冒頭からナレーションが読まれています。
大分県にある私立高校の野球部…そこに一人の女子マネージャーがいました。グランドと野球と仲間が大好きな普通の女の子でした。そんな彼女を16歳のある日、恐ろしい病が襲います。彼女は入院中、人知れず自らの病を日記に書き綴っていました。そこには、彼女の為に甲子園を目指す仲間たちへの熱い思いが記されています。このドラマは、実在した一人の少女と仲間たちの物語です。
あっこは、忙しそうにグランドを駆け回っていました。野球部員はそれぞれが、与えられた練習をこなしていました。バッティングの練習をしていた部員が、大きな飛球を打ちました。ボールは見る見るうちに伸びて行き、スコアーボードに直撃しました。その飛球を立ち止って見ていたあっこは、嬉しそうな笑顔で「ナイスバッティング!」と叫びました。
2006年9月のある日、教室では授業が行われていました。あっこは、由志館高校の福祉科コースの一年生でした。
担任の先生が教科書を読みあげています。
「高齢者が、地域の中でその人らしく生き生きと生活できるように支援し、安定した生活を送れるようにすることが重要です。高齢者の福祉における在宅サービスの内容は理解できましたか…」と…
しかしあっこは、授業中に居眠りをしていました。机の上には「☆勝利☆めざせ!甲子園!!…野球ノート…」と表紙に書かれたノートが置かれていました。隣の席の真紀が小さな声で「あっこ…起きて…」と注意するのですが、なかなか気がつきませんでした。それに気づいたのか、担任の先生があっこの方に視線を移しました。あっこの前の席の生徒が、それに気づき、自分の体を移動して、あっこの寝姿を隠そうとするのですが、その時あっこがいきなり立ち上がり「ヨッシャー!ホームラン!」と叫びました。生徒達が一斉にあっこの顔を見ました。教室は一瞬静まり、気まずい雰囲気が漂いました。
担任の先生が「大宮さん…」と呼びながらあっこの席まで歩いて来ました。あっこは短く「はい」と返事しました。担任の先生は、笑いながら「勝ったんですか…今日の試合は…」と、あっこに尋ねました。そして、あっこの机の上に会ったノートを手にとって、めくり始めました。あっこは「はい…逆転サヨナラ…しかもツーアウトからです…」と答えました。あっこのことを心配している二人の友人の顔が、何を言っているのと言うような表情に変わりました。担任の先生が「こんくらい真剣に勉強せんといけんよ…」と言うと、教室に笑い声が置きました。あっこは、しまったと言う表情で、担任の先生から野球ノートを受け取りました。
その時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴りました。担任の先生が「はい、じゃあ今日はここまで…」と言うと授業が終わりました。あっこは「ヨーシ!…」と言うと小さくガッツポーズをとりました。あっこはすぐに帰る用意をすると教室を飛び出して行きました。廊下を走り、校庭に出るとすぐに自転車に乗って、颯爽とペダルを踏んで校門を出ました。川沿いの道を走り、目指すは野球部の練習場でした。駐輪場に自転車を止めると、荷物を手にしてすぐに走りだしました。土手を駆け下り、スタンドの手すりの前に立ち止まると楽しそうな笑顔でグランドを眺めていました。そして「グランドの土の香り……もうすぐみんながやっち来る…今日も始まる…よろしくお願いします…」と言うと、グランドに向かって深々と一礼をしました。
あっこの声で「マネージャーの仕事は、まずは選手のドリンク作りや!…」とナレーションが入ります。そこへ、遅れて真紀がやって来ました。あっこは、自分の仕事をしながら「真紀!マネージャーは、選手より先に来るのが基本やろう!…」と注意しました。あっこの顔は、授業中とは打って変わって生き生きとしていました。真紀は、慌てながら困った表情で「ごめん…スコア―ブックを教室に忘れて取りに行っちょった…」と答えました。あっこは、作ったドリンクを入れたボトルを何本も籠の中に入れて「これ、先に持て行っちょくけんね…」と言うと、給湯室を小走りで出て行きました。真紀は、すまなそうに「ごめん…」と言うとあっこの後姿を見ていました。
あっこの声でナレーションが入ります。
「由志館高校は、今まで甲子園に出場したことはないけど、今年は違うんや…一年生エース、ヨシユキが入部した…私は大分県ナンバーワンピッチャーやち思う…」と…
あっこはブルペンのネットの前まで来ると、ボトルの入った籠を地面に置いてヨシユキのピッチング練習を見ていました。そして「ヨシユキ、ナイスピッチング!…」と、声をかけました。そしてまた、あっこの声でナレーションが入ります。
「二年のヤスヒロ先輩は、控えのピッチャーや…今年こそ絶対に甲子園に行くんや…」と……
あっこは、部員にトスバッティングの練習をさせる為に、グランドに膝をついてトスをしていました。監督はシートノックをしています。部員が「はい、サード…」と声を出します。サードが球をはじくと、監督は「どうした!気合入れんかい!…」と声を掛けました。二年生の女子マネージャーが、次のボールを監督に手渡すと「声出していこう…」と声を掛けます。それにつられてあっこも「もっと声出していくで…」と言います。
部員たちは、タイムを計りながらランニングの練習をしていました。あっこは、ストップウオッチを見ながら前に進み出ると、両手を広げて「はいここまで…」と言います。部員たちは、ゴールに次々とたおれこんでゆきました。あっこは振り返ると「あとの人は腕立て100回…」と言います。部員の一人が驚いたように「100回」と言うと、あっこは笑顔で「そんなんじゃ甲子園に行けませんよ…気合出して…気合…」と言いました。
練習終了後、室内練習場でミーティングが行われていました。
監督は部員を前にして「相変わらずミスが多い…あんなにミスしよったら、二回戦の桜台には勝てんで…」と気合を入れます。部員たちは全員で「はい!」と答えます。キャプテンが「気をつけ!礼!」と言うと、部員は一斉に礼をします。そして元の姿勢に戻ると全員で「アッシター…」と声を出しました。部員たちはホットした表情で部室へ戻って行きます。
その時、ヤスヒロが「シンジ、ちょっとオレん球受けてくれ…オサム相手じゃ感じがつかめん…」と言いました。そこへ一年のヨシユキがやって来て「シンジ先輩、もう少し投げ込みたくて…ちょっと付き合ってもらえませんか…」と言います。シンジはヨシユキの方を振り向くと「わかった…」と言います。そしてヤスヒロに「すまん、少し待っちょってくれ…」と言うと、ヨシユキに「行こう…」と言って、ブルペンへ向かいました。ヤスヒロは、二人の後姿を見ながら「なんで一年のヨシユキが先なんや…」と言います。シンジは立ち止って振り向くと「何でって…試合前やし…」と答えました。ヤスヒロは「こいつがエースやからか…」と、屈折した表情で言います。ヨシユキは帽子を取り、戸惑った表情を見せました。シンジは「ヤスヒロ…」と声を掛けますが、ヤスヒロはふて腐れた表情で「帰るわ…」と言うと部室へ向かいました。シンジはミットを叩きながらヨシユキに「よし行こう…」と言うと、先にブルペンに歩いて行きました。あっこはその様子を確りと見ていました。
あっこの家では、あっこの帰りが遅いので、父親の哲夫が心配して苛立っていました。それを見かねた母親の圭子が、炊事をしながら「お父さん、少しは落ち着いたら…」と言います。哲夫は壁の時計を見て「もうこんな時間やぞ…まったく、野球部なんかすぐに辞めるち思とったのに…」と言います。そんな夫の様子を見て、圭子は笑いながら「けっこう続いちょるな…」と相槌を入れます。哲夫は「だいたいうちは、だーれも野球なんか興味ないのに…何なんだ、野球、野球なんだ…」と言います。圭子は「野球もやけど、きっと仲間が好きなんやない…」と答えました。哲夫は急に真剣な顔になって圭子に「まさか、誰か好きな男とか…」と聞きました。圭子は、哲夫の顔を見てニャッと笑うと、また炊事を始めました。哲夫は「まったく遅いのう…」と言うと、キッチンを行ったり来たりしていました。
そこへ、あっこがキッチンの戸を開けながら「只今…」と言って、入って来ました。ちょうど入り口で鉢合わせになった哲夫は、驚いた表情で「アアー、お帰り…」と言います。あっこは哲夫の顔を見ると「お父さん、どっか行くん…」と聞きます。哲夫は、慌てた表情で「いや、どこも行かんよ…」と答えました。あっこは、匂いで気づいたのか、嬉しそうな元気な声で「お母さん、今日は団子汁…」と言うと、ガス台に歩み寄り、鍋の中を見ました。圭子は、そんな娘を見ながら楽しそうに「そうで~こらこら…手を洗ってきよ…」と言いました。
リビングには飼い猫のクーが、籠にタオルを敷きつめた自分の寝床で寝ていました。あっこは「クーちゃん…ただいま…元気だった…」と言いながら、クーを抱きかかえました。
あっこは食卓に着くと、元気よく「いただきます…」と言って夕食の団子汁を食べ始めました。そこへ、兄の和樹が「ただいま…」と言いながら入って来ます。圭子は和樹に「お帰り…」と声を掛けました。和樹は腰を手で押さえながら「きついな~」と言いながらリビングのソファーに座り込みました。圭子は和樹に「どうしたんなー疲れた顔をして…」と声を掛けます。和樹はソファーにもたれかかりながら「今のご時世、車なんかなかなか売れんわ…」と、疲れた表情で答えました。
圭子は和樹に「ご飯は…」と聞きます。和樹は短く「食べた」と答えました。圭子は、少し怒った表情で「もう…そう言う時は、いつも連絡しろち言っちょるやろう…作るもんの身にもなりや…」と言いました。するとすかさずあっこが「じゃー私、お兄ちゃんの分も食べるは…」と言うと、立ち上がって団子汁を鍋からお椀につぎはじめます。それを見ていた和樹は、あっこに近寄って来て「お前、ダイエットせんでいいんか…ダイエット…」とあきれた表情で言いました。あっこは団子汁をつぎながら「ダイエットなんかしよったら、マネージャーできんよ…甲子園に行くんやし…」と答えました。和樹は呆れたように「甲子園、甲子園ち…お前んとこ無名校やないか…」と言います。あっこは振り向きざまに「うるさいなあ…」と言いました。どこにでも見られる、家族の一家団らんの様子でした。
秋季高校野球大分県予選2回戦が行われていました。
ヨシユキが三振を取ると、スタンドで応援していたあっこが「オッケイ…これで三振六つ目や…」と真紀に言います…試合は9回の裏まで進み、スタンドからは「あと一人、あと一人…」と声が掛けられていました。ヨシユキは、二塁走者のリードが気になって、ピッチングプレートから足を外しました。キャッチャーのシンジがマスクを取って立ち上がり「ヨシユキ、あと一人や…バッター勝負、バッター勝負…」と声を掛けます。そして野手を見ながら「さあ、声出して行くぞ…」と言いました。ベンチからは「バッター集中…」と声が掛けられます。あっこはスタンドからメガフォン越しに「ヨシユキガンバレ…」と大声を掛けました。ヨシユキは、慎重に二塁走者を目で牽制して、ボールをバッターに投げました。次の瞬間、球場にカキーンという金属音が鳴り響きました。打球はグングン伸びて行きます。ヨシユキは打球を目で追っていました。ベンチではヤスヒロが立ち上がって、打球を見つめていました。打球はスタンドの芝生へ突き刺さりました。逆転サヨナラツーランホームランでした。ヤスヒロはベンチで「クソー…」と言いながらグローブを地面にたたきつけました。あっこもヨシユキも茫然と立っていました。
試合終了後、由志館高校の生徒たちは、制服に着替えて球場の選手用通路の入り口でミーティングをしていました。
ヨシユキは「すいません…」と言うと、深々と頭を下げて謝りました。キャプテンのシンジは、ヨシユキを見ながら「お前のせいじゃない…」と優しく言います。ヨシユキがすまなそうに「でもオレ…」と言うと、シンジは遮るように「オレ達がもっと点を取っちょってやったら、ヨシユキも楽に投げられたんや…」と言いました。するとヤスヒロが「やめろよ、気色悪い…お前らも心の中では思っちょるんやろう…ヨシユキのせいで選抜が消えたっち…くそ暑い日も、くそ寒い日も、死ぬほど練習してきて、あの一球でぶち壊しや…所詮無理やったんやな…一年坊主なんかにマウンドを任せるのは…」と言います。シンジはヤスヒロの前に歩み寄って「やめんか…ヨシユキだけが悪いんやない。こいつは頑張って投げたんや…一年やとか関係ない。お前もわかっちょるやろう…ヨシユキはうちのエースや…」と、ヨシユキをかばいました。それを聞いていた別の生徒がヤスヒロに「シンジの言うとおりや…」と言いました。ヤスヒロは黙ってその場を立ち去りました。あっこはその様子を心配そうに見ていました。
ヤスヒロは一人で歩いていました。後ろから、あっこが走って追いかけてきました。あっこは立ち止ると「ヤスヒロ先輩…」と声を掛けます。ヤスヒロは振り向くとあっこに「何や…」と言いました。あっこは、慎重に言葉を選びながら「あっ…えいとう…キャッチボールしませんか…」と言います。ヤスヒロはあっこの言葉の意味が分からずに「はあー…」と言います。あっこはヤスヒロの手をいきなり握ると走り出して、キャッチボールのできる場所に連れて行きます。ヤスヒロは迷惑そうに「何するんや…」と言うのですが、あっこは「先輩…今日…投げ足りないんじゃと思って…」と言いました。あっこは、ヤスヒロとキャッチボールができる間隔を取ると「じゃあいきます…」と言ってボールをヤスヒロに投げました。
あっこは、ヤスヒロの顔を見ながら「くやしかったんですよね…先輩…分かります、私だって凄く…」と言います。ヤスヒロは「お前に何が分かる…お前の遊びのキャッチボールとは違うんや…こっちはな、真剣にプレーしとるんや…」と言うと、あっこに歩み寄ります。そして「僕が試合中に何を考えてるか分かるか…ヨシユキが打たれりゃいい…そうすりゃ試合に出られる…この思い、お前に分かるわけねえやろう…」と言うと、手に持っていたボールを地面に叩きつけて帰って行きました。あっこは、その場に立ったまま悲しそうな表情をしていました。
その夜、あっこはベッドに寝ながらボールを天井に投げて、一人でキャッチボールをしていました。今日あった出来事を考えながら…。あっこの部屋の壁には『優勝するぞ!…めざせ甲子園!…全員野球…』などと書かれた手書きのポスターが何枚も貼られていました。
あくる日、学校では休憩のチャイムが鳴ると校内放送が始まりました。
「お知らせします。二年工業科の黒田ヤスヒロ君、黒田ヤスヒロ君、忘れ物がありますので、放課後、野球部のグラウンドまで来てください。繰り返します…」と…
ヤスヒロは、制服姿でグラウンドに来ていました。土手お降りてスタンドの網のところまで来て、グラウンドを見るのですが誰もいませんでした。ヤスヒロはグラウンドに降りて周りを見回すと、ベンチにトレーナー姿であっこが座っていました。あっこが歩み寄ってくると、迷惑そうな顔で「何や…お前か…何や忘れものって…」と言います。あっこはヤスヒロの目を見ながら「私の話、ちゃんと聞かないで帰ったじゃないですか…ヤスヒロ先輩…私…野球に真剣です…」と言います。ヤスヒロは、少し含み笑いをしながら「フン、口だけなら何とでも言えるやろう…」と言うと、帰り始めます。あっこは、ヤスヒロに立ちふさがるようにして、真剣な表情で「私と勝負してください…」と言います。ヤスヒロは意味が分からずに「はっ…」と聞き返しました。あっこは「先輩真剣に投げて下さい。私がそれを取って見せます。」と言います。ヤスヒロは、呆れた表情で「何を言うとるんや…」と言うと、帰って行きます。あっこは、ヤスヒロの後姿に「逃げるんですか!勝負から…ヨシユキに勝ちたいんですよね…」と投げかけました。
ヤスヒロは、制服に革靴のままでマウンドに立っていました。あっこは、マスクをかぶり、プロテクターとレガースをつけて、完全防備で現れました。そして真剣な表情でホームベースの後ろに座りました。ヤスヒロが第一球を投げると、身動きもできずにボールをやり過ごしました。そして「ウワー…」と言って後ろに倒れました。あっこは起き上がるとすぐにホームベースの後ろに座り「もう一丁…」と声を掛けてミットを構えました。ヤスヒロが第二級を投げると、ボールはミットをかすりもせずにダイレクトでプロテクターにあたりました。それから次々とヤスヒロは投げるのですが、結果は同じことの繰り返しでした。しかし、あっこは諦めませんでした。「まだまだ…」と言うと、またミットを構えました。いつの間にか、ほかの野球部員たちが集まって、スタンドから二人の様子を見つめていました。
あっこが「もう一丁…」と言うと、ヤスヒロが投げたボールは、ダイレクトでマスクにあたりました。その勢いに負けて、あっこの体は仰向けに倒れました。野球部員たちは心配そうに見つめていました。しかし、あっこはまた起き上がりました。ヤスヒロが「もういいやろ…諦めろ…」と言うと、あっこは立ち上がり「いやです…諦めません…ヤスヒロ先輩も諦めないでください…戦うことを…ヨシユキとも…自分とも…」と言うと、また座ってミットをかまえました。そして「さあ来い…」と叫びました。ヤスヒロが次のボールを投げると、ボールは吸い込まれるようにミットの中に入って行きました。投げたヤスヒロも捕ったあっこも驚きます。あっこはミットを自分に向けて、中に入っているボールをじっと見つめていました。そして立ち上がり、両手を上げて「ヤッター!…ヤッター!…取った!…やったよ先輩…取りました…」と叫びました。スタンドで見ていた野球部員たちが「あっこスゲーナー…」と声を掛けました。
時は過ぎて、福祉科二年の授業が行われていました。担任教師も生徒も作業服に着替えて、ベッドに寝ている人の介護訓練をしていました。
担任教師が「いいかえ…介護する側、される側…双方のイメージをしっかり持って、一つ一つを確認しようね…」と言います。生徒達は一斉に「はい…」と答えました。しかしあっこは、ベッドに横になってぐっすりと寝ていました。真紀が心配して「もうあっこ…いつまで寝ちょるの…はい起こすよ…」と言うと、授業で習ったとおりに、手をあっこの首に巻いて起こしました。すると真紀は、手に違和感を感じたのか、あっこの首を見ながら「あれ、これ何…」と言いました。あっこは真紀を見ながら「うん…どうしたん…」と聞きました。真紀は、あっこの首を見ながら「あっこ、あんたここに何かあるで…」と言います。あっこは、自分の手で首を触りながら「ほんとうだ…ぐみみたい…なに、これ…」と言いました。
その様子を見ていた担任教師がやって来て「大宮さん、どげんした…」と聞きます。あっこは、首を手でさすりながら「首に何かあるみたいです…」と答えました。担任教師は、手であっこの首を触りながら「うん…あっ、何やろう…何か違和感ある…痛い…」と聞きました。あっこは「ううん、痛くないです。」と答えました。担任教師は、あっこの首を触りながら「うん…念のために病院に行った方がいいかも知れんね…」と言いました。あっこは、心配そうに「はい」と答えました。
2007年5月、あっこは大分の病院で精密検査を受けていました。
後日、検査結果を聞きに来た圭子は、車の中から哲夫に電話を入れます。
「もしもし…」
「ああ…あんな…検査結果が出たんよ…」その声は、心配そうな声でした。哲夫の声も「出た…もしもし…」と、沈んだ声でした。映像は、主治医が圭子に検査結果を説明する様子が流れています。
主治医は「お譲さんは、鼻の奥のつきあたる部分、これを上咽頭といいますが、ここに大きな腫瘍ができています。」と、模型を使って説明します。圭子は「腫瘍…」と心配そうに聞き返しました。主治医は「お母さん…落ち着いて聞いて下さい。検査の結果、この腫瘍は悪性だと分かりました。すでに、首のリンパ節への転移が見られます。一刻も早く専門の病院での治療をお勧めします…」と説明しました。
圭子は自宅で、あっこの病状を哲夫に説明していました。
哲夫は驚いた表情で「何かの間違いちいうことはないんか…」と言います。圭子は、沈痛な表情で首を振りながら「何度も確認したわ…」と答えました。哲夫は、落ち込んだ表情で下を向きながら「マジかい、マジかい…」と言います。圭子は、焦点の定まらない目つきで「あっこに話さんとな…告知して、直ぐにも治療始めんといけんち…」と言います。哲夫は心配そうな表情で「教えるんね…あの子に、病気のこと全部…」と言います。圭子は苦悩に満ちた表情で「あっこも、もう高校生や…ちゃんと理解できる…」と、自分に言い聞かせるように言いました。哲夫は動揺していました。そして心配そうに「耐えられるやろか…」と言いました。圭子は哲夫の顔を見ると、少し語気を強めて「私らがしっかりせんと…」と言います。哲夫は、促されるように「うん…」と答えました。
病院では、主治医があっこに病気の説明をしていました。
「いいですか…あなたの病気のことをお話しますから、落ち着いてしっかり聞いて下さいね…」あっこは、主治医を真剣な表情で見つめながら「はい」と答えました。圭子は、そんなあっこを心配そうに見つめていました。
主治医は模型を使いながら、あっこに説明を始めました。
「では…鼻の奥のこの部分に、悪い腫瘍ができています。大体50ミリ×30ミリぐらいの大きさです。できれば直ぐに専門の病院に入院して治療しましょう…治療方法ですが、この場所にできる腫瘍は手術が難しいです。だから放射線を当てる治療と、抗がん剤という少し強い薬を投与していきます。」主治医は、優しくゆっくりと話しました。あっこは、主治医の顔を覗き込むように見ながら、小さな声で「ガン…私ガン何ですか…」と聞きました。圭子は隣で、心配そうにあっこの顔を見つめていました。
主治医は、落ち着いた声でゆっくりと「はい…上咽頭ガンです…」と答えました。あっこは不安そうな表情で「治るんですか…」と聞きました。圭子は、うつむきながら主治医とあっこの会話を聞いていました。必死で耐えていると言う感じで…主治医は「薬は、良く効く人と効かない人がいます。まずは治療の効果を見てみないと…」と答えました。あっこは「絶対治るわけじゃないんですか…」と聞きました。主治医は「今は、いろいろな治療法がありますから、試して行きましょう…」と答えました。あっこはさらに「それで治らなかったらどうなりますか…教えてください…」と聞きました。主治医は「この病気は、命にかかわる場合もあります。今も進行している状態なので、おそらく一番厳しい治療を受けることになります。福岡にある病院に紹介状を書きましょう…ガン専門の病院です。」と答えました。
その日の夜、外は雨が降っていました。あっこの部屋は、机の電気スタンドの明りだけが灯されていました。あっこはベッドで、頭から布団をかぶって寝ていました。圭子の「あっこ…入るよ…」と言う声が聞こえてきました。圭子は、トレーにあっこのご飯とおかずを載せて部屋に入ってきました。そしてテーブルにそれを置くと「あっこ…ご飯ここに置いとくな…団子汁やからな…伸びる前に食べよう…」と言いました。圭子は、あっこの様子を心配そうに見ていました。
翌日、学校では、圭子から担任教師に電話がかかって来ました。
「そうですか…私たちにできる事があれば何でも仰ってください。はい…では失礼します。」と…隣では、野球部の監督で教師の本宮が心配そうに電話の遣り取りを聞いていました。本宮は「高橋先生」と、あっこの担任に声を掛けました。担任の高橋は「三か月の入院治療だそうです…」と答えました。
あっこは、ベッドの上で膝を抱えて座っていました。深刻そうな表情で一点を見つめてこれからのことを考えていました。あっこの目から次々と涙がこぼれ落ちてきました。その時、携帯のベルが鳴りました。真紀からのものでした。
あっこは、沈んだ声で「もしもし…」と言います。真紀は「あっこ…カゼ大丈夫…」と聞きました。あっこは気を取り戻すように、懸命に笑顔を作って「うん…大丈夫よ…」と答えました。真紀は「そう…よかった…なあ、覚えてるかな…明日予選大会の抽選ち…いよいよ始まるな…あっこ、明日は来られる…」と言います。あっこは、複雑な表情で聞いていました。
野球部室では、ミーティングが行われていました。ホワイトボードには、第89回全国高等学校野球選手権大分大会組合せと書かれた、トーナメント表が貼られていました。そして、そこにはあっこも出席していました。
監督は「予選の組み合わせが決まった…一回戦の相手は桜台…去年の秋、うちが負けた強豪や…」と言うと、トーナメント表に赤マジックで優勝の位置まで線を引きました。部員たちは、真剣な表情で監督を見つめていました。そして監督は「ここまで来るのは大変なことや…でもなあ、これだけは忘れんでくれ、お前たちは決して一人じゃねえぞ…」と言うと、あっこに視線を合わせました。あっこも監督の目をじっと見つめていました。
グラウンドで練習が始まりました。あっこはベンチの前に立って、練習風景を目に焼き付けるようにじっと見つめていました。次第にあっこの目が、赤く染まって行きました。その時、女子マネージャの先輩が「あっこ…ちょっと変わっちくれん…」と声を掛けました。あっこは「はい」と答えると、小走りで駆け寄り、ノックの球出しを交代しました。あっこが「はい」と言いながら監督の手にボールを渡すと、監督は振り向いてあっこの顔を見つめました。そして、優しく笑顔で「オッ…」と声を掛けると、また「いくぞ…」と言いながらノックを始めました。あっこは笑顔で、懸命に球出しを続けました。「ファイト…ナイスプレー…」と言いながら…
練習終了後、部室では、予選大会に出場するメンバーに、背番号渡しが行われていました。監督が「気合入れていけ…」と言うと、受け取った部員は「はい、ありがとうございます。」と答えました。
背番号を渡し終えると監督は「以上…今年のベンチ入りは、この20名や…ただし、戦うのは、ここにいる全員や…」と言います。部員全員が「はい」と答えました。あっこの目は、監督をじっと見つめていました。そして、緊張が走ります。あっこは突然「すいません…私…」と言いました。しかし、次の言葉が出てきませんでした。監督の視線が心配そうにあっこに向かいました。いつもと違う雰囲気を感じたのか、キャプテンのシンジが心配そうに「あっこ、どうしたん…」と聞きました。あっこはうつむき加減で「福岡の病院に入院することになりました。」と答えました。部員たちは「何な…どうした…」と心配そうに聞き返します。隣にいた真紀が、あっこの顔をじっと見つめています。あっこは「検査の結果で…私の病気はガンやち言われました…どうしていいか正直まだようわからんで…でも、頑張って治療してきます。だから、皆さんも甲子園目指して頑張ってください…何か、こんな時にすいません…失礼します…」と言うと、あっこは一礼して、一人で部室を出て行きました。しばらくの間、部室は静まり返っていました。そして、キャプテンのシンジが「あっこ…」と言って追いかけて行きました。部員たちもそれぞれに「あっこ」と言いながら追いかけて行きました。
あっこが、スタンドの通路を歩いていると、シンジ達が「あっこ…あっこ…」と言いながら追いかけてきました。あっこは、ビックリした表情で、野球部員たちを振り返って見ていました。
シンジが「あっこ…約束する。オレ達甲子園に行くけん…あっこと一緒に絶対に…」と言います。あっこは「私と一緒…」と聞き返しました。するとシンジが、優しそうな笑顔で「だからあっこも約束や…戻っち来いよ…」と言いました。エースのヨシユキは、心配そうに「負けるな、あっこ…」と言います。ほかの部員たちもそれぞれに「すぐ帰っち来いよ…待っちょるけんな…」と言いました。女子マネージャーの先輩も心配そうな表情で「私と真紀でマネージャーしっかりやるけん、安心してな…」と言いました。「ガンバレあっこ……絶対に負けるな…」と、それぞれが言いました。あっこの目は潤んでいました。あっこは、全員を見渡すと「みんなありがとう…約束する…さっさと治して帰ってくるけん…」と、懸命に微笑みながら言いました。あっこは一礼すると、小走りで去って行きました。野球部員たちは全員で、あっこの背中に「ガンバレあっこ!…負けるなよ!…」と声を掛けました。あっこは堪らなくなって泣き始めました。しかし、振り向くことなく去って行きました。
あっこは、哲夫の運転する車で、福岡のガンセンターへ向かっていました。あっこを乗せた車が、由志館高校の野球練習グラウンドの近くを通ると、あっこは窓ガラスを下げてグランドを食い入るように見ていました。そんなあっこを哲夫と圭子は心配そうに見つめていました。
福岡がんセンターに着くと、看護師があっこたちを病室まで案内してくれました。病室に着くと看護師は「こちらになります…」と言って病室に入って行きました。あっこたちも後ろについて入って行きました。
哲夫は「じゃあ…父さん仕事に行ってくるけん…」と言います。あっこは「うん…」と答えました。哲夫が「じゃあ…じゃあのう…」と言うと、あっこは意外と明るい表情で「行ってらっしゃい…」と言いました。圭子が「気おつけて…」と哲夫に声を掛けます。哲夫は看護師に頭を下げて「よろしくお願いします」と言って歩いて行きました。哲夫が病室を出ようとすると入り口で、同室の老女に会いました。哲夫は「大宮です。よろしくお願いします…」と言うと、深々と頭を下げました。老女は笑顔で「こっちこそ…」と言います。哲夫が病室を出て行くと、老女はあっこたちに歩み寄って笑顔で「よろしくお願いします」とていねいにお辞儀をしました。圭子が笑顔で「よろしくお願いします」と言ってお辞儀をすると、あっこも笑顔でお辞儀をしました。
主治医の部屋に、あっこと圭子は呼ばれていました。
主治医が「今日からあなたの主治医を務めます。澤田です…」と、挨拶をすると、圭子が「大宮です。よろしくお願い致します。」と挨拶しました。主治医はカルテを見ながら「大宮耀子さん…」と言いました。あっこは「はい」と答えました。主治医は、あっこの目を見ながら「あっこちゃんって呼んでいいやろうか…」と聞きました。あっこは「はい」と答えました。主治医が「じゃあ、あっこちゃん。これからのことを説明するね…」と言うと、あっこが真剣な表情で「先生、私、野球部のマネージャー何です…」と言いました。主治医の澤田はあっこの顔をじっと見つめながら「あっ…」と言いました。あっこは「絶対治して甲子園に行きたいんです。頑張るんでよろしくお願いします。」と言うと、頭を下げます。圭子も一緒に頭を下げました。あっこの唐突とも取れる言葉に、主治医の澤田は、戸惑っているようにも見えました。しかし、主治医の澤田は笑顔で「じゃあ、これから僕とあっこちゃんは、一緒に頑張るバッテリーやね…」と言いました。それにつられてあっこも笑顔で「はい」と答えました。澤田はあっこの顔を観察しながら、あっこの性格を把握しようとしていました。
澤田は「これからの治療予定やけど、まずは7月2日に手術をするね…抗がん剤を注入する為のカテーテルという管を耳の横の血管に入れる手術です…その管から、抗がん剤を24時間投与してゆくんやけど、これはだいたい3カ月がめどかな…」と言います。するとあっこが「3か月…」と復唱しました。思っていたよりは長い期間だったのか、あっこの顔が曇り始めました。しかし澤田は、そのまま説明を続けました。「それと同時に、放射線治療が始まるね…2週間くらいは、吐き気や目まいがしたり、食欲がなくなるってことがあるかも…僕の言っていること、ここまで分かりますか…」と…あっこは黙ったまま、深刻そうな表情で考えていました。圭子は心配そうに、あっこの顔を見ていました。主治医の澤田も心配そうに「あっこちゃん…」と呼び掛けました。あっこは、気を取り戻すように顔を上げて真剣に「私、頑張ます。どんどん元気になって、夏の甲子園に行きます…」と答えました。澤田は少しホッとした表情で笑顔を見せて「あっこちゃん…慌てん慌てん……じゃあ、これから採血するけんね…」と言いました。
あっこは病室で、床に紙を広げて何か書きながら「ああ、豚骨ラーメン食べたい…」と言いました。ベッドの周りを片付けていた圭子がすかさず「さっき、お昼食べたばかりやろ…」と言いました。あっこは「ねえ…クーちゃん元気かな…」と聞きます。圭子は「さっきまであっとったやろう…」と言います。あっこは手を休めて、母を見上げながら「会いたいな…あっそうや、今度こっそり連れて来て…」と言いました。圭子は「エッ…猫…ダメにきまっちょるやろう…」と、呆れたように言いました。そんな二人の会話を同室の老女は楽しそうな笑顔で見ていました。あっこは、今書き上げたトーナメント表を壁に貼り付けました。それには『今年やらずにいつやるんだぁ……気合いだぁ…!由高野球!』と書いてありました。
あっこは、一段落するとラウンジに行って椅子に座り、携帯を見ていました。真紀からメールが届いていました。
「☆今日の野球部☆ あっこ調子はどう?あたしはずっとあっこのこと考えてる。今日の野球部は監督が休みで自主練です。
今日の野球部の報告をします。ヨシユキは、何時にも増して気合入っちょった…今日は監督が休みやったから、シンジ先輩が代わってノック頑張ってくれたんや…そして、タツヤ先輩とハルヒコたちがアメリカンノック志願して…とにかくみんな甲子園に一直線ちゅう感じやったで…じゃあね…明日からもずっと定時連絡するけんな…」と書いてありました。そして携帯には、映像も送られていました。グランドで、野球部員による人文字で、あっこガンバレと書いた写真が…
ラウンジで一息したあっこは、病室に戻りました。病室には監督の本宮先生が来ていました。圭子が「本宮先生、こんな遠くまでわざわざすみません…」と…本宮も「こっちこそ突然すみません…」と、挨拶をしていました。あっこは本宮の姿を見ると「先生!」と声を掛けます。本宮も「おお…大宮…どうや…」と声を掛けました。あっこは、本宮の背広姿に違和感を感じたのか、まじまじと本宮の姿を見つめていました。本宮は不思議そうに「何や…」と言います。あっこは「いや…凄い違和感やなち思って…先生がネクタイしとるん…」と言いました。本宮も負けずに「お前だっていつもと違って、パジャマやないか…」と言いました。あっこが「変ですか…」と聞くと、本宮は「いいや…病院で泣いとるんじゃないかと思って来てみたんじゃけど、いつもと変わらんな…」と言いました。あっこは、顔を少ししかめながら「何で泣くん…」と言い返しました。本宮は「オーオー、絶好調やないか…今度みんな連れて来ちゃるけん…」と言います。あっこは笑顔が消えて真顔になり「先生…私…退院するまでみんなに会いません…」と答えました。本宮の顔が少しこわばると、圭子が「あっこ…」と声を掛けました。あっこは圭子の方を向いて「約束したから、ちゃんと治してグランドに帰るからって…」と言います。本宮は、あっこの顔を見ながら、小刻みに頷いて「そうか…」と言いました。あっこは、本宮の顔を見てニッコリと笑いました。圭子は「どうぞ」と言うと本宮にお茶を出しました。
自宅では、哲夫と和樹が買って来た弁当で夕食をしていました。
哲夫は沈んだ調子で「いまいちやな…この弁当…」と言います。和樹も気のないように小さな声で「うん…」と答えました。哲夫がまたぽつりと「今日早かったな…」と言うと、和樹は「うん…」と答えるだけでした。あっこがいない家では、今までとは一変した光景でした。
あっこはベッドに座って漫画の本を見ていました。帰宅の時間が来た圭子は「じゃあ…あっこ…明日の朝来るけんね…」と言います。あっこは笑顔で「うん」と答えました。圭子が「おやすみ…」と言うと、あっこは漫画の本を見ながら「おやすみ…」と答えました。圭子は病室を出て行きました。誰もいない待合室を通り抜ける時、圭子の後姿に苦悩が感じられました。
実際に主人公のモデルになった方が書かれた日記です |
病室で一人になったあっこは、本を閉じると何か考えているようでした。そして、買って来たばかりのノートをビニール袋から取り出して、しばらく見つめていました。そしておもむろに、表紙にDIARYと書きました。あっこはページをめくると日記を書き始めました。「6月25日(月)晴れ 病院の部屋に着いた。先生にいろいろこれからの治療を聞いた。私の病名は上咽頭ガン…まさか自分がガンになるなんて思わなかった。寂しいけどみんながついている。あっこの為に甲子園に行くって言ってくれた。約束してくれた。私はみんなを信じている。強くならなきゃ!」と…
あっこはストレッチャーに寝かされて運ばれていました。手術室の前まで来ると看護師が「こちらで少々お待ち下さい。」と言うと、手術室の中へ入っていた。あっ子には哲夫と圭子が付き添っていた。哲夫は「あっこ、頑張っち来いよ…」と心配そうに言います。あっこは哲夫を見て元気な声で「あたりまえよ…ちゅうか何でお父さんが泣きそうなんよ…」と言いました。すると哲夫は「それは、それはお前が心配やけん…」と取り繕うように言いました。あっこは「お父さんの方がよっぽど心配やが…」と言います。それを聞いていた圭子は、笑いながら「ほんとやなあ…」と言いました。そこへ、手術室から看護師が出て来て「準備できましたので…」と言うと、別の付き添っていた看護師が「それじゃ行きましょうか…」と言って、ストレッチャーを押しながら手術室へ入って行きました。哲夫と圭子は看護師に「よろしくお願いします…よろしくお願いします…」と言うと深々と頭を下げました。そして圭子が手術室の外から「あっこ、頑張るんやで…」と言うと、ストレッチャーに寝かされたまま運ばれているあっこは「うん」と答えました。
手術は無事に終わりました。あっこは、抗がん剤を投入する小型の機械をお腹の前にベルトで固定したポシェットの中に入れていました。あっこの声で日記が読まれています。「抗がん剤を入れる管を耳の横の血管に入れる手術…私、約四時間したって聞いてビックリした…明後日から放射線…きっと辛いんだろうな…痛いんだろうな…もっともっと、もーっと頑張らんと…」と…
放射線室で放射線治療が始まろうとしていました。技師が「じゃ、これからお面をかぶりますのでね…」と言うと、あっこにフェンシングのマスクのような網の面をかぶせました。技師はあっこが寝ている台の操作をしながら「位置を合わせて行きます…台上がります…」と言うと、あっこの体は吸い込まれるように機械の中へ入って行きました。別室のモニターの前では、技師や医師たちが真剣な表情で、モニターの中のあっこを見つめていました。そして「大宮さん、始めます」と言いました。自動制御された機械が、あっこの体の周りを動いていました。
放射線治療が終わって、あっこは自室に戻ってベッドに横たわっていました。あっこの息遣いは荒くて「は…は…」と言っていました。圭子は、そんなあっこの背中をさすりながら「大丈夫なん…頑張ってな…」と励ましていました。あっこは苦しそうな顔で「大丈夫」と言いました。そして日記が読み上げられます。「涙が出てきた…くやしかったのかな…まだ、キツイことはあるんだ…頑張らなきゃ…」と…そして映像は、懸命に練習をしている、野球部の練習風景が映し出されていました。
あっこは病室で、折り鶴を折っていました。その時、カーテン越しに「大宮耀子さん…」と言う声がしました。あっこが「はい」と答えるとカーテンを開けて「ニャーオ…」と泣きながら猫に扮装した和樹が現れました。頭に耳をつけマジックでひげを描いた顔はユーモラスなものでした。あっこは和樹の顔を見ると「お兄ちゃん、何それ…」と言いました。和樹は両手を前に出して猫のマネをしながら「お前が会いたがっていたクーちゃんです。」と言いました。しかし、あっこの表情はさえませんでした。それを見た和樹は、少し語調を強めて「お前どうしたんか…元気のない顔をして…」と言いました。あっこは沈んだ表情で「治療の副作用でな、何食べても美味しくないんよ…」と答えました。和樹は「そうやないかと思った…ヨイショ…はいお待ち…」と言うと、岡持をベッド専用のテーブルに載せました。和樹が岡持の蓋お開けると、中にラーメンのドンブリが二つ入っていました。あっこは嬉しそうに「豚骨!…ウワー美味しそう…嬉しい!…」と言いました。和樹が「早く食え…バレンうちに…」と言うと、あっこは嬉しそうに笑顔で「いただきます…」と言うとラーメンを食べ始めました。和樹は嬉しそうにあっこの顔を見ていました。しかし、あっこが一口食べると、あっこの表情が曇りました。あっこは、和樹の顔を見ると沈んだ顔で「ごめん…」と言いました。和樹はおどけた顔で「そうか…無理に食うのはいけんわ…これもオレがあとで食う…」と言いました。すると同室の老女がカーテンを開けて「よか匂いがするね…」と笑顔で言いました。
老女はベッドから降りて、あっこのテーブルで和樹と一緒にラーメンを食べていました。顔はほころび「うんうん…うまか…」と言いながら…あっこはそんな二人を笑顔で見つめていました。
映像は、ある日の由志館高校の練習風景が流れています。真紀が籠にドリンクのボトルを入れて、グラウンドを走り回っていました。野球部員が真紀に近寄ると「真紀…今日は早めにアイシング作っておいてくれ…」と頼みました。真紀は元気よく「はい」と答えるのですが、その様子にはゆとりがありませんでした。また別の野球部員から「真紀、明日の試合のロウジン用意しておいてくれた…」と聞かれると「ああごめん…」と答えました。野球部員は「エッ…早く用意してくれよな…」と言います。真紀は、慌てたように「うん」と答えると、走って行きました。真紀の様子を見ていると、あっこの穴を埋めるのは大変なようでした。野球部の部室のホワイトボードには、県予選まであと1日…あっこ!共に頑張ろう!!と書かれていました。
県予選の当日の朝、あっこが自室のカーテンを開けると、海の向こうの雲から光が射し出ている風景が見えました。あっこは、その光をずっと見つめていました。
いよいよ全国高校野球選手権大分大会1回戦の由志館高校の試合が始まりました。先発はエースのヨシユキでした。選手たちはそれぞれが声を出し、キャプテンで捕手のシンジがシマッテイコウ!と大きな声で声を掛けました。その時あっこは、ベッドで横になって副作用の痛みに耐えていました。あっこは心の中で「ヨシユキファイト!」と声を掛けました。
あっこはベッドの上に座って、苦しそうにしていました。圭子は、そんなあっこの背中を心配そうにさすっていました。そこへ監督の本宮先生が見舞いに来ました。本宮は病室に入ってくるなり「大宮!アイツラからや…」と言うと、あっこの目の前にボールを差出て「ウイニングボールや…6回コールド…ヨシユキが完封しよった…」と言います。そして本宮は、あっこの手にウイニングボールを握らせました。あっこは嬉しそうな笑顔で、ウイニングボールを見つめていました。本宮は、覗くようにあっこの顔を見ながら「オレ達はずっと、お前にウイニングボールを届けるけん…そんで甲子園や…」と言いました。あっこは笑顔で「はい」と答えました。あっこは心の中で「大丈夫、私は強いから…40人の選手が背中と心についとるもんな…」と言いました。
数日後、哲夫は自宅で新聞を読みながら笑っていました。由志館高校の二回戦7回コールド勝ちの記事でした。哲夫はハサミを取りだすと新聞を切りぬこうとしていました。その姿を見ていた和樹は「ええ、どうした…」と言います。哲夫は切り抜きながら「あっこに見せてやらんと…」と言いました。
あっこの病室には、ウイニングボールが二個に増えていました。あっこは、壁に張ったトーナメント表に黄色のマジックで線を引きながら、主治医の澤田に「とにかくヨシユキって、凄いピッチャー何です。ストレートは速いし、変化球は切れ切れで…私は大分県ナンバーワンち思っちょる…」と話していました。澤田は「へー…」と相槌を打ちました。あっこは、さらに続けて「それからシンジ先輩は、キャプテンでとにかく優しい…肩も強いし…それから…」と言いました。あっこの顔は生き生きと輝いていました。
澤田は、そんなあっこを見ながら「僕の方もよか知らせばい…」と言います。あっこが「エッ…」と聞き返すと、田中は「腫瘍が90ミリから50ミリに小さくなっとった…」と答えました。そばで聞いていた圭子が、身を乗り出すようにして嬉しそうに「本当ですか…」と聞き返しました。あっこは、目を大きく見開いて、澤田を見つめていました。澤田は「はい…でもその分、白血球の値は下がっとるね…」と言います。あっこの目は急にしぼんでしまいました。しかし気を持ちなおしたのか、あっこは笑顔で「大丈夫、甲子園までには絶対に良くなるけん…」と言いました。
その時、由志館高校のグランドでは、真紀が両手に四つの籠を持って立ったまま、ヤスヒロに叱られていました。「何でか…何でさっき頼んどったのにアイシング忘れるんや…」と…真紀は、頭を深々と下げて「すいません…」と謝ったのですが、ヤスヒロは「真剣にマネージャーやらん奴はやめろや…」と言いました。その様子を見ていたキャプテンのシンジが、ヤスヒロに近寄って来て「ヤスヒロ…真紀だって、あっこがおらんけんで大変なんや…みんな、あっこの為と思って頑張っちょるんや…お前にも分かるやろう…」と注意しました。ヤスヒロは歯向かうようにして「何があっこの為や…」と言いました。シンジは、信じられない表情で「エッ…」と言います。ヤスヒロは「シンジ、お前、予選でヒット1本も打っとらんやろう…そんな奴が偉そうに、口だけあっこの為、あっこの為…そんなことが本当にアイツの為になるっち思っとるのか…」と言いました。これは、控え選手の焦りや僻みとも感じ取れました。
シンジは怒って、ヤスヒロの胸ぐらをつかんで「ヤスヒロ!」と叫ぶと、もみ合いになりました。近くにいた部員が「シンジ!シンジ!やめろ…やめろ…」と止めに入ります。そして、二人のまわりには、あっという間に部員たちが駆け寄って来て、二人を引き離そうとしましたが、もみ合いは続きました。そこへ、三年女子のマネージャーがやって来て、中に割って入り「こんな時に何やっちょるの!」と叱りつけました。二人の睨み合いは続いていました。真紀はその様子を見ながら責任を感じていました。
数日後、病院ではあっこのいない部屋で、圭子がベッドの周りを片付けていました。そこへ、真紀が花束を持って見舞いに来ました。圭子は真紀とめが合うと、驚いたように「真紀ちゃん!」と言いました。真紀は悲しげな表情で「今日は…」と言います。圭子は「わざわざ大分から…」と嬉しそうに声を掛けました。真紀は、おどおどした表情で「ちょっとだけでもあっこに会いたくて…」と言いました。圭子は「ああ、ごめんな…今あっこ、治療室なんよ…最近副作用がきつくてなあ…うん、でもなあ、あっこ、治るまではみんなに会わんち言うて頑張っちょるは…あっ、ちょっと様子見て来るけんで、中に入ってまっちょって…」と言うと、病室を出てあっこの様子を見に行きました。
真紀は、あっこのいないベッドの周りを見渡していました。テーブルの上には、あっこの折った、紅白の折り鶴が無造作に置かれていました。そして籠の中にはウイニングボールが…壁にはみんなで撮った写真が…そして写真にはサインペンで書かれた最強!由高マエズ…みんな大好き!…闘う!美女マネーズ!ファイトや…気合や…と書かれた文字が…真紀は今にも泣きそうな目で見ていました。
その時あっこは、マスクをかぶって放射線治療を受けていました。真紀は、あっこのいないベッドのシーツをさわって「あっこ」と言いました。そこへ圭子が返って来ました。圭子は明るい声で「真紀ちゃんごめんな…あっこやっぱり…」と言うと、真紀は涙を拭きながら泣き声で「大丈夫です…私、帰ります…あっこが元気になって帰ってくるのを野球部で待ってます。」と言うと、深々と頭を下げました。映像は、野球部全員で写った記念写真に『由高全員野球や!絶対に甲子園や!』と書かれた文字が映し出されていました。
三回戦が行われていました。9回の表を終わって、由志館高校が1対0で勝っていました。真紀がスタンドから「ヨシユキ…ガンバレ!アウトあと3つ!」と声援を送りました。ヨシユキが第一球を投げた直後、痛烈なピッチャー返しのライナーがヨシユキの右肩にあたりました。スタンドもベンチも心配そうにヨシユキを見ていました。ヨシユキがベンチに戻って座っていると、控え選手の一人が、治療用のスプレーをヨシユキの右肩に掛けました。三年生の女子マネージャーは、「大丈夫!」と言うと、氷嚢をヨシユキの右肩に当ててアイシングを始めました。
監督がヨシユキに歩み寄ると、ヨシユキは立ち上がって「監督、オレ投げれます…」と、続投を訴えました。しかし監督は即座に「ダメや!ここで無理したら、お前の肩がダメになるかもしれん…」と言いました。それでもヨシユキは「でも…」と言って食い下がりました。しかし監督は、ヨシユキの言葉を遮るようにして「ヤスヒロ、肩できちょるな…行っち来い…」と言いました。ヤスヒロは突然の指名に茫然と監督を見つめていました。
背番号10のヤスヒロが、小走りでマウンドに上がりました。マウンドには、キャプテンで捕手のシンジと野手全員が集まっていました。場内アナウンスが「由志館高校、ピッチャー、中根君に代わりまして黒田君」とピッチャーの交代を告げました。シンジは「この回を抑えれば勝てるんや…とにかく落ち着いてな…」と言うと、ボールをヤスヒロに渡して、集まっていた野手全員に「さあ行くぞ!」と声を掛けて捕手の守備位置に戻りました。そこにいた野手全員が「ヨッシャー!」と声を掛けました。しかし、登板経験の少ないヤスヒロは、顔が強張り、あがっているようでした。シンジがヤスヒロに「さあ、楽に行こう…」と声を掛けるとミットをかまえました。シンジがセットポジションからボールを投げると、相手打者はコンパクトに振りきって、ボウルを打ち返しました。打球は二遊間を抜いてライト前に転がって行きました。敵のベンチが盛り上がりました。由志館高校側のスタンドからは「頑張れヤスヒロ!…ドンマイ…」と声がかかりました。そして、内野手がマウンドに集まりました。シンジは落ち込んでいるヤスヒロを見て「なあヤスヒロ、オレはあっこや…覚えちょるか…去年の秋、あっこがオマエの球を取ったやろう…アイツ本当に無茶するよな…あんとき、オマエ好い球投げとったで…あんときの球、オレに向けて投げてこい…オレ達がしっかり守るけん…」と言いました。ヤスヒロは、そこにいた野手の一人一人を見回しました。それぞれが笑顔でヤスヒロを見つめていました。シンジが「さあ行くぞ!…」と声を掛けると野手全員が「ヨッシャー!」と答えました。
その時あっこは、病室でボールを握って祈っていました。そして心の中で「ヤスヒロ先輩ファイト!」と声を掛けました。
マウンドでは、ヤスヒロが自分自身と闘っていました。ベンチやスタンドからは「しまって行こう!…頑張れ!…落ち着いて、落ち着いて…」と声が掛かりました。ヤスヒロは、セットポジションから第一球を投げました。ストライクでした。ベンチからヨシユキが「いい球来てますよ…」と声を掛けます。第二球はファールで、ツーナッシングとなりました。第三球は、レフト線への痛烈なファールでした。ヤスヒロは緊張していました。しかし、目は鋭く輝き、気持ちは打者に負けていませんでした。ヤスヒロは、セットポジションから第四球を投げました。カキーンと言う金属音が鳴り響き、三遊間に痛烈な打球が飛んで行きました。そしてショートが飛び付きました。ボールがグラブの中に吸い込まれるように入って行きました。結局、6-4-3のダブルプレーで、2アウトとなりました。ヤスヒロは、肩で大きな息をするとホットした表情を見せました。
あっこは病室で、野球部員のサインが入ったウイニングボールを握って祈っていました。心は球場の部員と共に闘っていました。スタンドからは「あと一人…あと一人…」と声が掛けられていました。ヤスヒロは、慎重に投げ続けて打者を三振に打ち取りました。野手がマウンドのヤスヒロの元へ駆け寄って来ました。ヤスヒロを抱きしめながら「ヤッター!ヤッター!」と叫びました。ヤスヒロは、茫然と立っていました。ベンチから控えの選手が飛び出して行きました。野手たちが、ヤスヒロの腕を握ってホームベースに連れて行くと、やっとヤスヒロの顔に笑みが浮かびました。そして、あっこの病室のウイニングボールが、また一つ増えました。
あっこの病室のトーナメント表に、由志館高校が決勝戦まで勝ち進んだ線が、黄色いマジックで引かれていました。
主治医の澤田は「いやー、僕も感激しています。ノーシードの由志館が、決勝戦まで行くなんて…あっこちゃんの神通力やね…」と言います。あっこの顔は笑み満面でした。圭子は澤田に「あのこ、私も甲子園に行くなんて言って…もう荷造りするんだなんて言って、ハリキッテいるんです…」と言いました。しかし澤田は、少し深刻な表情で圭子に「大宮さん、そのことなんですが…」と言います。圭子が「はい」と言うと、澤田は「あっこちゃんの白血球の値が下がって来ています。もし、由志館が甲子園に行くことになっても…あっこちゃんが行けるかどうかは…」と言いました。今まで笑顔だった圭子の表情が、急に曇ってしまいました。
病室には、監督がウイニングボールを持って見舞いに来ていました。あっこは、嬉しそうな生き生きとした表情で監督に「本当にすごいですよね…決勝戦なんて…」と言いました。監督は「ああ…」と答えました。あっこは、弾むような声で「決勝戦もみんなきっとやってくれます。そう言えば、ヨシユキの怪我、完全に好いんですか…」と聞きました。監督も負けずに「オオー…大丈夫や!ヤスヒロも頑張っとるでなー」と答えました。あっこは「私ね…あの二人って、けっこう似ちょるって思うんです。辛くても、苦しくても、必死にそれを見せんで…まあ、カッコつけよるともいうんですけどね…逆にシンジ先輩は、ちょっと繊細なところが有って、試合前何かいつも走ったりして…そう言えば、真紀はどうですか…あっこの為ちゅうて、頑張りすぎていませんか…」と言います。監督は「アア…しっかりやっとるぞ…」と答えました。あっこは「よかった…あの子、本当に泣き虫やけんなあ…」と言います。監督は「ちゃんと見とるな…」と言いました。あっこは「当たり前ですよ。マネージャーですから…そうだこれ、みんなに渡してもらえませんか…」と言うと、紙袋の中からあっこが折った紅白の千羽鶴を取り出しました。その時あっこは、和樹が隣の空きベッドに座って、デジタルカメラで動画を隠し撮りしていることに気づきました。あっこは「あれっ、ちょっとお兄ちゃん、何撮りよるの…」と言います。和樹は「いいやん…ちゃんと綺麗に撮ってやりよるけん…」と言うのですが、あっこは「もう…わけわからんこと言って…」と言うと、ベットから降りて和樹の方に向かいます。隠し撮りはここで終わりました。
野球部の部室では、全員がそろってこの動画を見ていました。キャプテンのシンジが「相変わらず声がでかいな…」と、笑顔で言います。隣に座っていたヨシユキも「声を聞けて良かった…」と、笑みを浮かべて言いました。すると監督が、あっこが折った紅白の千羽鶴を手にして「あっこから、オマエ達にプレゼントや!」と言います。シンジが立ち上がって「ヨッシャー!…明日の決勝戦、絶対勝つぞ!」と声を掛けました。部員たちも全員立ち上がって、人差し指を掲げて「ヨッシャー!」と声を出しました。
ミーティングが終わると選手たちは部室を出てグラウンドに向かいました。シンジだけはバットを持って違う方向へ歩いていました。その時ヤスヒロが「シンジ…」と後ろから声を掛けました。シンジは振り向いて「何や…どうした…」とヤスヒロに聞きました。
ヤスヒロとシンジは室内練習場にいました。あのヤスヒロが、シンジの為に室内練習場でバッティングピッチャーをしていました。ヤスヒロの精神的な成長が感じられました。
いよいよ決勝戦が始まりました。由志館高校のベンチには、あっこが折った紅白の千羽鶴が掛けられていました。あっこと共にこの決勝戦を戦う為に…
あっこは、片手にウイニングボールを持ち、携帯を掛けていました。あっこが「もしもし」と言います。真紀の声で「4回にハルヒコが打った…2対1の逆転や…」と連絡が入りました。あっこは大声で「ヤッター!…」と叫びました。そして「でも勝負はこれからやな…ウンウン…そうなんや…」と言いました。あっこの声が聞こえたのか、圭子がラウンジにやって来て、あっこの後姿を見ながら微笑んでいました。
8回、真紀から連絡が入りました。「あっこ!…逆転された…8回に2点追加されて3対2や…」と…あっこは立ったまま聞いていました。そして、ウイニングボールに『あきらめるな!!康弘』と書かれた文字を見ながら「みんな頑張れ!」と言いました。
9回の裏、由志館の先頭打者が3塁打を打ちました。真紀はスタンドから「イケー!…イケー!…」と声を掛けました。場内アナウンスが「4番キャッチャー加藤君」と告げました。シンジがバッターボックスに歩み出すと、ベンチからヤスヒロが「シンジ!…」と声を掛けました。シンジが振り向くと「打っち来い!…あっこの為に…」と叫びました。シンジはヤスヒロに視線を合わせて、確りと頷きました。ベンチからほかの選手たちも声を掛けました。監督は、腕を組んで、じっとシンジを見つめていました。シンジは、バッターボックスに立つと胸に手をやり「ヨッシャー!…」と大声を挙げました。
シンジは、2球続けて空振りをしました。ベンチからヤスヒロが「イケー!…シンジ!…」と声を掛けます。あっこは両手でウイニングボールを握りながら祈るように「シンジ先輩ファイト…」と、心の中で言いました。「シンジ、シンジ、シンジ…」とスタンドからシンジコールが湧きあがりました。シンジは、自分のユニホームの胸の部分をつかんで精神を落ち着かせると「ヨッシャー!」と声を出しました。そして、相手ピッチャーが投げた球を捉えました。球場に「カキーン!」という金属音が響き渡ると、打球は外野スタンドへ突き刺さりました。逆転サヨナラのツーランホームランでした。ベンチで見ていたヤスヒロの顔がほころびました。由志館側のスタンドが盛り上がりました。シンジは、ダイヤモンドを回りながら「ヨッシャー!」と叫ぶとガッツポーズをしていました。ベンチもスタンドも「ヨッシャー!…」の嵐でした。
真紀が携帯であっこに連絡を取ります。「あっこ…あっこ…甲子園や!…」あっこの目から、涙が止めどもなく零れ落ちていました。グランドでは、ベンチから選手たちが飛び出して、ホームベースにシンジを迎えに行きました。シンジが「甲子園や!…あっこと一緒に!…」と叫ぶと、選手たちそれぞれが「甲子園や!…」「あっこやったぞ!」と叫びました。あっこは立ったまま、携帯を耳に当てて泣いていました。圭子は、あっこの後姿を見ながら笑みを浮かべ拍手をしていました。目には、今にも零れ落ちんばかりの涙を溜めながら…
グランドでは、ホームベース上に整列した由志館高校ナインが、高らかに校歌を歌っていました。ベンチ前では、監督と三年の女子マネージャーが…スタンドでは真紀と出場できなかった野球部員たちがスクラムを組んで校歌を歌っていました。そして病院では、あっこも携帯を耳に当てながら一緒に校歌を歌っていました。あっこの声は、涙でかすれていました。そんなあっこに、入院患者や付き添いの人たちが拍手を送っていました。
どこかで聞きつけた主治医の澤田がラウンジにやって来て「大宮さん…」と、圭子に声を掛けました。圭子は、嬉しそうに澤田の肩を叩きながら涙声で「ウワー…先生…由志館が優勝したんですよ…」と言います。澤田は「すごいですね…」と言うと、心から喜んでいました。あっこは「……ああ我らが母校、由志館…」と歌い上げました。その日の夜、あっこが書いた日記には「甲子園決定 ヤッター! みんな凄いよ!…」と書かれていました。
翌日、主治医があっこに今後の治療方針を説明していました。
あっこは「エッ…」と言いました。あっこの表情は沈んでいました。主治医はカルテを見ながら下を向いたまま「ちっと白血球の値が下がりすぎとるね…」と言います。あっこは心配そうに「じゃあ、甲子園は…」と聞きました。主治医は、あっこの目を見ながら「うん…今のまま外出すると感染症の危険がある…主治医として許可できんです…」と答えました。あっこは茫然としていました。隣で聞いていた圭子の顔にも苦悩がにじみ出ていました。主治医が「あっこちゃん、辛いと思うけど…」と言うと、あっこは遮るようにして「私、行かれんの…」と聞きました。主治医は、何も喋ることが出来ませんでした。あっこは「いやや…だって甲子園…何の為にこんな…みんなとの約束…私、ご飯もちゃんと食べます…治療も、もっと頑張るから…開会式はもういいです。せめて試合だけでも…」と懸命に訴えました。圭子が「あっこ…」となだめるように声を掛けると、あっこの感情が爆発して「いやや!」と大声をあげました。
主治医が真剣な表情で「よかね…もし、もし何かあると…」と、説得するのですが、あっこは「私、甲子園に行けたなら死んだって好いんです…」と言いました。その後、一瞬の沈黙が起きました。主治医と圭子の顔が氷結したように強張っていました。次の瞬間、圭子は立ち上がり語気を強めて「あっこ…何でそんなことを言うん…澤田先生も看護師さんも、みんなあっこの事を必死で考えて頑張ってくれよるんよ…あんた命を何やち思っちょるんや…」と叱りつけました。しかし圭子は、いたたまれずに部屋を出て行きました。残されたあっこと澤田の間に沈黙が続きました。そして、あっこの目から涙がこぼれ落ちて来ました。
圭子は、ラウンジで一人座って思い悩んでいました。あっこもまた、非常階段に一人座って、すすり泣いていました。夜になって、哲夫が見舞いに来ると、病室にはあっこと圭子の姿はなく、誰もいないラウンジに、圭子が一人座って茫然としていました。哲夫は「圭子…どうしたんだ一人で…あっこは…」と声を掛けました。圭子は、すすり泣きながら「ずっと辛い治療に耐えて来て…そんで、甲子園にも行かせてやれんで…あの子を見ているとかわいそうでいられんわ…」と言うと立ち上がり、哲夫に歩みよります。圭子は泣きながら哲夫の胸を叩いて「私のせいや…私があの子を丈夫に産んでやらんかったからや…」と言います。哲夫は「圭子」と言うと、圭子を抱きしめてやりました。圭子は「代わってあげたい…代われるんやったら代わってやりたい…」と号泣しました。そんな二人の姿をあっこは偶然に見ていました。あっこは、二人に気づかれないように病室に戻って行きました。あっこの表情は苦悩に満ちていました。
あくる日、あっこは部屋の壁のパネルに貼っていた、県予選のトーナメント表や野球部員の写真をはがしていました。そこへ主治医の澤田がやって来ました。澤田が「あっこちゃん…」と声を掛けても返事がありませんでした。そこへ、圭子もやって来ました。二人は、あっこの後姿を心配そうに見つめていました。
あっこは、トーナメント表などをはがしてまっさらになったパネルに、甲子園出場校のメンバー表を貼りながら「私、甲子園には行きません…今年はいいです。来年絶対行くから…」と言いました。あっこは振り向いて二人の顔を見るとニッコリと笑顔を見せました。そしてまたメンバー表を貼り始めました。圭子が心配そうに「あっこ…」と言うと、あっこは「今年は我慢するわ…」と言いました。
あっこの日記が読み上げられました。「甲子園へ行くのはやめました。お母さん心配するしね…でも、平気でした…自分で行きませんって言ったから…」と…
由志館高校では、野球部員たちが甲子園に出発しようとしていました。野球部員たちはバスの前に整列していました。見送りの生徒達が大勢つめかける中で、監督の本宮先生が「…精一杯戦って来ます…ジャー行って来ます…」と挨拶をしていました。そしてキャプテンのシンジが、きよつけ、礼と言うと野球部員たちは一斉に礼をしました。見送りの生徒たちから一斉に拍手と歓声がわき上がりました。野球部員たちはバスに乗り始めました。
あっこに真紀から電話が入りました。真紀は「もしもし、あっこ…今バスの中、あっこの分も頑張って来るけんね…」と言います。あっこは「うん、頑張ってな…」と返事しました。真紀が「ほんとは、あっこと一緒に行きたかった…」と言いうと、あっこは笑顔で「いいんよ、私は来年行くけん…」と答えました。その時「あっこー、頑張るで…」と言う声が聞こえて来ました。あっこは「シンジ先輩…みんなをお願いします…」と言います。するとまた「あっこ、行ってくるけんな…」と言う声が聞こえて来ました。あっこは「ヨシユキ、あんたなら甲子園でも絶対やれる…」と言います。するとシンジの声で「ヤスヒロ、お前もなんか言わんか…」と言う声が聞こえて来ました。監督の声で「オレによか…」と言う声が聞こえて来ました。あっこは「先生、私、みんなが帰ってくるのを待っていますから…」と言います。すると真紀の声で「あっ、あれやない病院…先生速く返して…」と言う声が聞こえて来ました。そして、真紀が携帯を取り戻すと「あっそう、実はな、もうすぐバスが病院の側を通るけん…みんなで頼んでバスのルートを変更してもらったんや…」と言いました。あっこは「エッ…」と言うと立ち上がり、急いで非常階段を登って屋上へと向かいました。
屋上へ上がるとあっこは、道路のよく見える場所へ走って向かいました。あっこは屋上の手すりを握りながらバスが来るのを待っていました。バスが見えて来ると、野球部員たちの「あっこ!…」と叫ぶ声が、遠くから聞こえて来ました。あっこはバスが見やすいところへ走って移動しました。そしてバスに向かって手を振りました。バスの窓の中には、野球部員たちの顔顔顔が…そして手を振る姿がありました。あっこは大声で「みんな頑張って!…」と叫びました。バスの窓から、あっこが送った紅白の千羽鶴が、三年生の女子マネージャーの手によって振られているのが見えました。あっこは「頑張れ…みんな頑張れ…みんな頑張れ…」と叫び続けました。バスが見えなくなるまで手を振り続けました。
ここで『あっこと僕らが生きた夏(前篇)』は終わりました。
エンディングに、あっこが書いた日記の写真が流されています。
甲子園決定
努力だなあ、やっぱり。
本当うれしいよ。
やった。やった。
みんなスゴイヨ!
たとえ、あのアルプススタンドに行かなくても、行けると思い込む私
イタミさえとんでしまった…
でもやっぱりイタイ
甲子園出場2連続と、どっちが凄い
私か?みんなか?
きょうそうぢゃ!!
野球部からの
応援メール
ぜーんぶ保護
自分を信じてみよう
追記
私のブログにアクセスしてくださる方の約2割が外国の方のようです。そこで、後篇を書きはじめる前に、甲子園について少し補足説明をしておきたいと思います。
甲子園は、1923年に建設された、我が国最大の野外野球場です。当時、中等学校野球大会(第二次世界大戦後は、学生制度が代わり高等学校野球大会)の人気が急上昇して、使用されていた鳴尾球場が手狭となり、試合の進行に影響を及ぼすようになり、それで建設されたのが甲子園球場でした。
甲子園では年二回、春の選抜高校野球大会と夏の全国高等学校野球選手権大会が行われます。大学野球における明治神宮球場と並んで、我国における野球の聖地と称されていますが、現在では、明治神宮球場をはるかに抜き去り、甲子園こそが我国の野球の聖地となっています。
甲子園大会は、選抜大会の地区予選の一部を除き、すべてトーナメント方式で行われています。例えば、昨年(2011年)の夏の全国高等学校野球選手権大会の場合、全国4014校の参加校が、地方大会からすべてトーナメント方式で戦い抜くのです。そして49校の地方代表が甲子園でプレーすることを許されます。もちろん、甲子園でもトーナメント方式で戦わなければなりません。
トーナメント方式では、強くても試合に負けることがよくあります。実力だけで優勝旗を手にすることは至難の技に近いものがあります。勝ってヒーローになる選手もいれば、負けてヒーローになる選手もいます。その映像や音声は、テレビやラジオで全試合全国に放送されます。選手たちは、郷土を代表して、誇りを掛けて戦います。勝って涙、負けて涙…その姿をスタンドの観客だけでなく全国の高校野球ファンが共有します。ゆえに、甲子園大会は、最後のアマチュアリズムの砦とも言われています。ルールに反するとその罰則も厳しいものがあります。
この様な甲子園大会から生み出されたのが、甲子園戦法です。甲子園戦法を分かりやすく説明すると、例えば、ノーアウトでランナーが1塁にいた場合、次の打者が4番打者であったとしても、監督は送りバントを命じます。なぜならば、4番打者が長打を打つ確率と5番打者がヒットを打つ確率は、5番打者がヒットを打つ確率が高いからです。言い換えれば、いかにしてスコアーリングポジションに進塁させて、点を取るかという野球です。そこには4番打者のプライドなどは関係ありません。すべてがフォアザチームです。1アウトでランナーが3塁にいれば、点差が離れていない限りスクイズです。これも、打者がヒットや外野に犠牲フライを打ち上げる確率よりもスクイズで点を取る確率の方が高いからです。この様な戦法は、プロ野球で4番を打っている選手にも、高校時代に訓練をされたせいで染みついています。
プロ野球は、1シーズン百数十試合行われますが。ペナントレース終盤になると優勝を争っているチームは、甲子園戦法が目立って来ます。また、WBCの世界野球大会で日本チームが2回連続優勝しましたが、これも選手たちに甲子園戦法が染みついているからだと思います。日本の選手たちは、時として、フォアザチームの為には、そのプライドを捨てることができるからだと思います。我が国ではよく、ベースボールと野球は違う(似て非なる物)スポーツだと言います。その原点が甲子園にあると私は思っています。
現在甲子園は、プロ野球の名門阪神タイガースの本拠地として、親会社の阪神電鉄が所有していますが、甲子園大会が行われる期間は、その本拠地甲子園を高校生の為に明け渡します。この事を通称『死のロード』と言います。春の選抜大会の期間は、プロ野球のシーズン開幕と重なります。阪神タイガースが、昨シーズンの成績が良くて、ホーム球場での開幕権を勝ち得ても、甲子園球場で開幕を迎えることは決してありません。また、夏の全国高校野球選手権大会の期間中は、シーズン半ばで暑さも厳しくなり、選手たちが最も疲れる時期です。ホームでゲームを行い、自宅で過ごすのが選手たちには一番いいのですが、すべて敵地に遠征しなければなりません。阪神タイガースも企業です。決して球団の不利益になることはしたくないはずです。しかし、球団も国民もそれが当然と思っているところに、甲子園の偉大な伝統の凄さが隠されています。
日本人のある一定年齢に達した人で、甲子園を知らない人は、ほぼ100%いません。野球を好きな人であろうが、嫌いな人であろうが、全く興味のない人であろうが、甲子園を知らない人はいません。甲子園と言えば高校野球。そして、甲子園という文字に秘められた高校球児の思いを知らない人はいません。
日本では、たとえプロ野球選手になれなくても、あるいは高校で選手生活を終えても、甲子園に出場できたことが勲章なのです。選手たちはその証として、勝っても負けても甲子園のグランドの砂を袋に入れて持ち帰ります。ある人は甲子園の砂を一生机の上に飾って、人生の荒波を乗り越えて行ったそうです。ある人は、母校のグランドに甲子園の砂をまいて、育ててくれたグランドに礼をし、後輩たちの希望となるようにしたそうです。
国民も、甲子園大会に出場することが、いかに大変かという事をよく知っています。だから、甲子園大会に出場した人を尊敬します。企業でも、甲子園に出場できたのだから、何事においても我慢強く、努力家であろうと考えます。企業生活においても頑張ってくれると考えます。よって必然的に採用条件も高くなります。
甲子園の文字に秘められた意味の、ほんの一部を説明しましたが、これを踏まえて、NHKの「あっこと僕らが生きた夏」の映像を見るなり、このブログを読むなりしていただければ、この物語の理解を深めることができると思います。また、セリフが九州弁(大分弁)なので、活字にすると読みにくいところもあると思いますが、決して間違った言葉を書いている訳ではありません。
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