2012年9月28日金曜日

NHKドラマ「陽だまりの樹」第9回万二郎初陣を見ました

 冒頭、回想が流れています。万二郎は、おせきに「私の妻になって下さい…」と言います。おせきは、嬉しそうな笑顔で「はい。」と答えました。場面は変わって、ヒュースケンがおせきを手籠めに掛けているシーンが流れています。おせきは大声を上げてヒュースケンから逃げようとしますが、ヒュースケンはおせきを捉まえます。場面は変わり、万二郎が尼寺に忍び込んで、出家したおせきと会っているシーンが流れます。万二郎は、おせきに「あなたは以前のままだ…何も変わらない…」と言います。おせきは涙を浮かべながら「あなたの知るせきは、もう死んだのです…」と言いました。

 ここで、良庵改め良仙の声でナレーションが流れます。「おせきさんは、万二郎のもとを去った…こんなに悲しい万二郎の姿を見たのは、後にも先にもこの時ばかりだった……文久三年(1863年)五月、万二郎は、幕府陸軍歩兵組の隊長になり、農民兵の指揮を取ることになった…」と…

 映像は、だらしない姿の農民兵たちが映し出されていました。万二郎は辰蔵と言う農民兵に歩み寄ります。そして「飯を食いながら並ぶ奴があるか!…」と怒鳴りつけました。辰蔵は、恐れる事も無く隊長の万二郎に対して「飯じゃない…沢庵で…」と言います。周りの農民兵たちが薄笑いを浮かべました。万二郎は、辰蔵を睨みつけながら低い声で「どっちも同じだ…」と言うと元の位置に戻り農民兵を呆れるように見回しました。

 万二郎は、指揮棒を上げて「右向け右!…」と号令を掛けます。しかし、農民兵たちは、のろのろと左を向いたり右を向いたり、どうしていいか分からないようでした。暫くして、やっと右を向くのですが、清吉という農民兵だけは左を向いていました。万二郎は、指揮棒で指しながら清吉に「右はどっちだ…」と聞きます。清吉は「右…」と言うと上を向いて考え始めます。万二郎は「箸を持つ方だ!…」と怒鳴りつけました。清吉は、手を見ながら考えて、慌てて右の方に向きました。万二郎の顔には、遣ってられないという表情が浮かんでいました。それでも万二郎は「掲げ銃!…前へ進め!…」と号令を掛けました。農民兵たちは、万二郎の号令どおりに動こうとするのですが、いかにもちぐはぐで、どうしようもない姿をさらけ出していました。

 万二郎が「止まれ!…」と号令をかけても直ぐには止まる事も出来ませんでした。万二郎は「野良仕事に行く訳じゃないぞ!…腰を伸ばせ!…」と声を掛けました。映像が切り替わり、万二郎は腰を屈めて、左手で刀のつばに手を掛けます。そして「早駆!…」と声を掛けました。万二郎は、猛然と駆け出します。しかし農民兵たちは、万二郎に付いて行く事は出来ませんでした。鉄砲を担ぎながらよたよたと前に進むという感じで、とても軍隊の訓練とは思えませんでした。万二郎が振り向くと、すべての農民兵が倒れ込み、肩で息をしていました。万二郎は農民兵たちに歩み寄り「何だ、そのざまは!…」と怒鳴りつけました。すると農民兵の一人が「旦那…無理だ…わしら百姓は、クワさ持たせれば三日や一月働く事、屁とも思わんが…オッパシルのは、苦手だ…」と息も絶え絶えに言います。すると別の農民兵が、相槌を打つように「うんだ、うんだ…」と言いました。万二郎は、農民兵達を見回すと「ハー…」と大きくため息をつきました。どうしようもないガラクタの連中をどうやって鍛えればいいのかと頭を悩ませていました。ここで、音楽が流れ始めて、陽だまりの樹、第九回~万二郎初陣~の幕時スーパーが流れました。

 

 

 万二郎は、自宅の仏壇の前に座り、手を合わせて千三郎の位牌を拝んでいました。後ろに控えているおとねが、笑みを浮かべながら「あなた、万二郎は歩兵組の隊長になったんですよ…褒めてやってください…」と言いました。

 万二郎とおとねは、食事をしていました。おとねは「父上が亡くなって、六年がたちました…早い物ですね…」と言います。万二郎は、ご飯を食べながら「ええ…」と言います。おとねは「その間に良仙先生、おなかさんが亡くなって、寂しい限りです…次は、私の番ですね…」と言いました。万二郎は、茶碗を御膳に置くと「何を言っているんです…母上は、まだまだこれからです…」と言います。おとねは「そうですね…孫の顔を見なければ、死んでも死にきれませんね…」と言いました。そして「そうだ…お前に好いお話があるんです…勘定方の林様が、遠縁の娘さんをお前にどうかと…一度会ってみてはどうです…」と言いました。万二郎は、語調を上げて「母上!」と言うと、低頭して「申し訳ありません…今はその気がありません…」と言いました。まだ、おせきの事を忘れる事が出来ないようでした。万二郎は、黙々とご飯を食べ始めました。おとねは、心配そうに万二郎を見つめていました。

 

 良仙は種痘所で、種痘をしていました。若い女が良仙に色目を使うと、良仙は相変わらずニヤケタ顔で女を見つめていました。ここで良仙の声でナレーションが入ります。「御玉ヶ池種痘所は、医学所と名を変え、種痘のほか西洋医学の教授、解剖なども行うようになっていた…医学所の頭取は、緒方洪庵先生が勤めていた…幕府の度重なる求めに応じ、大阪から出府されたのである…」と…

 洪庵は、良仙を呼んで「昨日、御城に行って来たんだが、幕府の陸軍に医者がいると言うんじゃ…」と言います。良仙は「陸軍の医者ですか…」と聞きます。洪庵は「うん…外国の軍隊に習って、歩兵組に傷病兵治療の為の医者を置くことに決まったらしい…言わば、軍医じゃ…それで、何名か推挙をしたのだが、その中には貴君の名前も入っておる…」と言いました。良仙は、驚いた表情で「私の…」と聞き返します。洪庵は少し考えて「うん…受けるもよし、断るもよし…貴君自身が選ぶ道じゃ…」と言いました。良仙は、真剣に考えていました。

 良仙は、おつねと話していました。おつねは、目を丸くむき出して「軍医…」と言います。良仙は、引き受けたく無さそうな表情で「陸軍のお抱え医者という事だ…緒方先生からの話だから無下に断れないし…」と言います。しかしおつねは「どうして直ぐに、御引き受けならなかったの…」と言います。良仙は、嫌そうに「ええ…」と言います。おつねは乗り気な表情で「御上にお仕えして、お扶持まで頂ければ、家名も上がるし結構な事じゃないですか…」と言います。それでも良仙は嫌そうな表情で「だってお前…町医者の方が儲かるよ…俸禄だって、たったの十五人扶持だもの…」と言いました。するとおつねは「両方掛け持ちで遣れば好いじゃないの…」と言います。良仙は、嫌そうな表情で「毎日、屯所に出仕しなければならないんだぞ…戦でも始まってみろ、軍にくっついて地の果てまで行かなければならないんだ…町医者なんか遣っている暇なんかない…」と言いました。おつねは、少しがっかりした様子で「あら、そうなの…でも、それはあなたが決める事よ…私は、それについて行きます…」と言うと、立ち上がり部屋を出て行きました。良仙は、大きな溜息をつきました。

 

 万二郎の家の御縁で、万二郎と良仙が酒を飲んでいました。万二郎は、良仙に「迷っているのか…」と聞きます。良仙は「そりゃあ、人生の舵を切り替えるんだ…棒に振っちまうかもしれねいし…若い娘の体に触れられるのが楽しみで、医者を遣っているのに…」と言うと、ニヤ笑いをします。万二郎は、呆れたように顔を振りました。良仙は「医の道は、国の為、人の為だ…戦をする人間の為に、働くっていうのがどうも気にくわねぇんだよな…」と言います。万二郎は「俺たちゃ何も、好き好んで戦をする訳じゃない…国を守るためだ…」と言います。良仙は「お前さんみたいな侍に、俺の心は分からん…」と言います。万二郎は、半分拗ねた表情で横を向きながら「ああ、分からん…俺は自分の考えで歩兵組を引き受けたんだ…倒れかけた幕府という大樹に命を注ぎ込んで、蘇らせる為にだ…」と言います。良仙は「大風呂敷を広げやがって…兵は寄せ集めの百姓なんだろう…大丈夫なのか…」と言いました。万二郎は、良仙に視線を合わせると「国を守るのに、百姓も武士もない……俺はな、百姓と武士が一つになった良い軍隊を作りたいんだ…それがあってこそ、外国と五分に渡り合える…改革をする前に、まずは強い国を作らないとな…」と言いました。良仙は、黙ったまま月を見ていました。

 

 万二郎の歩兵組が、行進の訓練をしていました。歩調を合わせていると先頭の一人が倒れました。すると、その歩兵につまづいて、次から次に折り重なるように歩兵たちが倒れました。それを見ていた万二郎は、歩兵たちに走り寄り「何を遣っている!…」と叱りつけました。そして歩兵たちの顔を見ながら「これは、者にならんな…」と言いました。うつ伏せに倒れていた兵の一人が首を上げて「やっぱり…おらたち百姓には無理です…」と言います。すると隣に倒れている兵が「うんだ…戦うのは御侍の仕事だ…」と言いました。万二郎は「国を守るのに、百姓も武士もない…お前たちは百姓である前に、陸軍の兵士だ…国を守る為に敵と戦う、選ばれた人間なんだぞ…誇りを持て…」と言いました。すると兵の一人が笑みを浮かべながら立ち上がり「旦那…歌、歌わすだ…」と言います。万二郎は、その兵を見ながら「歌…」と聞き返しました。兵は「ええ盆歌があるだ…その昔、太閤様が小田原攻めの時に、陣中で酒飲んで歌ったと言う歌です…」と言います。すると万二郎は、遮るように「馬鹿!…軍隊の行進に盆歌など歌えるか…」と言いました。しかし兵は、笑いながら「えヘヘへ…ところが、おらのおっかあの国の大官、江川様が、その歌を兵隊に歌わせたら、元気が出たちゅう話しです。」と言いました。万二郎は、兵の顔を見つめながら「どんな歌だ…」と聞きました。兵は姿勢をただすと「富士の白雪ゃノーエ…富士の白雪ゃノーエー…富士のサイサイ…」と歌い始めました。万二郎は「何だ、そのノーエーと言うのは…」と聞きました。この兵は、意味を知ってか知らずか、語呂合わせのように「農兵という事だべ…」と言いました。万二郎は、兵の顔を見つめながら「農兵…ノウヘ…ノーエ…」と言います。兵は、ただただ頷いていました。

 歩兵組の兵士達は「富士の白雪ゃノーエ…」と歌いながら、行進の訓練をしていました。すると、今までとは比べ物にならないほどに歩調がとれていました。万二郎は、満足そうに笑みを浮かべながら眺めていました。

 

 良仙は、遊郭の布団に寝ながら思い悩んでいました。そして、聴き取れそうもない声で「軍になんて、俺には向いてないよな…」とつぶやきました。隣で寝ていた遊女が、背中越しに「如何したの…溜息何か付いて…」と聞きます。すると、良仙の顔が、ふっ切らねばという顔になり「さて、帰るかな…」と言うと、布団から起き立ち上がりました。遊女は「あっ、もう…」と言います。良仙は、着物掛けに掛けてあった着物を手にしながら「もうって、三日もいるんだぞ…女房には、緒方先生の御供で、駿河に行くと言ってあるんだ…そろそろ帰らないとまずい…」と言いました。遊女は、良仙の背中に抱きつき「寂しいわ…」と言います。良仙は、振り向いて遊女の顔を見ると抱きしめて「俺だって、ずっとここに居たいよ…」と言います。そして、小声で「やっぱり、断るかな…」とつぶやきました。すると、遊女は訳が分からずに「何の話…」と聞き返します。良仙は、笑みを浮かべながら遠くを見ている表情で「うん、ちょっとな…」とごまかしました。良仙は、窓に歩み寄り、障子をあけると海が見えました。海には黒船が浮かんでいました。遊女が黒船を見て「あの黒船、ずっとあそこに止まっているの…恐いわ…」と言いました。良仙は、じっと黒船を見つめていました。

 良仙は、物思いにふけりながら、とぼとぼと屋敷に帰って来ました。玄関に着くと良仙は、力無く「帰ったぞ…」と言います。すると中からおつねが飛び出して来て「あなた!…」と語気を強めて言いました。良仙の顔が、一瞬ばれたかなという表情になりました。しかし、おつねは「たった今、知らせが来ました。緒方先生が亡くなられたって…」と言いました。良仙の表情が見る見るうちに硬くなって行きました。そして「えっ!…」と言います。次の瞬間、良仙は洪庵の元へ走り出していました。

 良仙が着くと、洪庵の遺体は座敷に寝かされていました。その周りには、高弟たちが座っていました。良仙は、洪庵の遺体の側に座ると高弟の一人が「あっという間だった…昼間、血を吐いて御倒れになって、そのまま…」と言います。良仙は、洪庵の死に顔を見ながら「先生…御返事が遅くなって申し訳ありませんでした…軍医の件、有難くお受けいたします…この目で見て来ました…品川沖に止まっている異国船を…この国の危うさを思い知りました…戦が始まって、大勢の兵が傷付いたとき…粉骨砕身、御役に立とうと存じます…緒方先生、ありがとうございました…」と言うと、両手を付いて深く低頭しました。師を失った良仙の悲しみは、深く重たいものでした。ここで良仙の声でナレーションが入ります。「文久三年(1863年)六月十日、日本の近代医学の親、緒方洪庵は死去した。大坂から江戸に来て、わずか十カ月後の事であった。

 

 上総国九十九里小関村にある旅籠大村屋の門前には、真忠組義士旅館という看板が掛けられていた。その門から、浪人がたちが、真忠組の旗を持ってニ列縦隊に並んで出て来ました。真忠組の面々は、近隣の豪農の屋敷に遣って来ていました。屋敷の主人は、渋い顔で俯いていました。真忠組の代表、三浦帯刀・楠音二郎が上座に座っていました。楠音二郎は「我らは、異国人討伐の為に決起した…誠忠の士である…討伐用軍用金、五百両を借り受けたい…」と言います。主人は驚いた表情で「五百両…」と聞き返しました。楠音二郎は、冷めた表情で主人を見つめながら「あの旗が目に入らぬか…」と言うと、脇に置いていた刀を取り、刀の柄で旗を指しました。そして「菊水の紋…言うまでも無く、忠烈無比の英雄、楠正成公の旗印だ…この楠音二郎は、大楠公の末裔だ…その俺が…直々に…借用を頼みに来ておるのだぞ…」と恫喝しました。主人は、俯きながら眉間にしわを寄せて、苦渋の表情を浮かべていました。

 真忠組の浪人たちは、通りを歩きながら空に小判をばらまいていた。浪人たちからは笑い声がもれ、百姓達は争って小判を拾い集めた。楠音二郎は、勝ち誇った表情で「我らは貧民の為の世直しの血統だと言うことを忘れるでないぞ…」と、集まって来た貧乏百姓たちに呼び掛けました。三浦帯刀は、笑いながら「好きなだけ持って行け…」と言いました。

 

 江戸城では、万二郎が関東取締出役、馬場俊蔵から呼び出されていました。万二郎は、裃姿で両手をつき低頭していました。万二郎は「真忠組の征伐を…」と聞きます。馬場は「そやつら、弓や鉄砲を多く所持しているのでな…歩兵組の力を試す良い機会じゃ…」と言います。万二郎は「はっ!…」と返事をすると深く低頭しました。馬場は「首領格の男は、楠公の末裔だとか申して居る…ふん…笑止千万…」と言いました。すると低頭していた万二郎の目が鋭く輝きました。万二郎は「楠…」と言います。続けて馬場が「楠音二郎とか申す浪人じゃ…」と言いました。万二郎の脳裏には、音次郎と果し合いをした時の映像が浮かび上がっていました。音次郎が「面白い…」と言って刀を抜くと、万二郎も刀を抜き音次郎の刀を受けて斬り合いになりました。音次郎は「何時ぞやの決着を付けて遣る…」と言った映像が……馬場は、万二郎に「頼んだぞ…」と言いました。万二郎は、大きな声で「ははは…」と答えました。

 万二郎は城からの帰りに、千三郎が落ちて死んだ、川の橋の上に来ていました。万二郎は、川面をじっと見つめていました。そして「父上…」と言います。映像は、千三郎の死に顔が映し出されていました。

 

 文久四年(1864年)正月、練兵場では、歩兵組の農民兵達が万二郎の前でみごとな行進をしていました。兵士の一人が「全体…止まれ…右向け右…」と号令を掛けました。万二郎は、指揮棒を上げながら「休め!…」と号令を掛けました。そして「みんな、聞いてくれ…それぞれの国でクワを取っていたお前達も…今では立派な陸軍歩兵となった…しかし、誠の戦いには、まだ加わっていない…俺もそうだ…その戦いを経験させて遣る…」と言いました。すると一人の兵士が万二郎に歩み寄って「敵は、何処の野郎で…」と聞きます。別の兵士が「異人ですか…」と聞きます。万二郎は真剣な表情で「いや…お前たちと同じ、百姓だ…」と答えました。兵士達に動揺が走りました。一人の兵士が「百姓…おらたちと同じじゃねいか…」と言いました。別の兵士が「俺達を同じ百姓と戦わせる気ですかい…」と聞きました。万二郎は、兵士達を動揺させまいと詳しく説明し始めました。「敵の首領は無頼の浪人…それに踊らされて、百姓や無宿人が一味となった…そして、真忠組と名乗り、上総一体の村々を荒らし回っている…元百姓とは言え、今や無頼のやからだ!…征伐せよとお沙汰を受けた…お前たちに聞く…同じ百姓を殺すのは嫌だと思う者は、名乗り出よ…その者は、こたびの出陣から外す…」と言いました。すると兵士が「隊長、その何とか組ちゅうのは、貧しい百姓も虐めとるのかね…」と聞きました。万二郎は、兵士達を見回すようにして「俺が聞いているのは、豪農から奪い取った金を小作人にばらまいていると言う事だ…」と言います。兵士は「そんじゃ…百姓の味方だ…」と言います。すると別の兵士が「そんな義賊みたいな人間を俺達に殺させるんですかい…」と言います。他の兵士達も口々に同調しました。万二郎は、大声で「沈まれ!…」と声を掛けます。兵士達は、一瞬にして静まり返りました。万二郎は「同じ百姓と戦うのは、辛いだろう…だが、それが戦と言うものだ!…俺に付いて上総に行くか、やめるか、明朝までに決めろ!…」と言いました。兵士達は項垂れて、黙っていました。

 

 陽は沈み、夜になり、万二郎は屯所の自室で横になっていました。なかなか寝付かない万二郎は、物音のしている事に気づきます。万二郎は、刀を手にすると物音のする部屋へと向かいました。万二郎が物音のする部屋の戸を開けると、そこには良仙がいました。良仙は「おおお…」と言って驚きます。万二郎は「良仙…何しているんだ、こんなところで…」と言います。良仙は、苦笑いをしながら「おお…今日から、この屯所に出仕する事になった…」と言います。万二郎は良仙を見つめながら「軍医の話を受けたのか…」と聞きます。良仙は「ああ…緒方先生が最後に与えて下さった努めと思ってな…」と答えました。万二郎は、寂しそうな表情で「聞いたよ…亡くなられたそうだな…」と言います。良仙は「もともと御体の弱いお方だった…江戸に出てこられて、御無理がたたったんだ…」と言いました。そして「ここなら、患者の五人や十人は寝かせておけそうだ…」と言いました。良仙は、部屋の中を見回すと「ええ…薬と…ああ、道具もちと足りないな…調達しなければ…」と言います。すると万二郎が「ここ二・三日のうちに、ここは一杯になるぞ…」と言いました。良仙の顔が少しこわばって「何が起きるんだ…」と聞きます。万二郎は「今に分かる…」とだけ言いました。

 

 万二郎は練兵場に立っていました。万二郎の前に立っている兵士は、三人だけしかいませんでした。万二郎の後ろには、その様子を心配そうに見ている良仙がいました。万二郎は、三人の兵士に「これだけか…」と聞きます。兵士の一人が「みんな、同じ百姓を殺すのは、嫌だちいうて…」と言います。万二郎は、寂しそうな表情で「分かった…支度しろ…半時後に出立する…」と言いました。兵士の一人が「へい…」と答えると、万二郎は歩いてその場を立ち去りました。良仙は、唖然とした表情で、万二郎を見つめていました。そして、他の兵士達も肩を落として歩いて行く万二郎の後姿を見ていました。

 万二郎が、自室で出立の準備をしていると、良仙が現れて「たった四人で戦が出来るのか…」と尋ねます。万二郎は「仕方がないだろう…やる気の無い連中を戦に連れて行っても足手まといになるだけだ…」と答えました。良仙は「やれやれ…初日から戦とはなあ…」と言います。万二郎は良仙に「付いてくる気か…」と聞きます。良庵は「当たり前だ…」と答えました。万二郎は、沈んだ声で「物見遊山に行く訳ではないぞ…お前の面度は見てられないからな…」と言います。良仙は「面倒見るのは俺の方だ…俺は軍医だ…」と言います。二人は自然と視線を合わせました。そこへ、農民兵の一人が現れて「隊長…」と言います。万二郎は兵士に視線を合わせました。

 万二郎と良仙は、兵士の後ろを歩いて着いて行きました。そこには農民兵達が、きちんと整列して万二郎を待っていました。万二郎の姿を見ると兵士の一人が「気おつけ!…」と号令を掛けました。万二郎は、兵士の前に立つと「お前達…」と言います。すると兵士の一人が「隊長に恥かかせす訳にはいかねいです…国を守るのに、百姓も武士も無い…俺達は…いや、我々は、陸軍歩兵組として、真忠組と戦います…」と言いました。すると兵士達が一斉に「えい、えい、おう!…」と声を出しました。兵士達の顔は、みんな活気に溢れていました。万二郎と良仙の顔からは、笑顔が満ち溢れていました。歩兵組の兵士達は、万二郎を先頭にして、富士の白雪ゃノーエ…と歌いながら、一列縦隊で歩いていました。

 万二郎たちは、川の前で休憩を取っていました。万二郎は床几にドカッと座っていました。良仙は、少し興奮気味に「敵はどれくらいいるんだ…」と、万二郎に聞きます。万二郎は「四・五十人と聞いている…」と答えました。良仙は、驚いた表情で語気を強めて「そんなにいるのか…でも、ほとんどは百姓や無宿人なんだろう…」と聞き返しました。万二郎は「首領格さえ倒せば、後は烏合の衆だ…」と言います。万二郎は「なのだが、その首領格は腕がたつ…」と言います。良仙は「知っているのか…」と聞きます、万二郎は無表情で「楠音二郎だ!…」と答えました。良仙は「どこかで聞いた名だな…」と言います。万二郎は「父の仇だ!…」と言いました。良仙は驚いたように万二郎を見つめました。その時、女の悲鳴が聞こえました。

 兵士達が、旅姿の女を追っていました。女が倒れると兵士が腰を屈めて「おお、姉ちゃん、別嬪じゃないか…」と言います。となりにいた兵士も女の顔を覗きこむようにして「ちょっと話しでもするべ…」と言うと、女の腕を握りました。女は、兵士の手を振り払いながら「やめて下さい!…」と言いました。すると、兵士の一人が「じゃけにするなよ…」と言います。そこへ万二郎が遣って来て「何をやっている!…恥を知れ!…」と、兵士を叱りつけました。兵士達は、直立不動で立つと頭を下げて「すみません…」と、万二郎に謝りました。そして、顔を見合わせると慌てて走り去って行きました。万二郎は、女を見つめながら歩み寄ると「あっ、部下の御無礼をお許しください…」と言って頭を下げました。女も万二郎に軽く頭を下げました。万二郎は、その女の美しい容姿に見とれているようにも見えました。万二郎は女に「これからどちらまで行かれるのですか…」と尋ねます。女は「片貝まで…」と答えました。万二郎は、落ち着かない表情で「左様か、我々も同じ方向に参る…女の一人旅は危のうござる…東金まで、お送り致そう…」と言いました。女は笑顔で「いいえ、間道を参りますので…」と答えました。万二郎は「あっ、そうですか…では、道中、お気をつけて…」と言うと、頭を下げました。女は「ありがとうございました…」と言うと、その場を去って行きました。万二郎の目は、その女の後姿に注がれていました。女は振り向いて万二郎に一礼するとまた歩いて行きました。万二郎の心には、女とおせきの姿が重なって見えたようでした。そこへ良仙がやって来て「相変わらず、女の口説き方が下手だなあ…あんな言葉で女がなびくと思うのか…」と言います。万二郎は、怒りだしたように「馬鹿!…そんなんじゃない!…」と言うと、兵士達のいるところへ戻っていきました。良仙は、万二郎のそんな様子を見て吹き出すように笑いました。

 

 女は、真忠組義士旅館と書いてある看板の掲げられた門を潜って行きました。玄関に、楠音二郎が現れると、女は頭を下げました。音次郎は、女の顔を見ると「綾…」と言います。女は音次郎を見上げると「兄上…」と言いました。

 綾は、座敷に通されていました。音次郎を中心にして、主だった隊士が集まっていました。その真ん中に絵図面(地図)がおかれました。音次郎は、絵図面を棒で差しながら「歩兵組の奴らは何人いた…」と綾に聞きました。下座に座っていた綾が「五十人ほど…」と答えました。音次郎は「何処へ向かっていた…」と聞きます。綾は「東金です…」と答えました。すると音次郎は「得物は何だ…」と聞きます。綾は「鉄砲のようです…」と答えました。音次郎の目が鋭くなり「五十人の鉄砲隊か…」と言います。綾は心配そうな表情を浮かべました。

 綾と音次郎は縁側に座っていました。庭を渡世人や無宿人のような町人が、慌ただしく走って行きました。音次郎は綾に「御苦労だが、今度は東金に行って奴らの動きを探ってくれ…」と言いました。そして宙を見ながら「幕府軍は、何時攻めて来るか…それが知りたい…」と言いました。綾は、心配そうな表情で「兄上、お願い…もう、こんな事はやめて、一緒にうちへ帰りましょうよ…母上も体が弱って、兄上の帰りを待っているんですよ…」といました。音次郎は、宙を見ながら「世直しをしているのだ…今すぐ帰れるか…」と言いました。綾は、それ以上、何も言えませんでした。

 

 東金の幕府本陣では、作戦会議が行われていました。万二郎は「先手を打つべきです…部下は疲れておりません…明け六つ、寝込みを襲います…」と言いました。すると、大将格の男が「のう、伊武谷殿…貴公、戦はさぞかし初めてでござろうな…拙者、板倉家の軍師として申し上げるが、明日中には堀田家からの手勢五百人が付く…それを待て、慎重に攻めるがよかろう…」と言いました。万二郎は、澄んだ眼差しで板倉家の軍師を見つめると「恐れながら、急がねば、こちらの動きが敵に感づかれます…逃げられたら、すべてが無駄になります…」と言います。その時、庭の方で「女!そこで何をしている…」という、警護の侍の声がしました。庭石の後ろに隠れていた女は立ち上がり、逃げようとしますが、警護の侍二人に取り押えられました。

 その騒ぎを知って、作戦会議をしていた指揮官たちが、御縁に出て来ました。板倉家の軍師が「何事だ!…」と言います。警護の侍は、女を引き連れて「怪しい女が、立ち聞きを…」と言うと、女の腕と奥襟をつかんで、地面に座らせました。女は「違います…私は、御本陣とは知らずに入ってしまったんです…」と弁解しました。その時、万二郎と女の視線が会いました。万二郎は、昼間あった女だと気付きました。女は綾でした。綾は万二郎との視線を隠す為に顔を背けました。板倉家の軍師は「ぶち込んでおけ!…後で調べる!…」と、指図しました。警護の侍は「立て…来い…」と言うと、綾を引き連れて行きました。万二郎の顔に動揺が走っていました。

 万二郎は、暗闇の中を何かを探すようにして本陣を歩いていました。その時、罪人を責める音が聞こえて来ました。そして、警護の侍の「吐け!…」と言う声と、綾の悲鳴が…綾は、後ろ手に縛られ、警護の侍から竹刀で叩かれていました。そこへ、万二郎は入って来ました。万二郎は「もう好い!…やめろ…」と言います。警護の侍が、万二郎に歩み寄り膝まづくと「この女、どうやら楠音二郎の妹のようです…」と言います。万二郎は、驚いた表情で「妹!…」と言います。警護の侍は「こっちの動きを探るように命じられたのでしょう…」と言いました。そして、綾の方を振り向くと「女!」と言うと立ち上がり、竹刀を綾の喉につきつけて「仲間は何人だ…いわねいと、もっと痛い目に会うぞ…」と言うと、竹刀を振り上げて綾を叩こうとしました。その時、それを遮るように、万二郎は大声で「やめい!…」と言いました。警護の侍は、竹刀を引くと「しかし、敵の頭数を聞き出せと言われております…」と、問い返すのですが、万二郎は「おおよその数は分かっている…もうよい!…俺の隊に、手塚良仙という医者がいる…呼んで来てくれ…」と言いました。警護の武士は、それ以上何も言う事が出来ず「はっ!…」と言うと、一礼をして良仙を呼びに行きました。

 綾は、肩で息をしていました。万二郎は、綾の姿を見つめながら「大丈夫か…直ぐ手当てして遣る…」と言うと、綾に歩み寄って、縛っていた縄をほどき始めます。綾は、後ろ手に縛られたまま「兄を殺すのですか…」と言います。万二郎は、無言のまま縄をほどいているのですが、なかなかほどけません。綾は、涙を浮かべながら「乱暴者の兄ですが、根は悪い人ではないのです…どうか…」と言います。その時、縄がほどけて、綾は向き直り、万二郎に両手を付いて低頭しながら「どうか…命ばかりは助けて遣って下さい…病に臥せっている母が悲しみます…」と、懇願しました。万二郎は、綾と向き合うように正座をして、懇願する綾の顔を見ながら「名を何と申す…」と言いました。綾は「綾と申します…」と答えました。万二郎は「俺は、歩兵組御用がかり、伊武谷万二郎…」と言います。そして「綾殿…兄上は法を犯した…」と言います。綾は、音次郎をかばうように「貧しい人を助ける為にです…」と言います。万二郎は「だとしても、ゆすりや強盗を働いていいという事にはならない…」と言います。綾は、両手を付いて低頭しながら、勇気を振り絞って「抱いて下さい…お願いします…」と言うと、万二郎にすざり寄り、手を取って「その代り、兄を助けて…」と懇願して頭を下げました。綾の息遣いは、興奮して荒く、肩から背中に掛けて大きく波打っていました。万二郎は、手を振り払うと立ち上がり、綾から視線を離して「何を申す!…そのような…もっと自分を大切にしろ!…」と言いました。綾は、涙を流しながら号泣していました。万二郎の視線は、綾に注がれ、哀れそうな表情を浮かべていました。

 

 その夜、晩くに作戦会議が終わり、指揮官たちは部屋から出て来ました。指揮官たちは、それぞれの自室に戻るのですが、万二郎だけは縁側から庭に下りていました。その表情には、苛立ちのようなものがありました。そこへ、薬箱を持った良仙がやって来ました。万二郎は、良仙に気付くと「あっ…娘の様子は…」と聞きます。良仙は、薬箱を縁側に置くと「疲れて眠った…あいつら、手加減なしに傷めつけやがって…出来るだけの事は遣ったが…」と言うと、大きく溜息をついて俯きながら「いよいよか…」と言います。万二郎は、真剣な眼差しで良仙を見つめながら「夜明け前に攻める…」と言うと、手が震え始めました。それに気づいた良仙は「震えているぞ…」と言います。万二郎は「武者ぶるいだ…」と言いました。良仙は、笑みを浮かべると「妙な縁だな…お前さんと一緒に、戦に行く事になるとわな…どれだけ怪我人が出るか…どれだけ死ぬか…」と言います。万二郎は、良仙の言葉を遮るように「人の気も知らず、医者のくせに何を言ってやがる…」と言います。良仙は「戦など…俺もお前も死ぬかも知れないんだ…」と言います。万二郎は、興奮した表情で「兵の処へ行ってくる…」と言うと、その場を立ち去りました。明日の朝、死線を共にする兵達に、戦の事を知らせ、最後の夜を共に過ごそうと思ったのかもしれません。良仙は、不安そうな表情で、万二郎の後姿を見つめていました。

 正月十七日未明、真忠組の根城の前に、忍びよる黒い影の集団がいました。その先頭には、万二郎の姿がありました。万二郎が「行くぞう!…」と号令をかけて走り出すと、その後ろから、鉄砲を構えた歩兵組の隊員達が「おお…」と掛け声を掛けながら続きました。

 真忠組の根城の中では、楠音二郎たちが準備を整えて待っていました。配下の誰かが「敵だ!幕府軍が襲ってきたぞ!…」と叫びました。音次郎が「弓を持つ者は上に上がれ!…鉄砲は、庭の影に隠れろ!…」と命じました。真忠組の面々が、障子を開けて庭に出ようとすると、それを待っていたかのように万二郎は「撃て!…」と命じました。銃声と共に、銃身の先から閃光が飛び散りました。真忠組の面々が怯んでいる様子を見て、万二郎は「突撃!…」と命じました。前列にいた歩兵組の隊員達は、刀を抜き突撃を掛けました。ついに、真忠組との凄まじい斬りあいが始まりました。その時、後列にいた歩兵組の隊員達が前に進みより、銃を打ち始めました。すると、建物の二階にいた真忠組の者達が、弓矢を放ち始めました。それに気づいた万二郎は「上を狙え!…」と命じました。歩兵組の隊員達は、一斉に狙い撃ちを掛けました。

 その時、脇から真忠組の鉄砲隊が、歩兵組を狙って一斉射撃を掛けました。万二郎は、一度体を屈めますが、直ぐに立ち上がり、指揮棒を真忠組の鉄砲隊に向けて「撃て!」と命じました。今度は、正面の入口に、弓を持った三人の侍が現れ、万二郎を目がけて射りました。万二郎の両脇にいた兵二人に命中して、兵が倒れます。真ん中で射ったのは、音次郎でした。万二郎は、怯む事無く「撃て!」と命じ続けました。幕軍の本陣の牢屋の中では、銃声が聞こえているのか、綾が心配そうな表情を浮かべていました。

 

 良仙は、近くの民家を借りて救護所(野戦病院)にしていた。けが人が次々に運ばれて来て、懸命に治療をしていた。良庵は家主に「亭主!急いで湯を持ってこい!…」と命じます。家主が「先生!この台、血だらけにされるのは困りますだ…うちは一膳飯屋で…」と言うと、良仙は遮るように「分かっている!ここしか無かったんだよ!…いいから、急いで湯を持ってこい!…」と言いました。家主は、開き直ったように「へい!…」と言うと、かまどへ向かいました。その時、良仙が治療をしていた兵士が「ううう…」と唸り声を上げました。

 真忠組の根城では、以前として戦闘が続いていました。戦闘は、銃撃戦から白兵戦へと変わっていました。音次郎は弓を捨て、何処かへ立ち去ろうとしていました。それに気づいた万二郎は、一人で後を追います。万二郎が、裏庭で音次郎を探していると、後ろの建物の中から音次郎が飛び出して来て「ヤアー!…」と言う掛け声と共に、万二郎に斬りかかりました。万二郎は、音次郎の剣を指揮棒で受けると、指揮棒が飛ばされてしまいました。万二郎は、刀を抜き構えました。

 万二郎は「楠音二郎…」と言います。音次郎は、万二郎に視線を合わせると「お前は…」と言います。万二郎は「見忘れたか…お前に闇討ちされた伊武谷千三郎の子、万二郎だ…今日こそ、父の仇を取る!…」と言いました。音次郎は「ふん…帰り討ちしてくれるわ!…」と言うと、体をくるりと一回転させて、小刀のようなものを投げつけました。万二郎が、刀でそれを払い除けると、二人の死闘が始まりました。二人が鍔迫り合いを始めると、音次郎は、小刀で万二郎を刺そうとしました。それに気づいた万二郎は、音次郎の腕を握って避けました。音次郎は、小刀を手裏剣のように万二郎に投げつけました。万二郎は、それを刀で払いのけました。音次郎は、薄笑いをしながら「暫く見ないうちに、腕を上げたな…」と言うと、上段に構えて万二郎に斬り掛かりました。万二郎が音次郎の剣を払い除けると、音次郎は脇差を抜いて二刀流で万二郎を攻め始めました。万二郎は、刀で相手の大刀を受けとめると、左手で相手の右手を握ります。音次郎は左手の脇差で万二郎を刺そうとしますが。万二郎は、右手で音次郎の左腕を握り防ぎました。音次郎は、頭突きをしたり、足でけったりしますが、万二郎は我慢してそれを受けとめ、足で蹴り返しました。音次郎は、仰向けに倒れました。万二郎は、音次郎に駆け寄り足で刀を踏みつけ、蹴飛ばしました。音次郎は、脇差で万二郎を斬りつけますが、万二郎は払いのけ、刀を音次郎の喉元に突き付けました。その時、万二郎の脳裏に、綾の映像が浮かびました「命ばかりは、助けて遣って下さい!…」と…万二郎の心に一瞬の隙が出来ました。音次郎は「如何した…斬れ!…」と言うのですが、万二郎は斬ることが出来ませんでした。すると音次郎は、万二郎の刀を両手でつかみ奪い取りました。音次郎は、一気に万二郎に斬りかかりました。万二郎は、脇差を抜き、音次郎の討ちこんだ刀を払い除けました。音次郎は、嵩に掛かって攻め始めました。万二郎は、脇差で必死になって応戦しました。その時、先ほど蹴飛ばした音次郎の大刀が、万二郎の目に入りました。万二郎は、その大刀を拾うと斬りかかって来た音次郎の胴を斬り、返す刀で頭を斬りました。一瞬の返し技でした。音次郎は絶命しました。

 良仙は、負傷兵を懸命に治療していました。そこへ、兵士達が負傷兵を戸板に乗せて運んできました。兵士の一人が「先生!」と叫びました。良仙は、振り向くと「そこへ寝かせろ!…」と指示をして、兵士が「はい!」と返事をする前に、また治療を続けていました。良仙は、治療が一段落つくと、いま担ぎ込まれた負傷兵の元へ向かいました。かなりの重傷でした。良仙は家主に「水を!…」と言います。そして、止血の布を外して傷を見ました。そこへ、万二郎が遣って来ました。

 万二郎は、部屋を見回して、一人の兵士に気づきました。万二郎は「辰蔵!」と叫ぶと、辰蔵の元へ歩み寄りました。良仙は、険しい表情で傷口を水で拭き、脈を取りました。良仙は万二郎を見ると「駄目だ!助からん…」と言うと、次の患者の元へ行きました。万二郎は、良仙の後姿を睨みつけながら「医者なら治せ!…」と怒鳴りつけました。良仙は、心が切れたのか、感情をむき出しにして「無理な者は無理だ!…」と怒鳴り返しました。万二郎は、唖然とした表情で、良仙を見つめていました。良仙は「他にも死にそうな奴はいるんだ!…助かる見込みの者から治療するしかない!…」と言いました。現代で言うトリアージでした。

 万二郎は、気お取り直し「辰蔵…」と呼び掛けました。辰蔵は、息も絶え絶えに「俺…鉄砲…上手くなったな…」と言います。万二郎は、かすれたような声で「ああ…上手くなったぞ…上手くなった…」と言いました。それを聞いた辰蔵は、ニッコリと笑うと息を引き取りました。万二郎は「辰蔵!…」と叫びました。万二郎が辰蔵から視線を外すと、大勢の負傷兵たちが、痛みに耐えながら唸り声を上げていました。すでに息を引き取った兵士には、遺体にむしろが掛けてありました。万二郎の目は、虚ろな目になっていました。

良仙は、懸命に負傷兵の治療を続けていました。良仙は負傷兵に「おい…目を開けろ…おい!…おい!…」と呼び掛けました。しかし、負傷兵はなんの反応もしませんでした。良仙は悔しさのあまりに、握りしめた両手の拳で、治療台を叩きました。そして、押し殺すような声で「クッソー…」と言いました。万二郎が、辰蔵の遺体を見ながら茫然としていると、歩兵組の兵士が遣って来て「隊長!…」と言うと、直立不動に立ち「三浦帯刀以下十一名、生け捕りました!…大勝利です…おめでとうございます…」と言いました。その兵士の顔には、笑みが浮かんでいました。しかし、万二郎の顔は、冴えませんでした。悲しみに浸って、虚ろな目をしていました。横から良仙が「何がめでたいんだ!…これだけ人が死んで…怪我人を出して…それがめでたいのか!…」と言いました。万二郎は、虚ろな眼差しで静かに「これが戦だ…」と言いました。良仙は、涙で潤んだ目で万二郎を見ながら「だったら、もっと喜んだらどうだ…勝ったんだぞ…」と言いました。万二郎は、俯きながら、黙って救護所を出て行きました。知らせに来た兵士は、良仙に一礼すると、万二郎の後を追って行きました。良仙は、辰蔵の遺体をじっと見つめていました。そして、治療台に手を置いて座り込むと「緒方先生…私は…道を間違えたのでしょうか…」と言いました。その目からは、止めども無く涙が流れていました。

万二郎は、山道を一人歩いていました。そして立ち止ると「これが戦だ…これが戦なんだ…」と言いました。戦闘は、夜明前に始まったのですが、すでに西の山に夕日が沈もうとしていました。歩兵組の兵士達の声で「富士の白雪ゃノーエ…」と、勝ち誇った歌声が聞こえて来ました。しかし、万二郎の心は晴れませんでした。重々しい空気が、万二郎の背中に漂っていました。万二郎の脳裏には、数々の思い出が映像として蘇っていました。父が亡くなり、その死に顔を見た時の思い出が…音次郎の妹綾が「命ばかりは、助けて遣って下さい!…」と言って、両手を付いて頼む姿が…音次郎が逃げ出すのを追いかけて、斬り合いになり、音次郎を斬って千三郎の仇を取った時の映像が…治療のかいも無く、死にゆく兵士を見取った良仙が「これだけ人が死んで、怪我人を出して、それがめでたいのか…」と言った時の映像が……万二郎は、力無く膝まづきます。万二郎の手には、一滴の涙が落ちていました。万二郎は、その手を握り締めて、ただすすり泣いていました。

ここで、第9回万二郎初陣は、終わりました。

 

 

 徳川幕府が崩れ去ろうとしている幕末に、江戸時代という太平の世の中にあって、戦などした事も無い武士に率いられて戦をした農民兵達…武士も農民兵もすべてが初陣でした。戦の悲惨さも知らずに、戦った万二郎や農民兵、そして軍医として治療に当たった良仙…それぞれが、それぞれの想いを胸に積もらせて戦い終わった初陣でした。

 良仙は「これだけ人が死んで、怪我人が出て、それがめでたいのか…」と言いました。万二郎は、幕命に従い真忠組を打ち果たし、父の仇の楠音二郎を討ち取ったにもかかわらず、心が晴れませんでした。初陣で無くしたものがあまりにも大きかったのかもしれません。寝食を共にした辰蔵や農民兵達を失った事の胸の痛みが、戦に勝利した事よりも大きかったのだと思います。万二郎は、自分自身に言い聞かせるように「これが、戦だ…」と言いました。そして、この初陣は、ほんの序章にしかすぎません。この後、万二郎と良仙の心がどのように変化して行くのかが、注目に値します。

 それから、農民兵といえば、長州の高杉晋作による騎兵隊があまりにも言う名ですが、私は、恥ずかしながら幕府にも農民兵がいた事を知りませんでした。幕府の直轄地や旗本の領地から募った農民兵のようです。時代も長州の騎兵隊以前から在ったようです。幕末には、価値観が変わり、唯名門の家柄というだけでは通用せず、下級武士や町人でも、有能な人材を登用せねば遣って行けない時代が、津波のように押し寄せたのだと思います。

0 件のコメント: