冒頭、良仙の声でナレーションが流れます。「万二郎は、農兵を率いて真忠組との初陣に臨んだ…」と…映像は、万二郎を先頭にして、出陣する様子が流れています。途中で、楠音二郎の妹、綾と出会います。万二郎は、綾に「東金まで、お送り致そう…」と言います。場面は変わり、真忠組の根城で、綾は音次郎に「兄上、お願い…」と言います。翌朝、まだ夜が明けぬ前に、万二郎は真忠組の根城を先制攻撃します。万二郎が指揮棒を振って「撃て!…」と命じると、歩兵組が一斉射撃をしました。幕軍と真忠組の戦は、幕軍が優勢に戦っていました。この時、綾の声で「お願いします…兄を助けて…」という音声が流れます。映像では、逃げる音次郎を万二郎が、討ち果たしました。幕軍の本陣では、牢屋の中で銃声が聞こえたのか、音次郎を心配する綾の姿がありました。
ここで良仙の声でナレーションが流れます。「戦には勝利した物の…多くの兵を失った万二郎の心は晴れなかった…」と…
元治元年(1864年)三月、万二郎は江戸城に呼び出されていました。万二郎は、両手を付いて深く低頭しています。上司が「伊武谷万二郎、その方、真忠組を盗伐した働きあっぱれであった…よって、三百表加増の上、歩兵組大隊長に任ずる…」と、辞令を読み上げました。しかし、万二郎の顔は冴えない表情をしていました。
万二郎は、歩兵組の医務室で、良仙と会っていました。良仙は万二郎に、呆れたという表情で「御加増を断った!…」と聞きます。万二郎は、両手を組んで俯きながら「俺だけ、御褒賞を預かる訳にはいかん…」と言いました。良仙は、万二郎の頑固な頭の固さに呆れ果てていました。万二郎は「誰一人、死なせないと言ったのに、四人も部下を死なせた…」と言います。良仙は、両手で机を叩くと立ち上がり「それが戦だと言ったのは、何処のどいつだ!…まったく…相変わらず、要領の悪い奴だな…御母上が泣くぞ!…折角の出世の機会を棒に振って…」と、叱りつけました。
万二郎は、冴えない表情をしながら俯いて、市中を歩いていました。その時、前方に綾がいるのに気がつきます。万二郎は立ち止り「綾殿…綾殿ではないか…」と言います。二人は歩み寄ります。万二郎は綾に「牢から出られたのですか…」と聞きます。綾は無言でした。万二郎は、軽く笑みを浮かべて「許されたんですね…」と言います。その時綾は、後ろ手に隠し持っていた短刀を抜いて、万二郎に斬りかかりました。万二郎は、素手で綾の短刀を払い除けながら「何を…」と言います。綾は、短刀を構え直すと「兄の仇!…」と叫びながら、また斬りかかりました。万二郎は、素手で綾の腕を受けとめると「止めい!…」と言います。そして「確かに私は、あなたの兄上を斬った…だが、戦でもあったんだ…それに、楠音二郎は、俺の父を殺したんだぞ…」と言いました。その時、綾が万二郎の腕に噛みつきました。万二郎は、思わず綾を払い除けると、その弾みで、綾の短刀で、自分の手の甲を切ってしまいます。綾は必要に、万二郎に斬りかかります。万二郎が綾の腕を握って止めると、綾は逆の手で、短刀の刃を握りしめて、万二郎を付き刺そうとしました。万二郎は、すかさずその腕も受けとめました。綾の手からは、血が滲み出て来ました。万二郎は「やめんか!…」と叫びました。そして綾の脇腹に当て身を一発入れました。綾は気を失い、万二郎の体にもたれかかりました。ここで音楽が流れ始め、陽だまりの樹、第十回~禁じられた愛~の幕時スーパーが映し出されました。
綾は、万二郎の家の座敷に寝かされていました。万二郎は、綾の側に座っていました。怪我をした手には、応急の布が巻かれていました。綾は気付くとあたりを見回します。万二郎は、それに気づくと「心配ない、私の家です…」と言います。綾が床から起き上がると、万二郎は「おとなしくしなさい…医者を呼んだ…」と言いました。その時、おとねが後ろの襖を開けます。おとねと一緒に良仙が座敷に入って来ました。
良仙は、綾の顔を覗き込むと「あれ…」と言います。そして、万二郎の方を振り向きました。万二郎は、良仙に両手を付いて低頭し「とにかく、診てくれ…手を切った…」と言いました。綾は、万二郎と良仙に視線も合わせずに「けっこうです…」と言います。良仙は、事情を察したのか「はあ…」と溜息をつくと「医者のいうことを聞くもんだよ…」というと、綾の肩に手を寄せて寝かしながら「さあ、見せなさい…」と言います。そして振り向くとおとねに「桶に水を下さい…」と言いました。おとねは、三人の様子に不自然さを感じながらも頭を下げて「はい…」と言いました。おとねが桶に水を持ってくると良仙は「ありがとうございます…」と言いました。良仙は、晒しを水でぬらし、綾の手の傷を拭き始めました。
おとねは、別室の板の間に控えていた万二郎のところに戻って来ました。おとねは心配そうに「万二郎、如何いう訳でこうなったんです…」と聞きました。万二郎は、俯きながら硬い表情で「私を訪ねてきたんです…」と答えました。おとねは「あの方は、如何いう関わりなんですか…」と聞きます。万二郎が「綾殿と言いまして、下野三門村の郷士の娘でして…」と、答えていると、後ろの襖が開いて、薬箱を持った良仙が出て来ました。良仙がニッコリ笑って襖を締め直すと、おとねが良仙に向き直り「良仙先生は御存じなんですか…あの娘御の事を…」と聞きました。良仙は、突然そのように聞かれて、驚いた表情で「えっ…」と言います。良仙は、思わず万二郎の顔を見るのですが、万二郎の顔は「頼む、言わないでくれ…」と、無言の返事をしていました。良仙は、如何言うべきか迷いながら「ああああ…詳しい事は私には…」と、ごまかしました。おとねは、万二郎に視線を合わせると、真剣な表情で語調を強めて「万二郎、いったい何を隠しているんです…」と、問い質しました。万二郎は、怯えたような表情で少し後ろにすざると「隠しごとなど…」と言います。その時、襖の開く音がしました。二人の視線が座敷の方に向くと、作法に則り出てきた綾の姿がありました。
綾は、おとねの前に歩み寄ると座り、三つ指を付いて頭を下げ「私は、真忠組の首領、楠音二郎の妹、綾と申します…」と言いました。良仙と万二郎の顔が強張りました。それ以上に驚いた様子で、おとねが「楠…あっ…父上の仇…」と言いました。綾は、顔を上げて視線をおとねに合わせると「私にとっては、たった一人の兄でした…その兄を切った伊武谷様は、私の仇です…それで、御命を…」と言いました。おとねは唖然とした表情をしていました。綾は「御医者様に見せて頂いた事、お礼申し上げます…」と言います。良仙は、心配そうな表情で、綾と万二郎を交互に見ていました。綾は、懐からお金を出すと「些少ですが、御薬代に…」と言うと、おとねの前に置きました。そして、両手を付いて「失礼致しました…」と言うと立ち上がり、家を出て行きました。万二郎は、そのお金を手にすると、刀を取り「綾殿!…」と呼び掛けながら追いかけて行きました。良仙は、万二郎の姿が見えなくなると、心配そうにおとねの姿を見ていました。
万二郎は、市中の橋の上で綾に追いつくと「綾殿!これは受け取れません…」と言って、お金を返そうとしますが、綾は「私も受け取れません…」と言いました。万二郎は「怪我を負わせたのは、私です…」とい言うのですが、綾は「あなたを襲ったのは、私です…」と言い返しました。万二郎は「とにかく…」と言うのですが、綾は遮るようにして「受け取れません…」と言いました。万二郎は、呆れたように「頑固な人だな…」と言います。綾は「失礼します…」と言って、歩き去ろうとします。万二郎は、立ち止ると遣り場のない表情で「そんなに私が憎いですか…」と言いました。すると、綾も立ち止って、振り向くことなく「あなたが攻めるのをもう一日待って下されば、兄を説き伏せて国へ連れて帰ることが出来たかも知れません…そうすれば、母も死なずに…」と言いました。万二郎は、黙って綾の後姿を見ていました。綾は、振り向くと俯き加減に「あなたを責めるのは筋違いかもしれません…でも、あなたを敵と思う事は、武家の娘としての最後の意地…失礼します…」と言うと、去って行きました。綾の目には、こぼれんばかりの涙が溜まっていました。万二郎は、それ以上何も言う事が出来ませんでした。
良仙が、提灯を持って往診から返って来ました。玄関に入ると「帰ったぞう…」と言います。すると、おつねがそそくさと玄関に現れて片膝をつき「あなた…種痘を施してほしいと言う方がみえてますよ…」と言いました。良仙は、いぶかしい表情で「種痘を…」と聞き返しました。
診察室には、生活にやつれた母子が待っていました。そして、母の顔は何処かで見た事のある顔……商家の娘、お品でした。良仙が診察室に入って来ると、お品は深く頭を下げました。良仙は机の前に座ると「種痘を受けたいとか…」と言います。お品は頷くと「はい。」と答えました。良仙はお品の顔を見つめると「その前に、様子を見よう…名と住まいを教えてくれるかな…」と言います。するとお品は、困った表情で頭を下げながら「それだけは、ご勘弁下さい…」と言いました。良仙は、不思議そうな表情で「どうして…万が一のことを考えて、聞いておかないと…」と言います。お品は「この子の父には、知らせずにまいりました…もし、種痘を受けたと知ったら、怒り狂って何をするか分かりません…」と言います。すると良仙は「そんなに訳の分からない亭主なのか…仕様がない、支度をするから待ってなさい…」と言うと、立ち上がり種痘の準備を始めました。
良仙の屋敷の門を叩く音が響いていました。おつねが不安そうな表情で門の前に歩み寄り「どちら様ですか…」と言います。すると、男の声で「お頼み申す…」と言う声がしました。おつねは、不安ながらも門の閂を外して門を開けました。そこには、丑久保陶兵衛が立っていました。陶兵衛は、何も言わずに屋敷の中へ入って行きました。おつねは、慌てた表情で「あの…困ります!…」と言って、陶兵衛の後を追いかけました。
陶兵衛は、診察室に遣って来ました。白衣を着た良仙が陶兵衛に気づくと、驚いた表情で「あんたは…」と言います。陶兵衛は、良仙に歩み寄ると「子連れの女が来たはずだ…」と聞きます。おつねが心配そうに診察室の板戸の影から覗いていました。良仙は「あれはあんたの子か…帰ったよ…種痘を受けて…」と言いました。陶兵衛の顔色が変わり「なに…」と言います。良仙は、種痘をした跡かたずけをしながら「これであの子は、もう痘瘡には掛からない…」と言いました。陶兵衛が「牛の膿を打ったと言うことか…」と言うと、良仙は「時代遅れもいいかげんにしろ!…今や種痘は、日本中で広まっているんだ!…」と言いました。陶兵衛は「貴様ら蘭方医は、赤子を殺し、牛の膿まで植え付けた…俺の子を二度までも…」と言います。そして、良仙を睨みつけると刀の柄に手を掛けて「おのれ…」と言いました。良仙の身に危険を感じたおつねは、走ってその場を立ち去りました。良仙は薬瓶を手にするとふたを開けて「おっと、ただで斬られる訳にはいかねいよ…こいつが分かるかな…お前さんが忌み嫌っている、牛の痘瘡の膿だ…こいつをお前さんにぶっかけると…お前さんは牛になっちまうんだ…牛になりたくなかったら、とっとと出て行け!…」と言いました。陶兵衛は、良仙の言葉に動揺を隠す事が出来ませんでした。良仙が薬瓶を持って歩み寄ると、一歩二歩と後ずさりをしました。
そこへ、慌てた表情で万二郎が遣って来ました。おつねが良仙の危険を察して、助けを求めたのです。万二郎は、刀の柄に手を掛けると陶兵衛を睨みつけました。陶兵衛は、万二郎の顔を見ると「また貴様か…」と言います。万二郎は「丑久保陶兵衛!…」と言います。二人の睨み合いが続きます。陶兵衛は「二人まとめて、あの世に送って遣ろう…来い…」と言うと、座敷を通りすぎて縁側に出て、庭に下りました。万二郎も陶兵衛を追って庭に下りました。二人は刀を抜き斬りあいが始まりました。万二郎が倒れて、陶兵衛が万二郎を斬ろうとした時に、良仙が「陶兵衛!」と叫びました。そして、持っていた薬の瓶の液体を陶兵衛の顔に掛けました。
陶兵衛は、慌てて顔を手で拭き始めました。良仙は陶兵衛に「牛になるぞ!…」と言って脅かしました。血迷った陶兵衛は「おのれ!…」と言うと、良仙に斬りかかりました。良仙は、慌てて座敷の方に飛んで逃げました。陶兵衛の刀が空を斬った時、万二郎は陶兵衛に斬りかかりました。陶兵衛は、万二郎の剣を払い除けると、その場から逃げ去って行きました。万二郎は「まて!…」と言うと、陶兵衛を追いかけて行きました。
おつねが、倒れている良仙に歩み寄って心配そうに「あなた!」と声を掛けます。良仙は、確りとした表情で「大丈夫だ!…ぶっかけたのは塩水だ…」と言いました。万二郎は、通りに出て走って追いかけるのですが、陶兵衛が防火用水の桶を並べた後ろに隠れている事に気づきませんでした。陶兵衛は、心配そうに手で顔を拭くと立ち上がり走って行きました。
陶兵衛は、家の前まで帰って来ると、井戸で水を汲み、神経質そうに顔と手を洗いました。その顔は、恐怖におののいているようでした。お品が子どもを布団に寝かせつけていると、入口の障子戸が開け放たれました。そこには、鬼の顔をした陶兵衛の姿がありました。陶兵衛は、家の中に入って来ると大声で「お品!…」と言うと、お品の顔を平手で思いっきり叩きました。お品はタンスの所まで飛ばされると、顔に手を当てて「憎ければ斬りなさい!…」と言いました。すると睨みつけていた陶兵衛の機先が削がれたのか、陶兵衛は後ろを向きました。お品は「幸助の為なんです…これでもう、痘瘡に掛からない体になったんです…」と言いました。陶兵衛は「夷狄の医術など信用できるか!…死んだ里は、蘭方医にどんな目にあわされたか…お前にも言ったはずだ…」と言います。お品は「それは分かっています。でも、あの蘭方医の先生は、評判も良く立派な先生です!…」と言いました。陶兵衛は「幸助に何かあったら、お前のせいだぞ…」と言うと、台所へ行って酒徳利を手にします。しかし、酒は入っていませんでした。お品は「酒ならありませんよ…買うお金がないので…」と言いました。お品は立ち上がり、陶兵衛に歩み寄ると「いいかげん、人斬り商売はお辞めになって…まともに働いたらどうなんです…そんな稼業をしていたら、まともな死に方しませんよ…」と言いました。陶兵衛は「女房面して、俺に説教する気か…」と言います。お品は、寝ている幸助を見ながら「近頃、幸助も知恵を付けて来て、よく聞くんです…父上の仕事は何かって…何て答えればいいのです…人斬り商売って答えるんですか…」と言いました。陶兵衛は、居た堪れなくなったのか家を出て行きました。
万二郎は、通りを駆け回っていました。屋台の蕎麦屋を見つけると立ち止り「親父!…背の高い、目つきの悪い浪人が逃げて来なかったか!…」と聞きます。蕎麦屋の親父は、手で差しながら「ああ…、あの路地に入って行きましたよ…」と答えました。
障子戸を叩く音を聞いたお品は、戸を開けて出て来ました。そこに立っていたのは万二郎でした。お品は、万二郎の顔を見ると驚きました。万二郎は、お品の事には気づかずに「このうちの主人は、丑久保陶兵衛ですか…」と聞きました。お品は、緊張した表情で頷きながら「はい。」と答えました。万二郎は、払い除けるようにして家の中へ入って行くと「いま!ここへ戻ったはずですが…」と聞きました。お品は、俯きながらオドオドとした表情で「戻りましたが、直ぐ出て行きました…」と答えました。万二郎は、お品に視線を合わせると「御内儀ですか…」と聞きます。お品は「ええ…」と答えました。万二郎は、お品を見つめながら「何処へ行ったか分かりませんか…」と聞きます。お品は、首を小さく横に振ると「分かりません…飲みに行ったと思うんですが…」と答えました。万二郎は「戻りますか…」と聞きます。お品は「分かりません…一度家を出ると、幾日も戻らない時があるので…」と答えました。万二郎は、語気を強めて「分からないことばかりですね!…かばっているんですか!…」と言いました。すると、お品の目が突然鋭くなり「私は、あの人を憎んでいます!…あの人も私を…」と答えました。万二郎は、お品の言葉に違和感を感じたのか、部屋の中を見渡しました。そして、幸助の寝顔に視線が止まりました。万二郎は、囁くような声で「お互い憎み合って…」と言います。その時、お品が自分を見つめている事に気付いた万二郎は「私の顔に何か付いていますか…」と聞きました。お品は、視線を外しながら「いいえ…」と答えました。万二郎は「陶兵衛は、科人です…住まいはここだと奉行所に届けねばなりません…」と言います。お品は、頷きながら「はい」と答えました。万二郎は「自首するよう…お伝えください…では…」と言うと、帰って行きました。お品は、万二郎に気づかれなかった事にホッとしますが、いまだに万二郎への想いは消えていないようで、家の外に出て万二郎の後姿を見つめていました。お品の脳裏には、芝の砂浜でやくざ者から助けてもらった時の万二郎の姿が蘇っていました。そして、お礼に手縫いの着物を渡した時の万二郎の姿が…丑久保家の系図を買いに行ったときに「誠に、伊武谷万二郎か…」と聞かれ、手籠めにされたときの自分の姿が……お品は、目に涙を浮かべながら「伊武谷様…御無事でよかった…」と言うと泣き崩れました。
一ヶ月後…桜の花が満開に咲き乱れていました。紋付袴を着た万二郎は、腰に脇差を差して、歩兵組の屯所から出かけようとしていました。万二郎の目が、綾から斬られた手の甲の傷に注がれていました。万二郎の脳裏には、綾が「あなたを仇と思う事は、武家の娘としての最後の意地…」と言った時の姿が浮かび上がっていました。その時、良仙の「隊長…ちょっといいか…」と言う声がしました。万二郎が振り向くと、良仙は商家の主人風の男を連れて来ていました。
三人は、座敷に良仙を挟んで座ると、良仙が万二郎に「材木問屋の井筒屋さんだ…」と言って紹介しました。井筒屋は万二郎に「お初にお目に掛かります…久兵衛と申します…」と挨拶しました。万二郎は、頭を下げながら「伊武谷万二郎です…」と名乗りました。良仙は「井筒屋さんは、親父の昔馴染みでな…今度、屯所を増やす事に決まっただろう…その材木の調達を一手に引き受けようとしなさっているんだ…」と言います。久兵衛は「入れ札の前に、屯所の様子を見せてもらおうと思いまして…お邪魔した次第です…」と言います。良仙は、笑顔で万二郎に「終わったのか…」と聞きます。しかし、万二郎は渋い表情で「ああ…」と答えました。良仙が万二郎に、酒を飲む手ぶりをしながら「じゃ…一杯どうだ…」と聞くと、万二郎は「折角だが、遠慮しておく…」と言うと、久兵衛に視線を合わせて「では…」と言って一礼すると立ち上がり、刀掛けから大刀を取って部屋を出て行きました。良仙は、腑に落ちない表情を浮かべていました。堅物の万二郎にしてみれば、業者の接待と受け取ったのかもしれません。
万二郎は自宅の庭で、真剣で素振りの稽古をしていました。そこへ良仙が遣って来ました。万二郎は良仙に気付くと視線を合わせます。良仙は、薄笑いをしながら「よう…恐ろしいな…」と言いました。万二郎は「何だい…」と聞き返します。良仙は「夕べ…綾さんを見た…」と言います。万二郎は、刀を鞘に納めると「何処で…」と聞きました。良仙は深刻な表情で縁側に出て来ると腰を降ろしながら「井筒屋さんと飲んだ帰りだ…久しぶりに岡場所でも覗いて遣ろうと向島に行ったんだが…そこで見た…」と言いました。万二郎の表情が険しくなり「向島…」と聞き返しました。良仙は万二郎に視線を合わせる事が出来ずに、目を背けながら「客を取っていた…」と言います。万二郎は、なぜだと言う表情で、ただ黙っていました。
万二郎は夜になると、向島の花街を歩いていました。女郎屋の客引きの男が万二郎に「旦那…」と声を掛けました。堅物の万二郎は、反射的に顔を背けて歩む方向を変えました。しかし、思案したあげくに、また方向を変えて女郎屋の暖簾をくぐりました。すると客引きの男が「お一人様、お上がり…」と言いました。
万二郎は、座敷に通されていました。万二郎の目は畳を睨みつけ、心配そうな表情をしていました。その時、障子の向こうから「御免なさいよ…」と言う女郎の声がしました。障子を開けて入って来た女郎は、綾でした。綾の姿は、いかにも女郎と言う感じで、以前の綾の姿とは比べ物にならないほどすれていました。綾は、御定まりどおりに両手を付いて頭を下げ、万二郎の体に身を寄せようとしました。その時、綾の目に万二郎の顔が写りました。綾は驚き、反射的に後すざりしました。そして「伊武谷様…どうして…」と言います。万二郎は、真面目腐った表情で俯き加減に視線を落としながら「知人が、あなたを見かけたと言うので…何時からここに…」と言います。綾は、開き直った表情を見せますが、視線を合わせることを避けて「一月前です…」と答えました。万二郎は「じゃあ…あの後すぐ…」と聞きます。綾は、動揺しながらもどう答えるべきか考えながら「お酒、召し上がりますか…」と切り返しました。万二郎は、落ち着かない表情で「いや、遊びに来た訳ではない…」と言いました。すると、何を勘違いしたのか、綾の表情が変わり、語気を強めて「では、いたぶりにいらしたのですか…」と言います。すると万二郎は、突然大きな声で「違う!…」と言うと、鋭い眼差しで綾を見つめました。そして「綾殿が…どうしてこんな事に…」と言いました。綾は、視線を外しながら「女郎の身の上話など聞いて、どうなさるおつもりで…」と答えました。万二郎は、身を乗り出しながら「私に何か出来る事があれば…」と言います。綾は、万二郎に視線を合わせると、挑むようにして「ここから出して下さるんですか…」と言います。万二郎は、間髪入れずに真剣な表情で「はい!…」と答えました。綾は、呆れたという表情で作り笑いをしました。万二郎は、真剣な表情で綾を見つめながら「何が可笑しいんです…」と言います。綾は、笑いながら「お戯れを…百両ですよ…私の値は…」と言いました。万二郎は、綾を見つめながら振り絞るような声で「百両…」と言いました。綾は、作った笑みをほころばせながら視線を外して「同情はけっこうです…」と言いました。そして、落ち着いた声で「お酒、お持ちしますね…後で叱られますので…勘定は、私が後でお支払いいたします…」と言いました。万二郎は、慌てて「いや…そういうことなら…」と言いました。綾は、立ち上がって部屋を出て行きます。万二郎は、寂しそうな表情で綾の後姿を見つめていました。
綾は、万二郎の盃にお酌をしていました。そして、万二郎の手の甲の傷を見つめていました。万二郎は、綾の顔を見ると「まだ、私が憎いですか…」と聞きます。綾は、その事には答えずに「私にも頂けますか…」と言いました。万二郎は、黙って酒を飲み干すと盃を綾に渡して酒を注いでやりました。綾は、酒を飲むと盃を膳に置き「はあ…」と溜息をつくと「もう、武家の娘ではないんです…何もかも忘れました…」と答えました。万二郎は「あの時、あなたは武家の娘としての最後の意地だと言った…その最後という意味が、分かったような気がします…いったい、何があったんです…私のせいですか…私が兄上を斬ったから…」と言います。綾は「借金があったのです…兄が残した…母の薬代も積りに積って…私一人なら、自害してこんな辱めは受けなかったでしょう…でも、妹がおるので…」と言いました。万二郎は「妹さん…」と聞き返しました。綾は「十になります…遠縁の家に奉公に上がっています…妹の為を思えば…私の身がどうなろうと…」と答えました。そして「湿っぽい話は、御しまいにしましょう…さあ、どうぞ…」と言うと、万二郎に酌をしました。
万二郎は、良仙の屋敷に来ていました。良仙は、難しそうな表情をしながら「借金の形に売られたのか…気の毒にな…」と言いました。万二郎は、俯きながら「あそこから救い出すのに…百両いる…」と言います。良仙は、心配そうに万二郎を見つめながら「身受けするのか…」と聞きます。万二郎は「楠音二郎を斬ったのは俺だ…」と言いました。良仙は「あれは戦だ…お前さんのせいじゃない…」と言います。万二郎は「良仙…頼みがある…」と言います。良仙は「何だよ…あらたまって…」と聞き返します。万二郎は、良仙を見つめながら「家から金目の物をかき集めても…二十両程にしかならん…あと八十両…貸してくれ…」と言いました。そして、万二郎は良仙の正面に座り直すと、両手を付いて深く低頭し、語気を強めて「このとおりだ!…」と言いました。良仙は、驚いた表情で「ああ…やめろよ!…頭を上げてくれ…」と言いました。そして、溜息をつくと「何とかして遣りたいが…いま…うちにもそんな金がない……お前さん、あの娘に惚れたな…」と言いました。それでも万二郎は、良仙に頭を下げ続けていました。
良仙は、襖を少し開けて部屋の中を覗きこんでいました。良仙の視線の先には、ソロバンをはじきながら帳簿を付けている、おつねの姿がありました。おつねは帳簿を見ながら思わず溜息をつきました。良仙が軍医となったことで、町医者としての診療報酬が、殆ど入ってこなくなった事による、金欠によるものでした。しかし良仙は、何とか金をひねり出せないものかと、意を決して部屋の中に入ります。
良仙はおつねに「おい、なに溜息ついているんだ…」と言うと、おつねの前に座りました。おつねは、良仙に帳簿を見せながら「これを見たら、溜息もつきたくなりますよ…」と言うと、帳簿を机の上に置きました。良仙は、帳簿を手にして見ていました。おつねは「屯所づきの御医者になってから治療所の方はさっぱり…」と言います。良仙は、間髪入れずに「だから言っただろう…町医者だけ遣った方が儲かるって…」と言いました。おつねは「それはそうですけど、子供達の先行きを考えたら、少しでも家名を上げた方がと思うのが親という者です…」と言いました。良仙は帳簿を見ながら「こりゃあ無理だな…」と、独り言を言いました。それを聞いたおつねは「何が…」と聞き返しました。良仙は、上目使いに「いや…医学書をな…エゲレス(英国)から入って来た新しい奴があってな…どうしてもそいつが欲しいんだ…」と言いました。おつねは、お茶を飲みながら「おいくら…」と聞きます。良仙は、おつねの顔を覗きこむようにして「百両…」と言いました。おつねは、あまりの高額に驚いたのか、飲んでいたお茶を良仙の顔に吹きつけました。
お品は雨の中、幸助の手を引いて市中を歩いていました。橋の上で立ち止まると、幸助の体を引き寄せて、じっと川面を見つめていました。今にも心中をしそうな表情でした。お品が一歩前に進むと、幸助の両手がお品の手を握り締めていました。お品は振り向いて、幸助の澄んだ瞳をじっと見つめていました。お品は、我に戻ったのか傘を手から離すと、幸助を強く抱きしめました。
丑久保陶兵衛は、自宅で一人酒を飲んでいました。入口の障子戸が開くと、そこには、疲れて眠っている幸助を背負っているお品の姿がありました。二人は一度視線を合わせたのですが、気まずいのか、直ぐに視線を外しました。
お品が幸助を布団に寝かせつけると、陶兵衛は盃を手にしながら「出て行ったんじゃないのか…どうせ、他に行くところなどあるまい…」と、視線を合わせる事も無く話しかけました。お品も違う方を向きながら「あの世に行こうとしました…」と言います。一瞬驚いた陶兵衛は、お品の方を振り向いて、静かに「愚か者め…」と言いました。するとお品は「そうさせたのは誰ですか…」と言います。陶兵衛は、静かな口調で「伊武谷だ…お前がここにいるのは、伊武谷万二郎のせいだ…」と言いました。陶兵衛の心には、万二郎への逆恨みが未だに燻っているようでした。お品は、憐れむような表情で「寂しいお人…あなたにあるのは、妬みと憎しみだけ…伊武谷様のように真っ当に生きられないから…」と言いました。すると陶兵衛は、癇に障ったのか横に置いていた刀を握ります。お品は、思い詰めた表情で「斬りなさい…親子共々…どうせこのままじゃ飢え死にするしか無いんです…」と言いました。陶兵衛は、睨みつけるようにお品を見ました。そして、幸助に視線を移しました。陶兵衛は、黙って立ち上がると家を出て行きました。
ある日の夜、万二郎は岡場所で酒を飲んでいました。隣には綾が座っていました。万二郎は、美味しくも無い酒を綾の酌で、黙って飲んでいました。
万二郎は、酔って自宅へ戻って来ると「只今戻りました…」と言うと、腰から大刀を抜き取り入口の台に座り込みました。部屋の方からおとねが遣って来て「お帰りなさい…またお酒を…」と言いました。万二郎は、俯いたまま「はい…ああ、良仙に誘われて…」と言うと、立ち上がり部屋の中へ入って行きました。おとねは、万二郎の様子がおかしい事に気付いているようでした。
あくる日、おとねは、良仙の屋敷を訪ねていました。良仙は、気まずそうな表情でなかなかおとねと視線を合わせる事が出来ませんでした。おとねは良仙に「本当に、如何してしまったんでしょうか…三日にあけず飲みに行って…化粧の匂いはぷんぷん…あんな子では無かったのですけれど…先生、お願い致します…万二郎に悪い遊びは教えないでください…」と言いました。良仙は、呆気に取られた表情で「えっ…私が…」と、聞き返しました。おとねは、間髪入れずに「何時も先生が御一緒だと…」と言いました。良仙は、本当の事も言えずに、ただ驚きと苦笑いを交えながら「えっ…あああ…まあ…」と言いました。するとおとねは「何処ぞの悪い女に騙されているのではないでしょうね…」と聞きました。良仙は、動揺しながらも「いや…それは…無いと思いますが…」と答えると、ただ笑って誤魔化すことしか出来ませんでした。おとねは、そんな良仙の顔をじっと見つめながら、真実を探ろうとしていました。
陶兵衛は自宅に入ると、入口の板張りに巾着袋を投げ置きました。巾着袋の口紐が開き、小判が十枚ほど飛び出していました。巾着袋の中にもまだ沢山の小判が入っているようでした。板張りに座っていたお品は、それを見て「はっ…」と息を飲んで驚きます。陶兵衛は、お品を見つめながら「三十両ある…」と言いました。お品は、心配そうに上目づかいで「どうしたんです。こんな大金…また人を斬るんですか…」と聞きました。陶兵衛は、何も言わずに家を出て行こうとします。お品は、陶兵衛の腕を両手でつかみ「あなた、もうやめて…」と言いました。陶兵衛は、無言のままお品の手を振り払うと家を出て行きました。
屯所の練兵場では、歩兵組の行進の訓練が行われていました。診療室では良仙と万二郎が会っていました。良仙は立ちながら、診察台に腰かけている万二郎に「人をだしに使いやがって…お母上が心配していたぞ…お前さんが岡場所に通い詰めるとはなあ…遣る事は遣っているのか…」と、含み笑いをしながら言いました。万二郎は、上目使いに良仙を見ながら、気の晴れない声で「如何言う意味だ…」と聞き返しました。良仙は「だからその…」と言うと、万二郎の顔を覗きこむようにして「綾さんと…」と言います。万二郎は、良仙の話を遮るように語気を強めて「ふざけたことを言うな!…俺は…そんなつもりで通っている訳ではない…」と言いました。良仙は、間髪入れずに「じゃあ、如何言うつもりなんだ…」と聞き返しました。万二郎は「俺がいる間…客を取らなくて済む…」と答えました。良仙は、呆れた表情で「えっ…」と言いました。万二郎は、良仙には理解が出来ないだろうと思い顔を歪めて溜息をつきました。
フランスの商人と井筒屋は、市中を歩いていました。二人の周りを井筒屋の番頭と用心棒達が取り囲んでいました。フランス商人は「江戸は、面白い街だ…」と言います。井筒屋は「はい、きっと我々の商いも上手くいくでしょう…」と言いました。一行が、川に掛けられた橋の中央に差し掛かった頃、前から編み笠をかぶった浪人が現れて、行く手を立ち塞ぎました。井筒屋とフランス商人を護衛している浪人二人が、前に進み出て刀の柄に手を掛けて身構えました。編み笠の浪人は顔を上げて、フランス商人に視線を合わせます。編み笠の下から見えたのは、丑久保陶兵衛の顔でした。陶兵衛は、噛み殺すような声で「異人め、その命もらい受ける…」と言います。
その時万二郎は、偶然にも歩兵組の兵士を連れて、市中を見回っていました。万二郎の耳に「助けてくれ!…」と言う、男の悲鳴が聞こえました。声の主は井筒屋のものでした。井筒屋と番頭、そしてフランス商人が、走って逃げていました。二人の用心棒は、懸命に陶兵衛と応戦していました。しかし、陶兵衛との腕の差は、歴然としたものがあり、あっと言う間に斬られてしまいました。陶兵衛が、フランス商人を追いかけようとしていると、反対側から万二郎と歩兵組の兵達が遣って来ました。万二郎は陶兵衛を見つけると、指揮棒を振り上げて「止まれ!…」と命じました。兵達は、万二郎の前に出て、鉄砲を構えて止まりました。井筒屋達は、万二郎の後ろに逃れました。万二郎は、指揮棒を振りながら「撃て!…」と命じました。兵達は、一斉に射撃しますが、陶兵衛は、逸早く駆け出して逃げたのが良かったのか、弾を避ける事ができました。陶兵衛は、振り返って「おのれ、伊武谷万二郎…」と言いながらも、後ろ向きに掛けて逃げていました。
歩兵組の屯所の座敷に、万二郎を上座にして、良仙を挟んで井筒屋が座っていました。井筒屋は、両手をつき深く頭を下げながら「ありがとうございました…」と礼を言いました。そして、頭を上げると「あのフランス人の貿易商とは、大きな商いの話を進めておりましたので、本当に助かりました。フランス人に代わってお礼申し上げます…」と言うと、横に置いていた風呂敷包みを取り出して「これはつまらない物ですが、お口汚しに…」と言うと、万二郎に差し出しました。すると万二郎は、静かな口調で「それは受け取れません…」と言いました。井筒屋は、当惑した表情で「しかし…」と言います。万二郎は「私は、歩兵組の隊長としての務めを果たしたまで…そのような物を頂く筋合いはござらん…」と言いました。横で見ていた良仙は、万二郎の堅物さ加減にも困ったものだとばかりに、呆気に捉われた表情で見ていました。そして「そう…硬いことを言うな…」と言います。すると万二郎は突然大声で「だまっとれ!…」と一括しました。その様子を見ていた井筒屋は、如何したら良い物かと思案するのですが「分かりました…失礼いたしました…」と言うと、両手を付いて深々と頭を下げました。井筒屋は頭を上げると「では、これにて…」と言うと、風呂敷包みを手に取り立ち上がって部屋を出て行きました。万二郎と良仙は、両手を膝の上に置いて、深々と頭を下げていました。
井筒屋が部屋を出て行くと、良仙は怒った表情で万二郎に近づき「お前…あの中に何が入っているのか分かっているのか…」とかみつきました。万二郎は、冷静な口調で「金だろう…分かっている…」と答えました。良仙は「だったらなぜ受けとらん!…綾さんを身受けしたいんじゃないのか!…」と食って掛かりました。万二郎は良仙を睨みつけながら「それとこれとは別だ!…賄賂のような物は、断じて受け取らん…」と言いました。良仙は、じれったそうな表情で「融通の利かぬ男だ!…だからお前は、何時も惚れた女を幸せに出来ないんだ!…」と言いました。万二郎は、良仙の視線を外すことしか出来ませんでした。良仙は、居ても立ってもいられずに部屋を飛び出して行きました。万二郎が良仙に「おい…」と声をかけるのですが、良仙は無視していました。
井筒屋が番頭を連れて通りを歩いていると、後ろから良仙の声で「井筒屋さん…」と呼ぶ声がしました。井筒屋が振り返ると、良仙が走って追いかけて来ました。良仙は息を切らせながら「あの…折り入って、御相談が…」と言いました。
良仙は、万二郎を訪ねていました。良仙が、畳の上に置いた包みを広げると、中から小判の切餅が四つ入っていました。それを見た万二郎は驚いて「どうしたんだ…こんな金…」と尋ねました。良仙は「井筒屋さんだ…」と言います。万二郎は「井筒屋…」と聞き返します。良仙は、少し笑みを浮かべながら「心配するな…賄賂じゃない…薬代の前払いだ…井筒屋の女将さんは昔から持病があってな…向こう十年、ただで見ると証文を書いた…さあ、これで…綾さんを助け出して来い…」と言いました。万二郎は、座り直すと両手を付いて良仙に「すまない…良仙…恩に着る…」と言うと、深く頭を下げました。そして「必ず返す…」と言いました。
数日後の昼下がり、万二郎は綾を身受けしに岡場所へ行きました。万二郎は、入口の暖簾を手で掲げ綾を出迎えました。万二郎が先に歩いて行くと、綾は黙って万二郎の後を付いて行きます。林に差し掛かると綾は「伊武谷様、敵の妹の私に、どうしてここまで…」と尋ねます。万二郎は気恥ずかしそうに「いや、そんな…訳など…」と言います。綾は「働いて、必ずお返しします…」と言います。万二郎は「好いんです…気にしないでください…」と言いました。綾が「でも…」と言うと、万二郎は「これからどうします…国へ帰りますか…」と尋ねました。綾は「帰っても居場所がありません…江戸で働きたいと思うのですが…こんな女郎上がりの汚れた女など雇ってくれるところが…」と言いますが、万二郎は語気を強めて遮るように「あなたは汚れてなどいない!…大丈夫…仕事は、きっと見つかります…知り合いに聞いて見ますよ…」と言いました。綾は「伊武谷様…何から何まで…」と言うと、頭を下げました。
そのときでした。万二郎の後ろから「伊武谷…」と言う声がしました。丑久保陶兵衛でした。万二郎は、刀の柄に手を添えて構えました。陶兵衛は「貴様、なぜいつも俺の邪魔をする…気にくわん…今日こそあの世に送って遣るわ…」と言いました。万二郎は、陶兵衛を睨みつけながら「やめろ…陶兵衛…お前には、妻と子がいるんだ…命を粗末にするな!…」と言いました。陶兵衛は、感情をむき出しにして遮るように「黙れ!…」と言いました。万二郎は、綾をかばうように手で後ろに行くように合図しました。綾が後ろに下がると、陶兵衛が刀を抜きました。万二郎もそれに合わせて刀を抜きました。二人の激しい斬り合いが始まります。最初は陶兵衛が優勢でしたが、万二郎も持ち直し、陶兵衛を刀で払いのけました。その時、陶兵衛の体が綾に当たり、綾の体が弾き飛ばされて倒れてしまいました。綾は、倒れたところが運悪く、岩で頭を強く打ちました。万二郎は、綾の様子に気を使いながら陶兵衛と斬り合いを続けました。陶兵衛は、大声で「わあ!…」と声をかけると、気が狂ったように攻め始めました。しかし、一瞬のすきを見つけた万二郎は、ついに陶兵衛を討ち果たしました。陶兵衛の遺体の上に、幸助の為に作ったと思われる竹トンボが落ちていました。万二郎は、刀を鞘に納めると、綾に駆け寄り抱きよせて「綾殿…綾殿…綾殿…」と呼び掛けるのですが何の反応もありませんでした。
万二郎の自宅の座敷に、綾は寝かされていました。良仙が綾を診察しています。良仙が綾の目の前で手を動かしても、綾には何の反応もありませんでした。良仙の表情には、険しいものがありました。万二郎は、心配そうにその様子を見つめていました。その後ろでは、複雑な表情でおとねが見つめていました。
良仙は万二郎に「強く頭を打ったせいだ…」と言います。すると万二郎が「目は開いているぞ!…」と言います。良仙は「目は開いているが、見えてはいない…人の声も聞こえているかどうか…」と言います。万二郎は、綾の顔を見つめながら「如何言う事だ…」と尋ねます。良仙は「今の医学では、解きあかせんよ…強い打撲のせいで、脳に何かが起きたとしか言いようがない…」と答えました。万二郎は「元に戻るのか…」と尋ねます。良仙は「うんん…それは、何とも言えん…」と言いました。診察が終わって、良仙は帰ろうとしていました。万二郎は良仙に頭を下げていました。おとねは万二郎の後ろに座って良仙をじっと見つめていました。良仙は「では」と言うと帰って行きました。
良仙が帰ると、おとねは「あの娘をこのまま家に置いておくつもりですか…」と言います。万二郎は、俯きながら険しい表情で「行くところがありません…綾殿は、私のせいで怪我を負ったんです…」と言います。万二郎は振り返ると、おとねの前に座り、両手を付いて頭を下げ「元気になるまで、家に居させてあげて下さい…」と頼みました。おとねは、その万二郎の姿を複雑な表情で見ながら「万二郎…お前…あの娘を好いておるんですね…そうなんですね…」と言いました。万二郎は、頭を上げるのですが、無言でした。おとねは、万二郎の両手を握って「万二郎!…それはなりませぬ!…あの娘に怨みはありませぬ…ですが、父上の仇の一族…手当はしてしんぜましょう…ですが、少しでも良くなったら、この家から出てもらいますよ…万二郎…」と言いました。万二郎には、返す言葉がありませんでした。ただ俯いて、黙っているだけでした。
桜の花びらが舞い散る春の昼下がり、万二郎は、お品の住む長屋に向かっていました。長屋の前に来ると、お品が洗濯物を干していました。お品の脇には幸助が、手伝いをしながら寄り添っていました。万二郎は、そんな二人の後姿を見つめながら、懐から陶兵衛の形見となった竹トンボを取り出しました。万二郎は、竹トンボを見ながら陶兵衛を斬った時の事を思い出していました。万二郎がお品に歩み寄ると、お品は万二郎に気づき頭を下げます。万二郎もお品に一礼をしました。そして、重たい口調で「陶兵衛は、死にました…」と言います。お品も重たい口調で「はい、聞きました…」と言います。万二郎は「私が、斬りました…」と言います。そして、手にしていた竹トンボを見つめながら「これは、陶兵衛が持っていた物です…」と言うと、しゃがんで幸助に「ほら、おいで…」と言います。幸助は、お品の顔を一度見て、許しを得ると、万二郎の元へ歩み寄りました。万二郎は、幸助に竹トンボを見せながら「父上からだ…こう遣って飛ばすんだ…」と言うと、竹トンボを飛ばして見せました。竹トンボは高く舞い上がりました。幸助は、竹トンボを追いかけて行きます。
万二郎は立ち上がるとお品に「では…」と言うと一礼して去って行こうとします。その時、万二郎は、羽織の下に来ていた着物の事を思い出しました。「おと年の地震の折り、大きなご恩を受けました者でございます…これをせめてものお礼に…」と言ったお品の姿を…それを見て、おとねが「好いお召物だこと…あの娘御は、お前を慕っているのです…」と言った時の事を……万二郎は振り向いて、お品の顔を見ました。そして歩み寄り「あなたは…あの時の…」と言います。お品は、万二郎を見つめながら「いいえ、違います…」と言いました。万二郎は、それ以上何も言う事が出来ずに、深く一礼しました。お品もそれに合わせて一礼をしました。万二郎は、黙ってその場を立ち去って行きました。お品は、万二郎が行った後も暫く頭を上げる事が出来ませんでした。お品の目には光るものが溜まっていました。
万二郎は、橋の上から川面を眺めていました。ここで、良仙の声でナレーションが入ります。「綾の容体は、少しも良くならなかった…息をするだけの人形のようであった…微かに、汁や重湯を口から流される事によって、どうにか命脈を保っていた…」と…映像は、良仙が診察をする様子や、その背後からおとねが、複雑な表情で見つめている様子が流れていました。
ここで、第10回禁じられた愛は終わります。
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