冒頭から回想のシーンが流れています。そして、良仙の声でナレーションが…「万二郎は綾と再会するが、兄の仇と命を狙われる…その後、綾は兄が残した借金の形に取られ、苦界に身を沈めた…万二郎と私は、何とか金を工面し、綾を助け出したが、綾は頭を強打し、喋る事も体を動かす事も出来なくなってしまう…」と…
元治元年(1864年)八月、万二郎は植物人間と化した綾の看病をしていた。万二郎は、綾の体を抱きかかえながら重湯を取らせていた。万二郎は綾に「綾さん…俺は明日出陣する…長州に行くんだ…待っていてくれ…必ず戻る…」と話しかけます。しかし、綾はなんの反応も示しませんでした。その様子を襖の影からおとねが見つめていました。おとねの表情は、暗く沈んだものでした。
明くる朝、おとねは、万二郎の出陣に際して、万二郎に陣羽織を着せていました。ここで良仙の声でナレーションが入ります。「元治元年(1864年)八月、長州の京への侵攻に対する反撃として、幕府は長州征伐の為に幕府軍と諸藩の兵を送ることになった…」と…
万二郎とおとねは、座敷に向かい合って座っています。万二郎は、両手を付いて一礼します。おとねは、万二郎に「万二郎…くれぐれも気おつけて…」と言います。万二郎は「きっと、怪我一つせずに戻ります…それより、綾さんを頼みます…」と言います。おとねは、万二郎の目を見ながら「分かりました…」と答えました。万二郎はおとねの顔を見ながら「では…」と言いました。ここでテーマ音楽が流れ始め、陽だまりの樹、第十一回~運命の分かれ道~と幕時スーパーが流れました。
その日の夜、綾は目を開けたまま、座敷に敷かれた床に寝ていました。おとねは、行燈に火を入れていました。おとねの様子は、万二郎がいなくなったせいか、白々しいものでした。おとねは、寝ている綾に「私の顔が見えるかい…私の声が聞こえるかい…聞こえるなら良くお聞き…万二郎は私の息子です…そなたに渡しなどは致しません…そなたは、私の夫の仇の妹…私は、そなたを気の毒とは思いません…当然の酬いの天罰と思います…いいえ、私はもっと…もっと、もっと罰をそなたに加えましょう…そなたは飢えて死ぬのです…やせ細って、やせ細って、骨と皮となって死ぬのです…私は、もう二度とそなたに食事は作りません…欲しくば、声を出して呼ぶが好い…立って厨に行って食べるが好い…どちらも出来まいが…」と話しかけました。おとねの顔には、憎しみのこもった夜叉のような微笑みがありました。
万治元年(1864年)十月、万二郎は、休憩をしながら握り飯を食べていました。兵達も思い思いに座って、握り飯を食べていました。そこへ、二人の兵を引き連れた武士が遣って来ました。武士は、万二郎に「伊武谷どん…暫くでごわすのう…」と話しかけます。万二郎は、床几から立ち上がると「西郷さん!…ああ…参謀…」と言うと、西郷に一礼をしました。西郷は「何を堅苦しい…西郷でよか…おはんも御健在で何よりじゃ…」と言います。万二郎は、驚いた表情で西郷の顔を見つめながら「噂では、あなたはあの大獄に連座し、島流しにされて、溺れ死なれたと…」と言います。西郷は「死んだのは、おいどんの同志、月照ちゅう坊主じゃ……伊武谷どん、お互い長生きはしとうごわすのう…おはんには、いろいろと話したい事がごわす…大阪でゆっくりやりもうそう…」と言います。万二郎は、一礼すると「はい…」と答えました。西郷は、万二郎の形をポンと叩くとその場を立ち去りました。
その時、万二郎が以前から育てた兵が立ち上がり「隊長!」と声を掛けます。すると横にいた別の兵が心配そうな顔で「おい!…」と止めに入ります。しかし兵は、万二郎に「ちょっと伺いたい事があるんですが…」と言います。万二郎は、兵の顔を見ながら「何だ…」と言います。兵は、万二郎の顔を覗き見るようにして「隊長が、真忠組の首領の女を見初めて、お宅へ匿っているという噂…本当ですか…」と聞きます。万二郎の顔が曇りました。万二郎はどう説明すべきか考えながら「それは…」と言うと、横にいた別の兵が「嘘に決まっている…」と言います。万二郎がその兵の顔を見ると兵は、座って握り飯を食べている新入りの兵達を睨みつけるようにして「奴ら、でたらめばっかり言いやがって…」と言います。すると、新入りの兵の一人が、手に持っていた爪楊枝を投げ捨てて「でたらめなんかじゃない!…岡場所にいたのを隊長が身受けしたんだ!…」と言います。すると横に座っていた別の新入りの兵が「そうだ!…」と相槌を入れました。すると古参の兵の形相が変わり「てめい!…いい加減にしろよ!…」と言うと、腕をまくり上げて殴りかかろうとしました。その時、万二郎は大声で「やめい!…」と命じました。兵達の視線が一斉に万二郎に注がれました。万二郎は「出立だ!…さっさと支度しろ!…」と言いました。すると他の兵達が「はい!」と返事をして立ち上がり、出立の準備に取り掛かりました。古参の兵は、新参者を睨みつけていました。万二郎は、古参の兵に「つまらん事で喧嘩するな…」と言います。古参の兵は、振り返って万二郎の前に立つと深く一礼をして「申し訳ありません…ですが、今回徴集されたあいつら、ゴロツキみたいな連中で…」と訴えました。万二郎が新参兵に視線を合わせると、確かに素行の悪そうな姿をしていました。
江戸では、良仙が綾の往診に来ていました。良仙は、綾の目の前で手のひらを振ったりして、様子を見ているのですが、何の反応もありませんでした。おとねは、その様子を見ながら「いかがですか…」と尋ねます。良仙は、綾の様子を観察しながら「うん…変わりありませんね…」と答えました。おとねは良仙に「可哀想に…」と言います。良仙は、桶の水で手を洗いながら「で…少し、痩せたようですが…ちゃんと食事は取っていますか…」と聞きます。おとねは、素知らぬふりをして「はい…」と答えました。良仙は、診察が終わると、帰る前に玄関口で立ち止まり、笑顔を見せながら「また来ます…万二郎に頼まれましたから…」と言います。おとねは、頭を下げながら「よろしくお願いします…」と答えました。良仙の心は、何処かさえない様子で「では…」と言うと帰って行きました。すると、今までニコニコと笑顔でいたおとねの顔が、急に冷たい顔に変わりました。おとねは、寝ている綾の元に歩み寄ると立ちながら「どうじゃ…餓じかろう…苦しかろう…けれどそなたは、自分の食べ物を探す事も出来ない…人に助けを求める事も出来ますまい…もっと痩せるが好い…もっともっと痩せて、飢えて死ぬが好い…」と言いました。
大阪では、万二郎は西郷の部屋に呼ばれて、酒を酌み交わしていました。西郷は「左様か…水戸に一年半も…伊武谷どんも苦労したんじゃのう…」と言います。万二郎は「何とか、生きながらえました…」と答えました。西郷は頷くと「そん、生きながらえた命をおいに預ける気はなかか…」と言います。万二郎は、あまりの言葉に驚いて声が出ませんでした。西郷はさらに「以前にも言うたが、伊武谷どん…薩摩に来もはんか…」といます。万二郎は、西郷の目を見つめながら「陸軍を辞めろという事ですか…」と尋ねました。西郷は「おいどんが話しばつける…薩摩へ来やんせ…おはんは、百姓や町民に人望がありもす。じゃっどん、百姓は所詮、烏合の衆じゃ…おいどんも農政ば関わった事があるのでようわかる…百姓の心ばつかむのが富国の元じゃ…おはんの力がほしか…」と言います。しかし万二郎は「折角ですが、西郷さん…私は幕府の改革を夢見ているんです…」と言います。西郷は「じゃっどん、幕府はもう天下を治める力はなかど…こたびの戦では、薩摩は幕府と共に動いちょるが…いずれ、薩摩が天下ば取る…おはんの力を思う存分生かせば…」と言うのですが、万二郎は遮るように語調を強めて「私は、東湖先生に誓ったんです!…倒れかけた大樹の支えになると…」と答えました。西郷は万二郎の顔を見つめながら冷静な表情で「そげなこつば言うてん、天下はこれから二三年で変わりもすど…」と言いました。万二郎は、俯きながら「西郷さん…その話は、これまで…御馳走になりました…」と言うと、深く一礼しました。西郷は、残念そうは表情で「左様か…惜しいのう…」と言うと腕組みをして黙っていました。
江戸では、おとねが綾に話し掛けていました。「何故そなたはここにいる…万二郎には、心に思うた人がいた…そなたではない…」と…その時、尼寺で仏に祈るおせきの姿が映し出されました。
西郷と別れた後、万二郎は、夜の大阪の街を歩いていました。その時、銃声が聞こえ、女の叫ぶ声がしました。走って逃げて来る町人の男が「えらいこっちゃ!…兵隊が侍に鉄砲を撃ったわ!」と叫びました。後ろから町人達が次々に逃げて来ました。万二郎は人をかき分けて現場に向かいました。万二郎が、立ち止って様子を見ていると、また銃声がしました。居酒屋の格子窓から兵が撃ったものでした。兵の一人が「これるもんなら来てみれ…」と言います。すると別の兵が「来たら撃っちまうけどな…」と言いました。しかし、狙われた侍は、少しも動ぜずに、道の反対側の縁台に座って、静かに酒を飲んでいました。万二郎は、左手で腰の刀を握り、指で鍔押さえると小走りで侍の元へ行きました。万二郎は、片膝を着いて身構えながら侍に「撃たれたのは貴公ですか…」と聞きます。侍は「酔っぱらいがいきなりわしを撃ちよった…」と言います。万二郎は「お怪我は…」と聞きました。侍は「怪我はないけんど…」と言うと、来ている着物の袖に穴が開いた所を見せて、その穴に人差し指を通しながら「たちの悪い兵隊ぜよ、まっこと…」と言いました。万二郎は「今、取り押えます…」と言うと、立ち上がり居酒屋の前に行きました。そして「俺は、歩兵組大隊長、伊武谷万二郎だ!…撃つのは止めて銃を捨てろ!…」と叫びました。すると、居酒屋の中にいる兵が「うるせい!…」と言いました。そして、万二郎に向けて銃を一発撃ちました。万二郎は、軒に立てかけてあった簾の影に隠れました。横の縁台に座っている侍が万二郎に「これじゃったら、長州征伐も思いやられるの…」と言うと、また酒を飲みました。万二郎は、振り向いて侍を見ると「長…どちらの御家中ですか…」と尋ねました。すると侍は「わしは、土佐脱藩浪人、坂本龍馬ちゅう飲んだくれや…」と言うと、また酒を飲み始めました。
店の中では、二人の兵が酒を飲みながら、片手に銃を確りと持っていました。そして、そのうちの一人が「バカバカしくてやってられないよ!…」と叫びます。すると別の兵が「長州くんだりまで行ってられるか!…」と叫びました。すると万二郎が、外から「神妙にせい!…酔っぱらいども、首をこっちに見せろ!…」と叫びました。すると、一人の兵が立ち上がり、格子窓越しに銃を構えながら「敵の女を寝取る隊長の言う事なんか聞けるか!」と言うと、また銃を一発撃ちました。すると龍馬が、万二郎の顔を覗きこむようにして「寝よったがか…」と聞きました。万二郎は、居酒屋の方を睨みつけるようにして見ながら「違う…」と言いました。そこへ、歩兵組の古参兵達が五人ほど駆け寄って来ました。古参兵の一人が片膝をついて「隊長…」と言いました。万二郎は、居酒屋を見ながら「八平と捨吉だ!…」と言いました。古参の兵は「あいつら…どうします…」と尋ねました。
店の中では、八平と捨吉が酔った勢いで「やってられるか!…冗談じゃねえよなあ…」などと話していました。すると、外の古参兵が「やい!…山猿やろう!…お前らに撃てるのか!…」と挑発しました。二人は、格子窓から外の様子を覗きました。さらに古参兵は挑発します。「せいぜい、掃き溜めの油虫ぐらいだ!…悔しかったら撃ってみれ!…」と…そして、後ろを向くと尻を出し、右手でポンポンと叩いて見せました。店の中から「あの野郎!…ぶっ殺してやる!…」と言う声が聞こえました。そして一人が格子窓越しに銃を構えた時、裏から入って来た万二郎が「止めい!…」と言った瞬間、二人の兵を木刀で叩きました。二人の兵は、呆気なく倒れました。その瞬間、古参兵達が障子戸を開けて中へ入って来ました。古参兵の一人が、嬉しそうに「隊長!…」と声を掛けました。万二郎は「こいつらを連れて行って、ぶち込んでおけ!…」と命じました。八平と捨吉は、古参兵達に取り押さえられて居酒屋から連れ出されました。
万二郎が居酒屋から出て来ると、後ろから龍馬が盃を右手に、酒徳利を左の脇に抱えて後ろから近寄って来ました。そして「見事な腕前じゃ…」と言います。万二郎は一礼して「悪いことをしました…」と詫びを入れます。龍馬は「成り行きじゃけん仕方ないろ…」と言うと、盃の酒を飲み干しました。万二郎は「お詫びに、新しい着物を買って差し上げたい…」と言います。龍馬は万二郎を見ながら「おお…気前がええのう…隊長さん…ほいじゃ、着物の代わりに酒をおごってくれ…」と言いました。万二郎は、一礼しながら「分かりました…」と言います。龍馬は「ほいじゃ、行くぜよ…」と言うと、先に歩いて行きました。その様子を町人に化けた隠密らしい男が、訝しげに見ていました。
料理屋では、龍馬が芸者の三味線に合わせて楽しげに「土佐の高知の播磨屋橋で、坊んさん簪買うを見た。よさこい、よさこい…」と歌っていました。右わきに座っていた芸者が「旦那さん…何でそんなにお声が宜しいの…」と尋ねます。龍馬は酌を受けながら「女を口説く為じゃ…」と言います。その様子を見て万二郎は龍馬に「貴公を見ていると、私の友を思い出す…医者なんだが、女好きで、遊び上手で、声がいい…」と言います。龍馬は芸者を右手で抱きながら「その御人、偉い…人生はの…遊べる時に遊んで、女を抱かないかんぜよ…」と言いました。万二郎は、いつもの糞真面目な表情で「天下の情勢を考えると、遊びにうつつを抜かす気にもならんです…」と答えました。龍馬は渋い顔をして「律儀じゃのう…」と言うと、前にあった膳を横にのけて「おまん、徳川に忠節など立てても、もう遅いぜよ…」と言いながら、万二郎の元に這い寄りました。万二郎は龍馬を見つめながら「なに!…」と聞き返しました。龍馬は「徳川は、もう御仕舞じゃ…わしゃな…新しい国を作るつもりながじゃ…」と言います。万二郎は、挑みかかるような目つきで「新しい国…」と言います。龍馬は「そうじゃが…天子様を国の元首に頂き、その下に議政局を作るがじゃ…議政局は、天下の大名全員が参加する…その他の有能な人種は、政治に発言できる…」と言います。すると万二郎は、真剣な表情で「公方様はどうなる…」と尋ねました。龍馬は「徳川家も議政局の一員となる…万民は平等に祭りごとに加われる国を作るがじゃ…そればっかりやないぞ…」と言うと、万二郎は怒った表情で俯きながら、語調を強めて遮るように「もういい!…」と言いました。そして「坂本さん…その話は聞き捨てならん…明らかに…倒幕の企てではないか…」と言いました。すると龍馬は、右手の小指で耳をほじくりながら、分かってないという表情で「おまん…勝先生知っちょるか…」と聞きました。万二郎は、思いもかけない人の名前が出て来たので、不思議そうな表情をして「ああ…存じ上げておるが…」と答えました。すると龍馬は「元々この話の骨子は…勝先生の考えから出たものぞえ…」と言います。万二郎は驚きました。そして、体の向きを変えて左手を畳につき、鋭い眼差しで龍馬の目を見ると「なに…」と聞き返します。龍馬は「わしは、勝先生の弟子じゃけに…わしの頭の中は、勝先生譲りじゃ…」と言います。万二郎は、慌てた表情で「いや、しかし、勝先生は幕府の要人だぞ…その人が、貴公のような…幕府を倒そうなどとは…」と言います。龍馬は、わかっとらんという表情で「おまん、何ちゃ知らんのう…あの人は、幕府など眼中に無いがじゃ…日本ちゅう国の事を考えとるがじゃ…そうやき…あの人は閣老から疎まれちょる…」と言いました。万二郎は、唖然とした表情で、龍馬を見つめていました。
万二郎は、宿舎に帰ると自分の部屋に寝そべって、物思いに耽っていました。脳裏に西郷の声で「幕府はもう、天下を治める力はなかど…」と聞こえて来ます。龍馬の声でも「天子様を国の元首に頂き、その下に議政局を作る…議政局は、天下の大名全員が参加する…」と聞こえて来ました。その時、古参兵が障子の外から「隊長…」と声を掛けました。万二郎は体を起こすと「如何した!…」と言います。片膝を着いた古参兵が、障子を開けて姿を見せると一礼して、心配そうな表情で「ご上使がお見えです…」と言いました。万二郎は、不思議そうな表情で「上使が…」と聞き返しました。
万二郎は、座敷で両手を付いて深々と低頭していました。上使は、裃姿で立ったまま書状を読みあげていました。「伊武谷万二郎…その方、大阪にての部下の不始末、および土佐浪人坂本龍馬との密議の件、不届きなり…よって歩兵大隊長の任を解き、江戸へ帰参のうえ、謹慎を命ず…」と…
江戸では、寝ている綾の横でおとねが話しかけていました。「万二郎が戻ってきたら、こう言いましょう…あの娘は、日に日に衰えて、とうとう身罷りましたと…天命だったのです…手を尽くしたのですが…万二郎は嘆くでしょうね…」と…おとねは、仏壇の方に向き直ると座りなおして「あなた、どうか私の事を鬼のような女だと責めないでください…私は、憎いのです…あなたを奪った、敵の一族が…」と言うと、涙目で寝ている綾を睨みつけました。その時、玄関口で御免という良仙の声が聞こえました。良仙が障子戸を開けて入って来ると、袖で涙を拭きながら「あっ、良仙先生…」と言って立ち上がりました。
良仙は、丁寧に綾の顔色や瞳孔などを診察しています。何か不審なようで、上布団をはがして、綾の腕を取り脈診を始めました。良仙は「こりゃいかん…だいぶ弱っている…」と言うと、綾の腕を降ろして、上布団を掛けて遣りました。そして、おとねに視線を合わせると「食事は…」と聞きました。おとねは、何も無いという表情で「取っております…」と答えました。良仙は「もちろん水もたっぷりと…」と聞き返しました。おとねは、悟られたのかと思い、一瞬ひやっとしますが、悟られないように「はい…」と答えました。良仙は、綾を見ながら「おかしい…このままじゃ危ない…水を…水を持って来て下さい…」と言いました。おとねは「はい」と言うと立ち上がりました。
良仙は、綾を抱き起して、湯のみで水を飲ませます。綾は、ごくごくと水を飲みました。良仙はその様子を見て「よほど喉が渇いていたのか…これはいったいどういう訳だ…どうもげせん…」と言います。その様子を見て、おとねの様子が、次第に暗くなって行きました。良仙は、綾に水を飲ませ終わると、寝かせつけながら「本人が、口がきけんので困るな…」と言いました。良仙は、綾に上布団を掛けて遣ると「御隠居さん…大変失礼な事を伺いますが…何か、私に隠し事をなさってませんか…」と尋ねました。おとねは、落ち着いた表情で首を振りながら「いいえ…」と答えました。良仙は、不審そうな表情で綾を見つめながら「そうですか…とにかくこのままじゃ、七日と持ちません…すぐに医学所に連れて行きます…」と言うと立ち上がり、薬箱を持って手配をする為に万二郎の家を出ようとしました。その時、おとねは、落ち着いた表情で「お待ちください…この娘は、我が家で看病いたします…」と言いました。良仙は立ち止り、おとねの背中を見ながら「しかし、このままでは…命もおぼつかないのですよ…」と言います。するとおとねは、良仙の方に顔を向けながら「この娘は、万二郎からの預かり物…私が面倒を見ます…」と答えました。良仙は、険しい表情でおとねを見つめながら「私も万二郎に頼まれたんです…もし万が一の事があったら…」と言います。するとおとねは、良仙を見上げながら「どうあっても、このうちの外には出しません…」と答えました。良仙は、おとねの顔を見ながら、その場に座ると「御隠居さん…人間なんて…死なせるのは容易いんです…ほっときゃいい…生かすほど難しい事はありません…それこそ、医者の務めなんです…」と言いました。おとねは、良仙の顔を見つめながら「先生…私がまるで、病人に何かしているような言い方…」と言います。良仙は、おとねの顔を覗き込むようにして「私はねぇ…あなたが親として、万二郎の幸せを願っているなら…その惚れた娘をこんなにし…何もしてやらないのが解せないと言っているのです…」と言いました。しかし、おとねは動じませんでした。良仙は「綾さんは、万二郎が心底惚れた娘なんですよ…」と言います。おとねは、ただ黙っていました。良仙は、苛立ちを押さえながら「いいでしょう…そこまで依怙地なら…それでも結構…この良仙…これから毎日来ます…」と言うと、おとねに一礼をして立ち上がり、帰りました。
それからのおとねは、一日中、どうすべきかを考えていました。そしておとねは「万二郎…お前の幸せを望まないという事があろうか…でも…これだけは…これだけは…」と、涙を浮かべながら独り言を言いました。おとねは立ち上がり、綾の寝ている座敷まで行くと、立ったまま綾を見つめました。おとねの脳裏には、出立前に万二郎の言った事が映し出されていました。「綾さんを頼みます…」と…おとねは、思い直したように綾の側に座ると湯ざましを湯呑みに入れて綾に飲ませようとするのですが、綾の顔を見るとどうしても飲ませる事が出来ずに、泣きながら綾の顔に、湯呑みの水を掛けました。おとねが綾を見つめていると、脳裏に良仙の声が聞こえて来ました。「人間なんて、死なせるのは容易いんです…ほっときゃいい…生かすほど難しことはありません…」と…するとおとねは、泣きながら側にあった手ぬぐいで、綾の顔を拭き始めました…その後、暫くして、おとねは綾を抱き寄せて、匙で重湯を食べさせていました。
万二郎は、うなだれながら、江戸への道を歩いていました。ある宿場の中に入って来ると、二人の町人が、縁台に座ってお茶を飲みながら噂話をしていました。「海軍操練所が閉鎖…」と…すると、もう一方の町人が「軍艦奉行勝阿波守様は、お役御免だと…」と…すると聞き返すように「阿波守様が…」と言います。それを聞き付けた万二郎が、慌てたような表情で町人に「今の話は本当か…」と聞きます。町人は、驚いた表情で「あっ、本当ですよ…」と答えました。万二郎は、呆れた表情で「勝先生がお役御免か…御上はいったい何をやっているんだ…」と、独り言を言いました。
良仙は書斎で医学書を真剣に読んでいました。綾の病状を調べる為でした。そこへ、おつねが遣って来て「あなた…夕餉の支度が…」と、声を掛けました。しかし良仙は、いつもの医学を勉強する時の無心の姿になっていたので気がつきませんでした。そこへ長男がやって来て、嬉しそうな表情で「父上…」と声を掛けました。その後ろから、まだあどけない、次男も着いて来ました。おつねは「しっ、しっ…父上はお仕事をなさっているの…静かにね…」と、長男に言い聞かせるように言いました。長男は、直ぐに書斎を出て行きました。おつねも次男を連れて書斎を出て行きました。暫くすると良仙は溜息をつきながら「脳の仕組みは、分からんことだらけだ…」と独り言を言いました。
おとねは、台所で料理を作っていました。その時、玄関口から万二郎の声で「母上…只今戻りました…」という声がしました。おとねは、慌てて玄関口の方へ行きました。おとねは、万二郎の姿を見ると笑顔で「万二郎…」と声を掛けます。万二郎は、おとねに視線を合わせると、すまなそうな表情で「母上…実は…」と、帰って来た理由を言おうとするのですが、おとねは笑顔で遮るように「ああ…仔細は聞きました…西郷様から文を頂きました…そこに一部始終…」と言いました。
万二郎は、家に上がると、一番最初に綾の元へ遣って来ました。嬉しそうな表情で綾の顔を覗きこみました。そして「綾さん…戻って来ました…綾さん…」と言います。おとねは、その様子を後ろからじっと見つめていました。
万二郎は、勝海舟の屋敷を訪ねていました。海舟は縁側に立って、庭を見ながら「神戸の海軍操練所に、攘夷浪士を出入りさせていたんだがな、それが閣老どものお気に召さなかったらしい…またく、了見の狭い連中だよ…」と言います。万二郎は「あの閣老どもを如何にかしなければ、幕府は滅びます…」と言います。海舟は「幕府どころか、国が滅びら…」と言うと、座敷に入って座りました。万二郎は、思い出したように「大阪で、坂本龍馬殿に会いました…」と伝えます。海舟は「ほう…龍馬にあったか…面白い男だろう…」と言いました。万二郎は「国の在り方について、いろいろお話を聞きました…天子様を国の元首に頂き、その下に議政局を作るというもの…勝先生のお考えなのですか…」と尋ねました。勝は頷きながら「そうだよ…尊王だ、佐幕だと言っている時じゃない…そんなことやっていたら、日本なんて小さな国は大国に飲み込まれてしまう…」と答えました。万二郎は「私もそう思います…今こそ改革しなければ…手遅れになります…」と言いました。海舟は、大きく頷くと「頼もしいね…しかし、お役御免にされた俺も…お前さんも今はあれだ…」と言うと、後ろを振り向いてダルマの置物を見ました。万二郎は「ダルマ…」と言います。すると海舟が「手も足も出ない…」と言いました。万二郎は、茫然とした表情で達磨を見つめていました。
万二郎は、その日の夜、良仙と酒を飲んでいました。良仙が万二郎に酒を注ぐと、万二郎は「御上は、軍艦奉行の勝先生までお役御免にしたんだぞ…ああいう人こそ今の幕府にいなければならないのに…目のきかない閣老どもだ…」と言うと、酒を飲み干しました。良仙は、自分の盃に手酌しながら万二郎の話をじっと聞いていました。万二郎は「あれだけ老中や若年寄、諸大名がいても、考えていることは面目や己の利ばかりだけだ…誰一人、このご時世を正しく見ている者はいない…」と言います。良仙は、静かな口調で「でも、これでよかったんじゃねいか…」と言います。万二郎は、挑むように「何処がいいんだ…」と言います。良仙は、笑みを浮かべながら「ものは考えようさ…これでゆっくり、綾さんの看病が出来る…違うか…」と言いました。万二郎は急に俯いて心配そうな表情になりました。良仙は「実はな…オランダの医学書を調べていたら…綾さんとよく似た患者の事が載っていたんだ…」と言います。万二郎は、良仙の顔を見つめながら「なに…」と聞き返しました。良仙は「何年も寝たきりの患者が、ある時突然目を覚まして、元気になったというんだ…」と言います。万二郎は「で、何か薬でも使ったのか…」と尋ねます。良仙は「いや…医者も匙を投げていたらしい…つまり、勝手に治ったんだ…」と答えました。万二郎は、訳が分からないという表情で「勝手に…じゃあ…綾さんも…」と尋ねます。良仙は、真剣な眼差しで万二郎を見つめながら「その見込みはある…だがな…な…あきらめるな…」と言いました。
万二郎は、山岡鉄太郎の道場で、剣の稽古をしていました。(この時すでに、小野鉄太郎は、山岡家へ養子に入った模様です。山岡鉄太郎とは、後の山岡鉄舟の事です。)激しい打ち合いが続きますが、万二郎は鉄太郎に叩き飛ばされてしまいました。鉄太郎は万二郎に「如何した!…お役御免になって剣の腕まで鈍ったか!…」と罵声を飛ばしました。万二郎は、立ち上がると、また鉄太郎に向かって打ち込みを掛けました。
万二郎の家では、おとねが鉄瓶に水を入れて、火鉢に掛けようとしていました。すると隣の部屋から、綾に話しかける万二郎の声が聞こえて来ました。「今日は、久しぶりに道場に行って来た…駄目だ…怠けていたから…鉄さんに歯が立たなかった…鉄さんというのは、山岡鉄太郎…私の剣の師匠だ…」と……万二郎は、話し終わると上布団をはがして「水飲むかい…」と言いながら、綾の体を抱き起こしました。そして「大丈夫だ…すぐ良くなる…」と言うと、湯呑みの水を飲ませ始めました。おとねは、その様子をじっと見つめていました。
万二郎とおとねは、夕食を食べていました。おとねは万二郎に「随分、一途に話しかけていましたね…」と言います。万二郎は、気恥ずかしかったのか笑みを浮かべながら「良仙が言っていたのです…外国に、綾さんに似た病人がいて、それが一人で目を覚まして、元通りになったそうです…」と言います。おとねは、箸を止めて万二郎を見つめました。万二郎は、嬉しそうに「綾さんも…きっとそうなると…私は信じています…」と言いました。おとねは「そう…」と一言だけ言いました。万二郎は「これは…私の勝手な思い込みかもしれませんが…実は、綾さんは聞こえているんじゃないかって…」と言います。おとねは、驚いた表情で万二郎を覗くようにして「聞こえてる…」と聞き返しました。万二郎は「喋ることも、体を動かす事も出来ませんが…頭の中は実は確りしていて…すべて分かっているんじゃないか…綾さんの目を見ていると…そんな気がするんです…いや…そうです…今までの事もちゃんと覚えていますよ…そのうち目を覚まして…母上に言いますよ…看病して頂き…ありがとうございましたと…」と言いました。すると、おとねの顔が、次第に曇って行きました。おとねは、前にあった膳をのけて、両手を付いて「万二郎…私を許しておくれ…」と言うと、深々と頭を下げました。万二郎は驚いて「どうしたんです…」と尋ねました。おとねは泣きながら「私は…私は鬼です…綾さんを…亡き者にしようと…食事も与えず…飢え死にさせてやろうと…お前の好いている大事な人を私は…許しておくれ…許しておくれ…」と言いました。万二郎は、寂しそうな目で、おとねを見つめていました。
万二郎は、食事が終わると綾の寝ている横に座っていました。そして、綾の手を両手で握ると「綾さん…母は心から悔いている…許してほしい…これから私が付いている…あなたが元気になるまで、私が看病する…」と言いました。おとねは隣の部屋で、じっと聞いていました。
慶応二年(1866年)、良仙は旅立とうとしていました。玄関口には、おつねと二人の息子、女中が座って見送っていました。良仙が立ち上がると、おつねも立ち上がって、良仙の背中あたりで火打石を叩きました。そして「行ってらっしゃい…」と言います。良仙は、前を向いたまま「行きたくない…」と言います。おつねは「なに、駄々をこねているんですか…確りお勤めを果たして来て下さいよ…軍医殿…」と言いました。すると良仙は拗ねたように顔をしかめながら「戦は嫌だ!…軍医何か引き受けるんじゃなかった…」と言うと、柱にもたれかかって悩んでいました。おつねは「あなた…今さら何を言っているの…送れますよ…」と言います。良仙は、やけを起こしたように「分かったよ…」と言うと、振り向いて息子達に笑顔で「じゃあな…」と言いました。息子達は、元気よく「はい…」と答えました。良仙は、荷物を背中に背負うと玄関を出て行きました。おつねは「言ってらしゃいませ…」と声を掛けました。息子達も「行ってらっしゃいませ…」と声を掛けました。こうして、良仙は軍医として、第二次長州征伐へ出陣しました。
ここで、良仙の声でナレーションが入ります。「前の長州征伐が、西郷らの働きで、戦わずして勝ったものを…幕府の力と思い込んだ閣老達は、二年後、またもや長州征伐を始めた…だが、新式兵器と新しい戦術を身につけた長州藩は、幕府軍を圧倒した…」と……
良仙は、運ばれてくる負傷兵を懸命に治療していました。良仙は負傷兵の胸に耳を当て鼓動を聞いていましたが、立ち上がり「こいつはもう死んでいる…運び出せ…」と命じました。すると、後ろの方から「先生!お願いします…」と言う声がしました。良仙は、負傷兵の元へ歩み寄りました。良仙は、負傷兵の顔を見るなり「清吉!…この間、手当てして遣ったばかりじゃないか…」と言いました。すると清吉は「先生、また来ました…」と言うと笑い顔を見せました。すると、今まで治療していた同僚の軍医が「この男は、治る間もなく戦場へ送り返され、銃弾にやられたんです…」と言いました。良仙は、水桶を清吉の前に置くと呆れたように「俺はもう、三度もこの男を治療しているんだ…これじゃ…治しても治してもきりがない…何の為に治すんだ…えっ…また怪我をさせる為に治すのか…いっそひと思いに、致命傷を負った方が楽になれるのだがな…」と言いました。すると同僚の軍医が「先生!…何ていう事を仰るんです…」と言いました。良仙は清吉に「痛むぞ…」と言うと、治療を始めました。
良仙は、治療が一段落ついて、負傷兵のいる天幕の外へ出て来ました。良仙は、首を振りながら「遣りきれねい…折角治してやっても…また死にに行くんじゃ…」と言います。その時、銃声がしました。良仙の体に電流のような物が走りました。流れ弾が良仙の太ももあたりに当たりました。良仙は、「ああ…」と叫ぶと倒れました。太ももを押さえていた手を見ると血がついていました。良仙は素早く自分で止血をしました。
慶応二年(1866年)七月、おつねと女中が家の掃除をしていると、玄関の方から「帰ったぞ!…」と言いう良仙の声が聞こえて来ました。二人は笑顔で玄関口に行きました。すると、抱きかかえられるようにして立っている良仙がいました。おつねは驚いた表情で「あなた…」と言いました。しかし、良仙の顔は意外と明るく笑みを浮かべていました。
おつねは、良仙の薬の付け替えをして、包帯を巻いていました。おつねの表情は険しいものでした。おつねは良仙に「どうして医者が撃たれるの…」と言います。良仙は、おつねの締める包帯がきつかったのか「イテテテ…もっと優しくやれよ…」と言います。そして「戦場だぞ…流れ弾が飛んでくる事もある…運が良かったよ…足で…少しずれていたら、男じゃなくなっていた…」と言うと、うすら笑いを始めました。おつねは、怒った表情で語気を強めて「よく笑っていられるわね…」と言うと、包帯をギュウッと締めました。良仙は「イテテテ…」と大きな声を上げました。おつねは「一歩間違えたら、命を落とすところだったのよ…」と言います。良仙は笑みを浮かべながらおつねの頬を触って「そんな顔をするなよ…ちゃんと生きて帰って来たんだ…」と言います。おつねは心配そうな表情で「ねぇ…もう軍医なんてやめて…」と言います。良仙は「ええ…」と聞き返しました。おつねは「こんな危ない目にあうなら…町医者だけ遣っていた方がいいわよ…」と言います。すると良仙は「家名が上がるって喜んでいたのは、お前だろう…」と言うと笑っていました。おつねは、真剣な表情で「あなたの命には代えられません…」と言いました。良仙は、遠くを見つめるようにして「それは俺だって、辞めたいと思ったよ…折角治してやっても…また死にに行くんだ…むなしい仕事だ…」と言います。おつねは「だったら…」と言います。良仙は「戦場でけがを負うとな…めっぽう心細いんだ…」と言いました。おつねは、良仙が言った意味が分からずに「えっ…」と聞き返します。良仙は「国を遠く離れて…身うちは誰もいない…たった一人で…痛みや苦しみに耐えなければならない…自分が撃たれて、兵隊の気持ちがよーく分かった…その痛みや苦しみを和らげるのは…軍医しかいない…そんな仕事は誰かがやらなければいけないんだ…」と言うと、おつねの目をじっと見つめていました。
万二郎は、鉄太郎の道場に来ていました。鉄太郎は、壁に掛けてあった木剣を取ると、万二郎に歩み寄りながら「散々だったようだ…幕府軍は指揮が低くバラバラで、まったく長州に歯が立たなかったらしい…」と言うと、万二郎の横に座りました。万二郎も「歩兵組も大勢死んだらしい…くっそう…」と言いました。鉄太郎は「無茶な戦だよ…何の策も立てずに、力任せに攻めるからこういうことになるんだ…万さん…もう、幕府は終わりかもしれないぞ…」と言いました。
万二郎は、鉄太郎の道場から帰って来て、綾の寝ている横に座っていました。万二郎は「綾さん…ずっと看病すると言ったが…それは出来なくなるかもしれない…すまない…考えに考えた末の事なんだ…分かって欲しい…」と話しかけました。その時、玄関口から男の声で「御免…」と言う声がしました。
障子戸を開けて、二人の武士が入って来ました。万二郎は、二人を座敷に上げて密談をしています。万二郎は「閣老どもは、無益な戦をし、無駄に兵を死なせた…このままあの連中に政を任せていたら、幕府どころか、日本という国が滅びるぞ…」と言いました。武士の一人が「最早、一刻の猶予もならん…」と言います。するともう一人の武士が万二郎に「どうする…」と聞きました。万二郎は「天誅だ!…閣老どもを倒し…幕府を改革する…」と答えました。
おとねが、外出先から帰って来ました。その時、武士の一人が勢いよく襖を開けました。おとねと武士の視線が合うと、武士は一礼して「お邪魔いたした…」というと、帰って行きました。おとねは、武士たちの殺気に驚きの表情を浮かべながら一礼をしました。おとねが座敷に行くと、万二郎も刀を手にして、外出しようとしていました。おとねは、心配そうに「今の方々は…」というと、万二郎の顔をじっと見つめます。万二郎もおとねの顔を見つめました。そして「友です…今夜は遅くなります…夕餉は先に済ませて下さい…」と言うと、一礼をして家を出て行きました。二人の武士は、玄関口で万二郎の来るのを待っていました。おとねは、心配そうに万二郎を見つめていました。
おとねは、綾の寝ている横に座って話しかけます。「この頃…万二郎の様子がおかしいのです…お仲間と部屋にこもって、ヒソヒソ話をしていたり…夜遅くまで帰ってこなかったり…母の私にも、あの子の心の中は覗けない…綾さん、あなたは万二郎の心をつかんでいます…お願いです…どうか正気に戻って、元の万二郎に戻してください…私にはもう…万二郎が分からなくなってきました…」と…
夜になり、綾の寝ている部屋に、おとねが行燈の火を灯しました。その時、綾の様子に変化が見られたのか、おとねは綾の顔を覗き込むようにして「綾さん!…」と声を掛けました。万二郎が帰って来るとおとねは、急いで歩み寄り「万二郎!…」と声を掛けました。万二郎は、おとねの只ならぬ様子を見て「どうしたんですか!…」と尋ねました。おとねは、慌てた様子で「先ほど、行燈に火をつけた時、綾さんを見たら…あの子、私の目を見たんです…」と言いました。
万二郎は、蝋燭に火を灯して、綾の側へ行きました。万二郎は、蝋燭を綾の顔に近付けながら「綾さん、私を見て御覧…」と言いました。しかし、綾の様子に変化はありませんでした。万二郎は、気を落としたように「駄目だ…気のせいじゃないですか…」と、隣に座っているおとねにいました。おとねは、真剣な表情で「そんな…確かに…」と万二郎に言いました。その時、綾の目が動きました。万二郎もおとねもそれに気付きました。万二郎は、蝋燭の灯りを綾に近付け、右から左へと動かしました。すると、綾の目が光を負って動いていました。万二郎は、綾の顔を見つめながら「綾さん…あなたは蝋燭の火を見ている…確かに…見てる…」と言いました。
あくる日、万二郎は、良仙の屋敷の診察室で、昨夜の出来事を話しました。良仙は驚いて「目が動いた!…」と聞き返します。万二郎は「間違いない…」と答えました。良仙は「こうしちゃいられない…すぐ見に行こう…」と言います。万二郎は「待て…その前に話がある…」と言うと、診察室の板戸から顔を出して、誰もいないことを確認して、板戸をぴしゃりと締めました。
万二郎は良仙に歩み寄ると「これは、二人だけの話だ…断じて口外しないでくれ…」と言います。良仙は、少し面喰ったように「ああ…」と答えました。万二郎は、診察台に腰を降ろすと、刀を抜きながら「俺は、おそらく人を斬ることになる…」と言います。良仙は、驚いた表情で「なに!…」と聞き返します。万二郎は、半分抜いた刀を見ながら「白蟻を退治するんだ…」と言うと、刀を鞘におさめました。良仙は「陽だまりの樹に付く白蟻か…」と聞きます。万二郎は「そうだ…無能な閣老どもを倒す…それしか手はない…そして幕府を改革する…」と言いました。良仙は「本気で言っているのか…」と言います。万二郎は「ああ…本気だ…」と答えました。そして「今は一つにまとまって…異国に負けない国を作ることが大事なんだよ…」と言います。良仙は、心配そうな表情で「頭を冷やせ!…お前ひとりで何が出来るって言うんだ…」と言いました。万二郎は、冷静な表情で「同志を集めた…」と言うと立ち上がり、良仙の顔を見ながら「良仙…あとの事を頼む…母と綾さんを…」と言います。良仙は「お前…死ぬ気だな…」と言いました。
ここで、第11回運命の分かれ道は、終わりました。