祖父は記事の二年後に永川郡(ヨンチョン郡)に赴任したことになる。

 原文は次の通りです。(ルビが間違っていたらごめんなさい)


新聞記事文庫:大阪朝日新聞1919.11.2

新聞記事文庫 畜産業(2-135
大阪朝日新聞 1919.11.2(大正8


慶北畜産

道知事の訓示

慶北道にては(この)(たび)道内の畜産技術員を召集し畜産会議を開きたるが其際藤川道知事のなしたる訓示左の如し(大邱)
 (ここ)に畜産技術員を召集し親しく畜産の状況を聴取し(かつ)(この)機会に於て所思の一端を告ぐるは本官の欣幸(きんこう)とする所なり
 (おも)うに畜産は国家重要の産業にして労力肥料及食料品として(はた)(また)工芸原料として(その)需要は(いよいよ)多き加うるに至り(これ)(しん)()は産業経済両方面に及ぼす所(まこと)深甚(しんじん)なるものあり(ひるがえ)て本道の畜産界を観察するに近時大いに其面目を一新し向上発展の機運に向かいつつありと(いえど)其の施設経営に至りては尚改善努力の余地(すこぶ)る多きを認む(こと)に戦後世界の大勢は自作自給の方針に向かい着々其計画を樹立しつつあり此秋に方り之が増殖振興を企図(きと)するは(まこと)に現下の最大要事と()わざるべからず
 畜牛は農業の要素にして地方経済上及各種産業上関係する所(すこぶる)広く将来農工業の進歩発達に伴い其需要は益増加の趨勢(すうせい)にあるを以て(つと)に之が改良増殖に主力を傾注したる所以(ゆえん)なり本道は朝鮮に()ける有数の産牛地にして古来良牛を産し土地(また)肥沃にして広大なる耕地を有する理想的農業地なり(まこと)に之が飼養(しよう)の奨励も亦農耕を基礎とし其面積を標準とせざるべからず本道新政当時の畜牛数は十万三千余頭に過ぎざりしも今や移出牛の激増を以てして尚十六万八千余頭の現在数を算すと(いえども)之を耕地面積に対照するときは一頭当たり二町三段歩にして農家十戸に対し五頭余に相当し(いず)れも尚将来増殖の余地多きを認む(こと)に一面内地に於ける畜牛の需要は(ますます)増加し供給は之に伴わずして其不足は之を我に求むる(いよいよ)多きを加え将来益増加の趨勢(すうせい)にあり従て牛価の昂騰(こうとう)を来し飼養(しよう)生産の利潤亦昔日(せきじつ)の比にあらず其影響は畜牛の移動を多からしめ動もすれば良牛を抜き去らるるの傾向なきにあらず此際之が調節を計ると共に畜牛の増飼を奨励するは最機宜(きぎ)に適したるものと認む宜しく農民を善導し之が改良増殖に一段の努力を要す
 種畜の供給に関しては保護牛の設置ありと(いえども)未だ之が所要を(みた)すに足らず畜産同業組合の活動に依り其及ばざるを補いつつあるも其資質に至りては尚遺憾の点少なからず是等に対しては漸次(ぜんじ)淘汰を行い以て之が向上を計り或いは種畜部落の設置に依り系統的蕃殖を以て優良種畜補給の方法を講ずる等種畜の改善供給に関し遺憾なきを期すべし
 飼料の供給を豊富ならしむるは畜牛改良増殖上の一要件なりとす(しか)るに冬季飼料たる(ほし)草貯蔵の如き未だ所期の目的を達するに至らず宜しく牧野設置の確実を期し之に保護を加え野草の改良及刈取貯蔵の奨励緑肥(りょくひ)及農産物等の利用に依り之が供給を潤沢ならしむる畜産同業組合は畜産改良増殖の中枢機関にして其財政(はかり)独立し事業亦順調に発達し成績の見るべきものあるに至れり(こと)に本年に(おい)て連合会の設置を見るに至りしは(まこと)に嬉ぶべき現象なりとす(しか)してその事業の発達如何(いかん)は主として技術員の精励(せいれい)努力に()たざるべからず諸子は一面組合職員として之が経営指導の任にあるものなれば事業施行に際しては細密周到なる注意を払い事の緩急を考慮し冗費(じょうひ)(はぶ)き以て穏健なる発達を期すべし
 近く連合会の経営せんとする畜牛共済事業は組合員相互の救済に依り其飼養の安全を期し以て良牛を飼育せしめんとするの施設なるを以て実施の暁には趣旨の普及徹底を図り事業遂行上遺憾なきを期すべし
 家畜衛生の普及発達如何(いかん)は畜産の消長及公衆衛生に関連する所(すこぶ)る大なるものあり諸子は直接其(しょう)に当るものなれば宜しく自ら技を研き牛医の教育指導に努め以て衛生の施設を完備し患畜の合理的治療を施すと共に一面講習講和等を行い以て家畜衛生思想の普及発達に努力すべし本道に於て発生する獣疫中最も被害の多きは気腫疽(きしゅそ)にして此年其跡を絶たず常時存在するの現況なるを以て其発生に際しては診断の適確系統の追究に留意し厳密なる消毒を行い其伝播を未然に防止し蔓延の(きざし)あるに於ては直ぐに予防消毒を行う等之が予防制遏(せいあつ)に努め以て撲滅を期すべし
 流行性()(こう)(そう)は本春西鮮地方よりの移出牛の病毒携帯に依り永川及達城の二郡に突発したるも(わずか)に十六頭にして終熄(しゅうそく)し一頭の(へい)(じゅう)をも出さざりしは防疫上の処置宜しきを得たるものにして満足すべき成績なりとす(しか)るに今又西鮮地方に其の発生の報あり之が来襲誠に測り難きものあり此際一層の警戒を要す
 養豚養鶏は共に農家の副業中最も有利なる事業にして又農家に好適せる家庭的事業なり近時生活状態の向上に伴い卵肉の需要は益増加の趨勢(すうせい)に在り従って其価格も著しく昂騰(こうとう)し飼養者の利潤亦昔の比にあらず其飼料の如きも農家生産物の残滓(ざんし)若くは廃物の利用に依り之を飼養することを得(こと)に養豚は蕃殖力旺盛にして其肉附の迅速なる到底牛馬の及ぶ所にあらず加うるに肥料を生産し農営上()(えき)する所(せん)(しょう)ならざるものあり宜しく適切なる方法を講じ之が飼養の奨励に努力すべし
 以上は畜産の増殖振興上(いず)喫緊(きっきん)なる事項なりとす宜しく其趣旨を体し銃意各要項の実現に努力せんか畜産の改善増殖は期して()つべきものあるべし()()れ之が施設計画に至りては(みだ)りに新規の施設を試み或は急劇なる改良を強い以て事功を急ぐが如きは素より(いまし)むべきことに属す殊に今春騒擾(そうじょう)以来民心未だ安静を見るに至らず(やや)もすれば動揺を来さんとするの情勢にあるを以て宜しく慎重なる考慮を加え民風習慣を参酌(さんしゃく)(ぜん)を追うて堅実なる発達に努め民衆の福利増進を期すべく之が指導奨励に際しては熱心と温情とを以て之に接し懇切なる実地指導を行い民衆をして深く当局に倚頼(いらい)する所あらしめんことを期すべし
(データー作成:2010.3神戸大学付属図書館)