2012年7月9日月曜日

NHKドラマ「陽だまりの樹」第2回 恋の鞘当てを見ました

 冒頭、回想を背景に手塚良庵の声でナレーションが読まれています。

 「黒船が来航し、日本は幕末という激動の時代を迎えた…」

 映像は、常陸府中藩門前から、若侍たちが三百坂を走る様子が流されています。その様子をおせきと二人で眺めていた良庵が「毎朝、御苦労な事だ…」と言いました。

 次に映像は、竹林で良庵を襲った侍を万二郎が斬っている様子が映し出されています。そして、ナレーションが「時は安政二年、伊武谷万二郎この時26歳…」と…

 映像は、陽だまりの樹が映し出され、藤田東湖が「徳川の世も、この陽だまりの樹のような物だ…」と…

 夕日を見つめながら、万二郎は良庵に「オレは倒れかかった大樹の支えになる…」と…良庵の声でナレーションが「血気盛んな青年はやがて、大きな時のうねりに飲み込まれて行くのである…」と読み上げられました。

 ここで、「陽だまりの樹」と書かれた題字が映し出され、第二回恋の鞘当てが始まりました。



 良庵の声でナレーションが読まれます。「万二郎は、小野鉄太郎の道場に通い始めた。鉄太郎は、北辰一刀流の達人…剣の上でも万二郎の師匠であった。」



 鉄太郎の道場で、万二郎は鉄太郎に稽古をつけてもらっていました。鉄太郎は、万二郎を竹刀で突き倒すと「いつもの覇気がないぞ…」と怒鳴りつけました…

 万二郎は、稽古が終わると道場の床に座りこんでいました。面を取ると覇気のない目つきで、遠くを見つめていました。鉄太郎は、そんな万二郎に「何かあったのか…今日の万さんの剣はやけに乱れていたぞ…」と言いながら、手ぬぐいを持って道場に入って来ました。鉄太郎が万二郎の前に座ると、万二郎が「鉄さんは、迷いはないのか…」と聞きます。鉄太郎は「迷い…」と聞き返すと、万二郎は「枯れかかった徳川幕府という大樹の最後の支えになる…東湖先生の言葉をうかがって、オレは何をすべきか見つけたような気がした…だが、オレはダメな男だ…」と言います。鉄太郎は、万二郎の顔を見ながら「何を言っているんだ…」と言います。万二郎は沈んだ表情で「胸の内では、違うことばかり考えている…」と言います。鉄太郎は「違う事とは何だ…」と真剣な表情で聞きました。そして、万二郎の顔を覗き込むようにして「ひょっとして、女か…」と言いました。万二郎は、うつむきながら沈んだ声で「面目ない…」と答えました。鉄太郎は、万二郎の肩を手で揺らしながら嬉しそうに「そうかそうか…」と言いました。



 万二郎は、善福寺の山門の前の石段を行ったり来たりしていました。そして、思いつめたように登って行きました。境内にはいって、おせきの部屋の前に来ると、そこにはすでに、良庵が来ていて、おせきと庭で、何やら立ち話をしていました。万二郎は、その様子を遠くから見て「あの野郎…」と小声で言いました。


 良庵はおせきに「いやいやいや…私は、坊主になる覚悟はできています…」と言います。おせきは「でも、良庵先生は、お父上の跡取ではないですか…」と言いました。良庵はすかさず「医者は辞めませんよ…二足のわらじを履くんです…医者が坊主をすれば手間がはぶける…」と答えました。おせきは、困った表情で笑みを浮かべながら首をかしげて「そんなあ…」と小声で言います。その時万二郎が、思いあまって「騙されていはいけませんよ…おせき殿、この男、坊主になる気持ちなど微塵もありませぬから…」と言いながら、二人の前にやって来ました。万二郎は、良庵を睨みつけると、おせきに向き直って、真剣な表情で「あなたの気を引きたいが為の嘘八百です。」と言いました。その言葉を聞いた良庵は、むきになって万二郎を押しのけると、おせきの方に向き直って「ウソじゃありません…本気でいっているんです…」と言いました。良庵と万二郎は、おせきの前でつかみ合いになり、良庵が「人の恋路を邪魔するな…この野暮天…」と言うと、万二郎は「それは、こっちのいう台詞だ…」と言い返しました。



 二人がもみ合いをしていると、そこへ女中が「お嬢様!」と大声をあげてやって来ました。おせきが「なに、そんなに慌てて…」と言うと、女中はおせきの耳元に手を当てて、小声で話しかけました。おせきは「えっ」と驚くと女中と視線を合わせて、どうすべきか迷っていました。その様子を見ていた良庵がおせきに「どうしたんです…」と声を掛けました。おせきは良庵に「昨夜から子坊主が熱を出して寝込んでいるんですが、痘瘡じゃないかって…」と答えました。それを聞いた良庵と万二郎は、唖然とした表情で「痘瘡…」と言いました。

 子坊主が寝かされている部屋で、良庵が診察をしていました。子坊主の体には、水泡のようなできものが全身に出来ていました。良庵が診察を終えると万二郎が「どうなんだ…」と聞きます。良庵は「大丈夫だ…痘瘡じゃない…水痘だ…」と答えました。おせきがホッとした様子で「水痘…」と言います。良庵は女中を見ながら「早とちりだな…仰天したぞ…」と言うと、水を入れた鉢に手を入れて洗い始めました。女中は手を付いて深々と頭を下げて「申し訳ございません…」と言いました。良庵は「しかし、水痘と言えども油断はできぬ…」と言うと、おせきの方を向いて「あとで薬を届けます。」と言いました。おせきは良庵に、両手を付いて深々と頭を下げながら「ありがとうございます。」と言いました。そんなおせきの姿を万二郎はじっと見つめていました。



 診察が終わって、良庵とおせき、そして万二郎は廊下を歩いていました。おせきは二人に「お富が早とちりしたのは、無理はないんです。」と言います。万二郎が「どうして…」と聞き返しました。おせきは「私には、二つ上の兄がおりました。その兄が痘瘡で亡くなっているんです。」と答えました。良庵は、驚いた表情で「えっ」と言いました。おせきは「まだ、九つでした。」と答えました。万二郎は「そうだったんですか…」と言います。良庵は、悔しそうな表情で「種痘さえあれば…そんな不幸は起きなかったでしょうに…」と言いました。おせきは良庵の顔を見ながら「種痘…」と聞きました。良庵はおせきに種痘の説明をし始めました。良庵の表情は、いつもとは違った、勉学に励む熱意ある若き医学者の表情で「牛の痘瘡から取った牛痘と言う物を人に植え付けて、痘瘡に掛からない体を作る予防法です。」と言いました。それを聞いていた万二郎は、驚きを隠せぬ声で「牛…そんな物、人に植え付けて大丈夫なのか…牛になったりしないのか…」と聞きました。良庵は万二郎に視線を合わせるとうんざりした表情で「なる訳ないだろう…」と言います。奥医師や迷信を信じる人達にいつも言われ続けているので、反射的に言葉が出たのです。



 良庵はおせきに向き直ると「すでに、京や大坂では種痘所が作られ、子供たちに種痘を施している。」と言いました。おせきは真剣な表情で良庵を見つめると「江戸には、まだ無いのですか…」と尋ねました。良庵は、首を横に振りながら残念そうに「ありません…でも、うちの父が江戸に種痘所を作ろうと、今、御上に働きかけているところです。」と答えました。



 良庵と良仙は、常陸府中藩邸に向かっていました。良仙は良庵の顔を見ながら心配そうは表情で「大丈夫か…」と聞きました。良庵は自信ありげな表情で「大丈夫ですよ…」と答えました。


 良仙と良庵は、藩邸の座敷で家老佐伯甚七郎に会っていました。良仙は佐伯を覗き伺うようにして「先日、お願い申し上げました牛痘の江戸普及の件、若年寄遠藤様にもお話し下さいましたか。」と尋ねました。佐伯は、渋い顔つきで「話したが、どうも手応えがないのう…何せ城中は、奥医師の力が強うてな…」と答えました。良仙は「それは存じております。でございますからこそ、お難儀と存じつつ、佐伯様にお願いしております。何とぞ今一度、御上伸を…」と、佐伯の顔を覗き伺うようにして食い下がりました。佐伯は「うん…」とうなると考え込みました。


 良仙は良庵の方を振り向くと、打ち合わせて置いたことを言えと言わんばかりに、手で合図を送りました。すると、後ろに控えていた良庵が「あのう…御家老様…代わりと言っては何ですが、私がとびきりの場所へお連れいたします。」言います。すると良仙が「これ、これ…」と、わざとらしく止めに入りました。しかし良庵は、前に進んで「天下一品…唐の楊貴妃もしっぽを巻くほどの素晴らしい女でございます。」と言います。佐伯の顔色が少し変わって、良庵を見つめていました。その時良仙が「そんなに好い女子か…」と言います。すると良庵が「好いなんて言うもんじゃございません…」と言いました。



 良仙と良庵は江戸城内の座敷に通されていました。良仙は、腕組みをして目を瞑り心を落ち着かせていました。良庵は、浮かれた表情で周りの襖絵を見ながら「ようやく遠藤様とお会いできるのか…」と言いました。良仙は目を瞑ったまま良庵に「静かにしておれ…」と言いました。その時、襖の向こうから人が入って来る気配がした二人は、畳に両手を付けて、深々と低頭をしました。


 座敷に入って来たのは、奥医師の多紀誠斉でした。誠斉は「お待たせ申したな、良仙殿…」と声を掛けると、上座に座りました。その横には、多紀元迫も控えていました。良仙が顔をあげると誠斉が座っていたので、良仙は驚きなした。良庵は、以前自宅に誠斉が押しかけて来た時のことを思い出していました。「御上は、脚気だそうじゃないか…その脚気も治せねい漢方医などおととい来やがれ…」と言った事を…


 良仙は、緊張した表情で手をついたまま「あのう…遠藤様は…」と尋ねると、誠斉は「良仙殿、失望させて悪うござるが、牛痘の診療所の件、医学館としては認めるわけにはいかんでな…」と答えました。良仙は「あ、いやいやいや…あれは、医学館には御迷惑はお掛け致しませんわい…痘瘡の予防の為に、我々が金を集めて開設するのですから…」と言い返しました。すると元迫が語気を強めて「黙らっしゃい…牛の痘瘡を人に移すなど言語道断…断じて許す訳にはいかん…」と言いました。すると良庵が、鋭い眼差しで誠斉たちを見つめながら「父上、この方々に何を話しても無駄でしょう。我々は、遠藤様に会いに来たんです…」と言います。誠斉も良庵の話を遮るようにして「残念じゃが、遠藤様はお主たちに会わんそうだ…いくら待っても無駄だ…さっさと帰れ…二度と来るな…」と、奥医師の権威を見せつけるように言い放つと、立ち上がり部屋を出て行きました。良仙は、慌てふためいた表情で、誠斉と元迫を見つめていました。良庵も、恨めしそうな顔で、二人の後姿を見つめていました。



 万二郎と良庵は、良庵の家の玄関先で立ち話をしていました。万二郎は良庵に「そこまでして、邪魔をしてくるのか…」と言います。良庵は「しかし、考えようによっては、奴ら焦っている証拠だな…自分達の利を守る為に必死なんだ…」と言います。良庵が後ろを向いて仏間へ向かうと、万二郎は腰の大刀を鞘ごと抜き取り、良庵の後に付いて行きました。良庵は「今に見ていろ…オレが大阪で新しい術を身につけてきたら…奴らに吠え面を書かせてやる…」と言いました。万二郎は良庵に「大阪には、いつ行く…」と聞きます。良庵は万二郎の顔を見ながら「秋には行くことになっている…緒方洪庵先生に会えるのが何よりも楽しみだ…種痘所の様子も確り見聞してこないとな…」と答えました。すると万二郎は、腕を組ながら「ついでに、大阪の色街も見聞して来るんだろ…」と、皮肉を言いました。良庵はすかさず「分かっているだろう…よし、景気づけの一杯だ…」と切り返しました。



 安政二年(1855)四月。万二郎は、藤田東湖の屋敷に来ていました。

陽だまりの樹が見える縁側で東湖は「奥医師達は、陽だまりの樹を食い荒らす白蟻だ…」と言います。万二郎が「先生…」と言うと、東湖は「はい…」と答えながら万二郎を振り返りました。万二郎は俯きかげんに「お恥ずかしい事ですが、私はその良庵の話を聞いて、羨ましく思いました…アイツは女好きのいいかげんな男ですが、何をやるべきか道が確り見えています。それに比べて私は、倒れかけた大樹の支えになると決めたものの、何をすればいいのか、さっぱり道が見えないのです。」と尋ねました。
東湖はしばらく考えて「アヘン戦争を知っていますか…」と聞きました。万二郎は、真剣な眼差しで「はい。清国がイギリス国に負けた戦だと…」と答えました。東湖は間髪いれずに「なぜ負けた…」と聞きました。万二郎は「大砲もろくに無く、西洋式兵法を学ばなかったからでしょう…」と答えると、東湖はすぐさま「いや違う…清国の王朝が、退廃の極みに有ったからだ…幕府も大義と言えども中は腐りかけておる。各藩も己が利を追うばかりでバラバラだ…このままでは…」と言うと、万二郎は東湖がその先を話す前に「異国に攻められる…」と言いました。東湖は小声で「うん…」と言うと頷きました。そして、万二郎に視線を合わせながら「万二郎殿…そう成らぬようにするのが、貴君達の務めだ…」と言います。万二郎は険しい表情で「しかし、そんな大それたことが…」と尋ねると、東湖はすぐさま「出来る…」と答えました。そして「おのずと道は開ける…焦らなくてもよい…信念さえ…持っていればな…」と、万二郎を諭すように言いました。



良庵の声でナレーションが入ります。

「私の妹の夫で、蘭方医の大槻俊斉が、伊東玄朴を連れてきた。当時、伊藤玄朴は、江戸では名の知れた、蘭方医の一人であった…」

二人は座敷に通されて、良仙と話をしていました。

玄朴は「実は私も、かねがね牛痘法を江戸に広めたいと願っておりました。」と言います。良仙は「あっ…」と言うと、我が意を得たりと言わんばかりに手を叩き「それは、話が早い…是非、先生のお力をお借り申したい…」と言うと、両手を付いて頭を下げました。そして、嬉しそうに「でえ…先生のお宅を仮の種痘所として使わせていただけませんか…」と切り出しました。しかし玄朴は、慌てたように「うん、いやいや、それは困ります…家は、そんなつもりで建てたのではない…」と言います。すると良仙と良庵の表情が、戸惑いの表情へと変わりました。良仙が「しかし…大変ご立派なお屋敷で…」と言うと、玄朴は立ちながら「医者という稼業は、見栄えが大事と心得ます…」と言うと、庭を見ながら「邸を立派に構えておけば、その豪華さが患者を呼ぶんです…ですが、今うちを種痘所にすれば、集まった患者が逃げてしまいます…」と言いました。良仙は、頭を傾げながら娘婿の俊斉と良庵を見ました。そして、思い直したように「では…皆で金を出し合って種痘所を作りますので、御援助を願いませんか…」と言うのですが、玄朴は薄笑いをしながらあっさりと「うちは出しません…」と言いました。良仙は、呆れた表情で「あっ…」と言いました。その後玄朴は、良仙の屋敷を堂々と帰って行きました。お中だけが門前で見送りをしていました。



玄白が帰った後、良庵は呆れたように「あんだあれは…しみったれた男だ…あれだけ稼ぎまくっている成金が…」と、語気を強めて言いました。良仙も「まったくだ…あんな男だとは思わなんだ…」と同調しました。二人の様子を見ていた俊斉は、恐る恐る取りなすように「そんな悪い人ではないんです…ただ、金に細かいのは、昔、貧乏だったからです…相当苦労したようですよ…」と言いました。しかし、おさまらない良庵は「だからって…」と吐き捨てるように言いました。俊斉は、良庵に頭を下げながら「兄上、玄朴殿にとっても種痘を広めたいし、漢方医の横暴が憎いのは同じです…発起人になることは承知してくれたんですから…それで良しとしましょう…」となだめました。良仙は、少し落ち着いたのか、俊斉を見ながら「まあ…確かに、名の知れた蘭方医が見方についてくれるのはありがたいが…」と言います。するとすかさず俊斉は、良仙の前に座って両手をつき「戸塚セイカイ先生、川元コウリン先生も発起人に名を連ねて下さいます。」と笑みを浮かべて言います。良仙は「うん…一度集まって、今度のことを相談した方がよさそうだな…」と言いました。良庵は気が抜けたのか、何とも言えない表情で診察台の上に寝ていました。




丑久保陶兵衛が飲んでいる居酒屋に、多紀誠斉の手先の浪人がやって来ました。浪人は店の女に「おい、酒くれ…」と言いました。女が「はい、ただいま…」と言うと、浪人は陶兵衛の横の席に座りました。そして「水戸浪人、丑久保陶兵衛…お主に打って付の仕事がある…」と言いました。陶兵衛は「拙者は、仕事など頼んではおらん…」と言うと、盃の酒を飲み干しました。浪人は陶兵衛を見ながら小声で「まあ、そう言うな…お主の真田宮流の腕を見込んでだ…御内儀の無念を晴らしたいだろうが…」と言いました。陶兵衛は、浪人を横目で鋭く睨みつけました。



浪人たちが集まっていました。

多紀誠斉の手先の浪人、楠音次郎が、大刀を手にしたまま、床の間の掛け軸を背にして立ち「本日お集まり願ったのは他でもない…昨年、ペルリらと恥ずべき条約を結んで以来…御公儀は諸外国と交易し、我国に夷狄の土足を許すおつもりと見える…何とも遺憾千万…歯がゆいではないか…」と言いました。それを聞いていた浪人の一人が「それで、どうしろと言うんです…」と、聞きました。音次郎は「異人どもにへつらう売国奴達に、天誅を加える…」と言うと、持っていた大刀を肩に担ぎました。すると別の浪人が「天誅…例えばどういう連中を…」と聞きます。音次郎は大刀を担いだまま浪人に近づいて座り、顔を突き合わせて「洋学者、それに連なる商人、蘭方医、それに異人ども一切だ……天誅を天下に知らしめ反省を促す。それが狙いでござる。」と、鋭い眼差しで言いました。

音次郎は立ち上がるとさらに続けて「もし同意できぬと言うのであれば、御遠慮なくお帰りいただいて結構…」と言いました。すると、後ろの方に座っていた浪人が立ち上がって「バカバカしくて聞いちゃいられんよ…子供騙しのように徒党を組んで、何ができると言うのだ…」と言います。すると音次郎は、その浪人を見ながら「名は明かせぬが、我々には大きな後ろ盾がある…」と言いました。浪人は「誰か知らんが、時期が早すぎる…オレも攘夷には異存はないが、オレは俺のやり方で、勝手にやる…」と言うと部屋を出て行きました。その浪人は、千葉道場の門弟清河八郎でした。清河が部屋を出て行くと「拙者も失礼…御免…」と言いながら、数人の浪人たちが立ち上がって、部屋を出て行きました。

音次郎は、多紀誠斉の部屋に座っていました。誠斉は音次郎に「何人残った…」と聞きました。音次郎は「七人です。」と答えました。誠斉は「七人か…まあ、よかろう…」と言うと、手に持っていた盃を飲み干しました。

音次郎は、浪人たちのいる部屋に戻ると「差し当たり、我々の第一の的が決まった…小石川傳通院裏の手塚良仙なる蘭方医だ…そいつの家で、江戸の主だった蘭方医どもが寄合をすることがある。そこを襲う…奴らに天誅を下す…」と言いました。丑久保陶兵衛は、思いつめたように黙って聞いていました。そして、手にしていた大刀で、畳を叩くと立ち上がり、大刀を抜きざま、蝋燭の真を斬りをとしました。部屋は暗くなり、煙だけが微かに昇っていました。



良仙の屋敷に、おせきが来ていました。おせきは座敷で、良仙の顔を見ながら真剣な表情で「私に、お手伝いさせて頂けないでしょうか…」と言いました。良仙は、驚いた表情で「えっ…」と言います。同席していた良庵も驚いた表情で、おせきの顔を覗き込むようにして「お手伝い…」と言いました。おせきは、思いつめたように「たった一人の兄を奪った痘瘡が憎いんです…」と言います。良仙は、身を乗り出すようにして「兄上殿が痘瘡で…」と聞きました。おせきは「はい…」と答えると、両手を付いて、視線を良仙に会わせながら「私のような者でも、その種痘所で、何かのお役に立てればと思いまして…足手まといでしょうか…」と尋ねました。良仙は真剣な眼差しで「いやいや、そんなことはない。おそらく猫の手も借りたくなるはずじゃ…そう言うことなら、うん、是非お願いしたい…」と答えました。良仙の顔には笑みがこぼれていました。おせきも笑顔で「ありがとうございます。」と言うと、良仙に深くお辞儀をしました。良庵は、よからぬ考えを思いついたのか、顔に満面の笑みを浮かべていました。そして、真面目ぶった顔をして、良仙に近づくと「そうと決まれば父上、まずはおせきさんに、うちの仕事を手伝ってもらいましょう…種痘所が出来た時にすぐ動けるよう、慣れて置いた方がいいでしょう…」と言いました。良仙は、良庵の迫力に戸惑っている様子で「それはまあ…そうだが…」と言います。おせきはニッコリ笑って「お願い致します…」と言うと、深々と頭を下げました。良庵は、おせきの姿を見て、満面の笑みを見せますが、良仙は、そんな良庵の顔を怪訝そうに見つめていました。



楠音次郎と丑久保陶兵衛は、天誅をする為に、編み笠をかぶって、良仙の屋敷の下見に来ていました。音次郎は門前で「出口は二つ…大した家じゃないな…」と言います。陶兵衛は、低く小さな声で「決行はいつだ…」と聞きました。音次郎は「そう焦るな…日取りが決まったら知らせる…」と言いました。その時、人の気配を感じた二人は、慌ててその場を立ち去りました。

門から出てきたのは、おせきでした。何も知らないおせきは、そのまま帰宅して行きました。おせきの後姿を音次郎と陶兵衛が、追うように見つめていました。音次郎がおせきを付けようとすると、陶兵衛が後ろから「どうした」と声を掛けました。音次郎は、何か下心がありそうな表情で「オレは、その辺で一杯やってから帰る…」と言いました。陶兵衛は、何も言わずにその場を立ち去って行きました。音次郎は、陶兵衛がいなくなったのを確認すると、鼻歌を歌いながらおせきを付けて行きました。

おせきが街中を歩いていると、路地の方から何かうなり声のようなものが聞こえて来ました。おせきは、うなり声の聞こえる方を見ると、編み笠をかぶった浪人風の男が、うずくまっているのに気付きました。おせきは、浪人に近づくと、心配そうに「どうなさいました…」と声を掛けます。浪人は、かすれた声で「急にさし込みが…」と言います。おせきは「近くに、知り合いの医者がおりますので、直ぐに呼んでまいります…」と言うと振り返って路地を出ようとしました。その時浪人は、おせきの背後から襲いかかりました。


浪人は、おせきに当て身をくらわせて、気を失わせると、周囲を見渡して人に見られていないことを確認しました。浪人は、楠音次郎でした。音次郎は、おせきを抱きかかえて、路地の奥深くへ入って行きました。

音次郎は、薄暗い路地の奥におせきを寝かせると、おせきの着物の裾を捲り、馬乗りになりました。そして編み笠の紐をほどいて取り、おせきの着物の襟を広げました。その時、大通りをたまたま万二郎が通りかかっていました。虫が知らせたのか、万二郎は路地の奥を見て、異変に気づきました。不審に思った万二郎は、大通りから「何をしている…」と声を掛けました。音次郎は、万二郎の方を振り向きます。万二郎が、路地の中へ入って行くと、気を失っているおせきに気づきました。万二郎は「おせき殿…」と声を掛けて助け起こそうとしました。その時、隠れていた音次郎が出て来て、大刀を鞘のまま棒のように使って、万二郎の胸に当てて押し倒そうとしました。そして「邪魔しやがって…どこの若造だ…」と言いました。万二郎は、両手で鞘を握って、懸命に押し留まりながら「常陸府中藩士、伊武谷万二郎…」と言うと、大刀を払いのけました。


音次郎は、万二郎を睨みつけると「面白い…」と言います。万二郎は、おせきから離れると、刀を抜きました。万二郎が斬りかかると、音次郎は万二郎の剣を受けて、責めに転じていました。狭い路地での太刀さばきは、修行中の万二郎よりは、実践に長けている音次郎の方に分があるようでした。万二郎は音次郎から腕を斬られてしまいました。万二郎は、おせきを救うために懸命に闘い続けました。そして、いつの間にか通りに押し倒されてしまいました。



白昼の通りで、侍二人が刀を抜きあった姿を見た町人の一人が「果たし合いだ…」と声をあげました。ふと我に戻った音次郎が、自分の手を見ると血が流れ落ちていました。音次郎も斬られていました。音次郎は、周りを見渡して、万二郎に「勝負は、お預けじゃ…」と言うと、刀を抜いたまま逃げるように去って行きました。万二郎は、抜き身の刀を握って倒れたまま、逃げ去る音次郎を睨みつけていました。町人たちは、そんな万二郎を遠巻きにして見ていました。

万二郎は「おせき殿…」と言うと立ち上がり、路地の中へ入って行きました。その姿を町人と一緒に、丑久保陶兵衛も見ていました。万二郎は、気を失ったおせきを抱きかかえて路地から出て来ると、良仙の屋敷に向かいました。陶兵衛は、その姿を見て「伊武谷万二郎…」と小声で言いました。



おせきは、良仙の屋敷の座敷に寝かされていました。良仙は万二郎に、慌てた様子で「いったい何があったんだ…」と尋ねました。万二郎は、興奮冷めやらぬ表情で「浪人風の奴に狼藉を…」と、押し殺したような小声で答えました。良庵は、驚いた表情で「なに…」と言いました。万二郎は良仙の目を見つめながら「先生…おわかりですか…」と言います。良仙は少しドギマギした表情で「何をだ…」と聞き返しました。万二郎は「おせきどのが…無事かどうか…」と言いました。良庵は「うん、それじゃ…」と言うと診察を始めました。良庵は、脈診が終わると「大丈夫じゃ…気を失っているだけじゃ…」と言いました。すると良庵が、苛立ったような声で「そうじゃない、父上…体を汚されたどうかです…」と、良仙に詰め寄りました。良仙は、やっと気づいたのか「あっ、そうかそうか…」と言うと、また診察をしようとしますが、万二郎を見て「あっああ…それよりもあんたの傷の手当てが先だ…」と言うと、横にいた良庵を見て、万二郎の傷の手当てをするように指図しました。良庵は「はい」と言うと立ち上がり「万二郎、行くぞ…」と声を掛けました。良庵は、おせきのそばから離れない万二郎を見て、万二郎の腕を取り「おい…」と言うと、抱えるようにして、診察室に万二郎を連れて行きました。


良庵は、万二郎の腕に包帯を巻きながら「いったい、何処のどいつだ…」と言います。万二郎は、怒ったように「わからん…」と答えました。良庵は、怒りが治まらないのか「何で取り逃がした…そんな奴は叩っ斬れ…」と言うと、包帯の紐を力を込めて結びました。万二郎は、傷が痛むのか「もっと優しくやれ…」と言いました。

おせきの診察を終えて、良仙が診察室に入って来ると、万二郎と良庵は、待ちきれぬように立ち上がり、良仙の顔を見ました。万二郎は「先生…」と言いました。良庵は、確かめるように診察室の外をのぞいて戸を閉めました。そして、手ぬぐいで手を拭きながら「安心せい…おせき殿は無事だ…」と答えました。万二郎は、小声で「よかった…」と言います。良庵もホッとした表情で頷き、診察台に腰をおろしました。

万二郎は、思いつめた表情で床に座ると、両手を付いて深々と頭を下げて「先生…この件は他言無用に願います…」と言いました。良仙は、怪訝そうに「ううん…」と言います。万二郎は、頭を下げたまま「何もなかったとは言え、狼藉者に襲われたと知れたら、おせき殿が何と言われるかわかりません…」と言いました。良庵も良仙に「確かにそうだ…嫁入り前の娘に、要らぬ噂が立ったら…」と言いました。良仙は椅子に腰かけて、万二郎の肩を軽く叩いて「分かりました…万二郎さんが助けたのは、おせき殿ではない…ううん…見知らぬ娘という事にしておこう…」と言います。万二郎は頭をあげて、良仙の顔を見ながら「ありがとうございます。」と言うと、また両手を付いて深々と頭を下げました。



万二郎が家に帰って来て障子戸を開けると、居間では父の千三郎が内職に励んでいました。万二郎が「只今戻りました…」と言うと、奥から母のおとねが出て来て、笑顔で「あっ…お帰りなさい…」と言いました。次の瞬間、おとねは万二郎の斬られた着物の袖を見て、血相を変えた表情で「万二郎…その腕は…」と言いながら万二郎に近寄りました。千三郎が二人の様子に気づいて「どうしたのだ…」と聞きました。万二郎は、言いづらそうな表情で「ちょっと…浪人と…大したことはありません…」と、小声で言いました。おとねは心配そうな表情で「何が大したことはないですか…この前は左腕、今度は右腕…お前はいったい何をしてるんですか…」と、問い詰めました。すると千三郎が、落ち着いた声で「仔細を話しなさい…」と言いました。



万二郎は、緊張した表情で床に座ると、俯きかげんで「娘子が、浪人に狼藉されそうになっていて…」と、千三郎に話しました。千三郎は、万二郎を見つめながら「それで、助けたのか…」と聞きました。万二郎は小声で「はい」と答えました。千三郎は、静かに頷きながら「そうか、ならば良い…」と言いました。万二郎は、千三郎に一礼すると立ち上がり、自分の部屋へ行きました。横に座っていたおとねが、心配そうな表情で千三郎に「宜しいんですか…刃傷沙汰でございますよ…こんな事が公になったなら…」と尋ねると、千三郎は落ち着いた表情で「まあ、良いではないか…今回は、女子を助けたのじゃ…それでこそ武士だ…」と答えました。しかし、おとねは「それはそうですが…」と、女親として心配していました。




おせきは、何もなかったように良仙の屋敷で、診療の手伝いをしていました。中年の女の患者が診療を終えて玄関先で「ありがとうございました。」と言うと、頭を下げて「お大事になさってください…」と言いました。

また、良仙が外科の治療をする際には、患者の体を良庵と一緒に抑えていました。良仙は患者に「少し、しみますぞ…」と言うと、二人に「しっかり押さえておれ…」と言います。そして、傷口に薬を急須のようなもので掛け始めました。患者は痛みから暴れはじめ、おせきも良庵も懸命に患者の体を押さえていました。良庵は、おせきの顔を見て「大丈夫か…」と、笑顔で声を掛けていました。

一日の診療が終わって、おせきは家に帰ろうとしていました。門を潜り抜けると、門前に侍の後姿がありました。さすがのおせきも驚いた表情になりました。おせきは、恐る恐る覗きこむようにして侍の顔を見ました。侍は万二郎でした。おせきは万二郎に「伊武谷様…」と声を掛けました。万二郎が振り向いて、おせきの顔を見ると、おせきは「先日は、ありがとうございました…」と言いながら、深々と頭を下げました。万二郎は、緊張した表情で「いえ…お送りします…」と言いました。おせきは驚いた表情で「えっ…」と小声で言いました。万二郎は、おせきに視線を合わせる事が出来ずに小声で「心配なんです…送らせて下さい…」と言いました。

万二郎は、おせきの前を歩いていました。おせきは万二郎に「すみません、わざわざ…」と言いました。万二郎は、前を向いたまま「いや…あの…おせきどの…」と、おどおどした声で言います。おせきは「はい…」と返事しました。万二郎は「私は…その…ああ…明日も晴れますかな…」と、言いました。万二郎は、自分の思いをおせきに伝えることはできません。おせきは、戸惑うように空を見て「はあ…」と言うと、笑みを浮かべて万二郎の後ろを歩いていました。



善福寺の門前の石段を登りきると、おせきは深々と頭を下げて「ありがとうございました。お茶でもいかがですか…」と言います。万二郎は「いえ、結構です…これにて…」と言うと頭を下げました。そしてすぐに振り返り、小走りで帰って行きました。くそ真面目な万二郎は、結局自分の思いを何一つ伝える事が出来ませんでした。




万二郎は、楠音次郎との刃傷沙汰の件で、家老佐伯甚七郎に呼び出されていました。万二郎は、佐伯の前に座って、両手を付いて低頭していました。

佐伯は万二郎に「何故往来で浪人と立ち会った…」と静かな口調で尋問しました。万二郎は「はっ、その浪人が娘子に狼藉を働いていたので助けました。」と答えました。佐伯が「何処の娘だ…」と聞くと、万二郎は「申せません…」と答えました。佐伯は、静かな口調ながらも「なぜ」と、たたみ掛けるように聞きます。万二郎は「娘子に悪い噂が立ちます…」と答えました。佐伯は立ち上がると万二郎に近づいて「悪い噂が立っておるのは、措置の方じゃ…」と言うと、万二郎の目の前に座って「伊武谷万二郎は、血の気の多い男ゆえ、誰かれ構わず喧嘩を吹っ掛けては、刀を抜いておるとな…」と、万二郎を諭すように話しかけました。万二郎は語気を強めて「そのような事は…」と返事しました。佐伯が「ならば、娘の名を申せ…そうすればそちがとがめられることはないであろう…」と聞くと、万二郎は静かな口調で「申し訳ございません…申せません…」と答えました。佐伯は「言わねば、ただでは済まぬぞ…わしにもかばいきれん…」と、万二郎のことを親身に思って話しかけるのですが、万二郎は顔を少し上げて上目使いに「どの様なお沙汰でもお受けいたします…」と答えました。佐伯は、困った表情で「頑固な男じゃのう…父親そっくりじゃ…」と言いました。


万二郎は、自宅に帰ると千三郎の前に座っていました。千三郎が「それで、御家老様は何と…」と聞くと、万二郎は千三郎の顔を真っすぐ見つめて、静かな口調で「追って沙汰すると…おそらく扶持は減らされるのでは…」と答えました。おとねは、落胆した素振りは見せずに、冷静を装って「そうですか…」と言いました。万二郎は、両手を付いて低頭しながら「申し訳ございません…」と言いました。万二郎は、低頭しながらもおせきの笑顔を思い浮べていました。そして、自分が守らねばと思っていました。



良仙は、水を入れた手桶を持って、庭の植木にひしゃくで水を掛けていました。良庵は、そんな良仙の後姿を縁側に立って見ながら「大阪に行く件なんですが、少し先に延ばした方がいいかと思いまして…」と話しかけました。良仙は、植木に水を掛けながら「先に延ばす…どうしてじゃ…」と言うと、振り向いて良庵を見ました。良庵は「種痘所の件が決まらないと…」と答えました。良庵は「それは、わしや俊斉が必ずやる…お前は心配せんでよい…」と、言います。良庵は食い下がるように「でも、やはり気掛かりです…」と言うと、縁側に正座をして「設立のめどが立ちませんと落ち着いて勉学に励めません…」と言いました。良仙は、手桶を置いて柄杓を投げ捨てると良庵の元へ歩み寄り、眼鏡を手で調節しながら良庵の顔を覗き込みました。そして「本当の訳は何だ…」と聞きました。良庵は、おどけるような顔をして体を後ろにそらしながら「はあ…」と言いました。良仙は、自分の指で自分の目を指しながら「わしの目は節穴ではないぞ…おせきさんじゃないのか…」と言いました。図星でした。良庵は何も言い返す事が出来ずに黙っていました。良仙は、良庵の横に腰を下ろすと「お前がおせきさんに気があるのは分かっておる…」と言うと、良庵の胸をポンと叩きました。良庵は、神妙な顔で「嫁に貰おうと考えております。」と答えました。良仙は、驚いた表情で「寺の一人娘だぞ…坊主になるつもりか…」と、問い質しました。良庵は、開き直った表情で「医者と坊主、両方やれば支障はないと思いますが…」と答えました。良仙は、思わず笑い出しました。そして、真剣な顔で良庵を睨みつけて「バカを言うな…」と言いました。その時、若い女中がやって来て「先生、伊武谷様の御新造様がお見えです…」と言いました。良仙は「おとね殿が…」と言うと、なぜだろうと言う表情で、玄関口の方を見て「お通しなさい…」と言いました。




おとねは、座敷に通されていました。おとねの前に良仙が座り、その斜め後ろに良庵も座っていました。おとねは、心配そうな表情で俯きかげんに「お尋ねしたい事が会って伺いました…」と言います。良仙は、おとねの顔を見つめながら「はっ、何でしょう…」と言いました。おとねは、静かな口調で「先日、万二郎が若い娘を助けて、こちらへ連れて来たと聞きました。その娘の素性を教えて頂きたいんです…藩邸内で悪い噂が立っております…万二郎は血の気が多く、闇雲に果たし合いを繰り返していると…娘を助けて、やむをえず刀を抜いたという事が明らかにならねば、厳しい御処分が下されてしまいます。お扶持が減らされるのはまだしも、あの子の行く末が心配でなりません。どうか、その娘の名をお聞かせ願いませんでしょうか…」と尋ねました。良仙は、おとねの気持ちが染み入るように分かり「確か…」と、おせきの名を言おうとしますが、後ろから良庵が、おとねに分からぬように良仙の尻を叩いて、言うなと合図を送りました。良仙は我に戻り、言うのをやめて、良庵の方を振り向きました。

良庵は、神妙な顔で「あのう…私たちも知らないんですよね…」と言うと、良仙の顔を見ながら「行きずりの娘でしたよね…」と言いました。良仙は「ああ、そうでした…」と言うと、笑みを浮かべて、おとねを見つめました。するとおとねは「名も聞かずに治療されたのですか…」と尋ねました。良仙は、どう答えていいのか分からずに「えっ、それがそのう…」と、言葉が詰まるのですが、良庵が「名のりたくないと本人が言ったので…どういう事情があるのかは分かりませんが…」と答えました。おとねは、状況を理解したように「ああ…」と言いました。その顔には、落胆の気持ちがにじみ出ていました。

おとねは、静かに良仙の屋敷の門を潜り抜けました。良庵が門の外まで見送りに出ると、振り向いて良庵に一礼して帰りました。見送る良庵の顔は複雑でした。その時、ちょうどおせきがやって来て、おとねとすれ違いました。おせきは振り向いておとねの後姿を見つめるのですが、おとねは、おせきに気づかずに行ってしまいました。


おとねは、良庵の元へ歩み寄って一礼すると「今の方は…」と尋ねます。良庵は、何も無かったように「うん…万二郎のお母上です…」と答えました。おせきは「伊武谷様の…」と尋ねるのですが、良庵は、はぐらかすように「あっ、そうだ、おせきさん…親父が探してたんだ…何か頼みたい事があるとか…」と言いました。おせきは「あっ、はい…」と返事をします。良庵は、先に門を潜って屋敷の中へ入って行きました。おせきは、心配そうな表情で、おとねの後姿を目で追っていました。




良庵と万二郎は、善福寺境内の大樹のそばで会っていました。

良庵は、投げやりな声で「いいのか…このままで…」と言いました。万二郎は、抜いた刀の波紋を見ながら「ああ…」と答えます。良庵は「お前さんのせいで、伊武谷家がお取り潰しになったらどうする…」と言います。万二郎は、冷めた口調で「そこまでは成らんよ……扶持を減らされるぐらいだ…」と答えました。万二郎は「母上は、お前さんの行く末を案じていたぞ…」と言います。万二郎は、見ていた刀を腰の鞘に戻すと思いつめたように俯いていました。良庵は、万二郎の胸にこぶし大の石を投げつけて「頑固で…融通が利かない…要領が悪い…世渡りが下手…」と、呆れた表情で言いました。万二郎は、鋭い眼差しで「何だ、それは…」と聞きます。良庵は「お前さんの事だよ…」と答えました。そして、万二郎に歩み寄ると「そんな調子じゃ、出世できないぞ…」と言いながら、万二郎の顔を覗き込むようにして見ていました。万二郎は、癇に障ったのか大きな声で「うるさい…」と言うと、その場を立ち去って行きました。良庵は、万二郎の後姿を見ながら「はあ…」と溜息をもらしました。そして「まいったなあ…どうすりゃいいんだ…」と言いました。




良庵が万二郎の後姿を見ながら考えていると、後ろで人の気配を感じました。万二郎が振り向くと、おせきがいました。おせきは二人の話を陰で聞いたようでした。おせきは良庵に、深々と一礼をしました。そして良庵に歩み寄って来ました。良庵は、どうした物かと頭をかきながら考えていました。



伊武谷家の座敷では、千三郎と万二郎が向かい合って座っていました。千三郎は緊張した表情で「万二郎…先ほど、御家老様のお使いの方が見得られてな…善福寺のおせきと申すおなごが、お前に助けられたと名乗り出てきたそうだ…」と言います。万二郎は、俯きかげんに心配そうな表情で「どうして…」と言いました。千三郎は、万二郎の顔を見つめながら「仔細は分からぬが…まあ、これで一件落着だ…」と言うと、立ち上がり居間に行って内職を始めました。するとおとねが、歩み寄って万二郎の前に座り「お前がなぜ黙っていたのか、おおよその見当はついています……その娘子、好いておるのですね…どうなんです…」と尋ねました。万二郎は、上目遣いにおとねの顔を見ると、静かな声で、しかしはっきりと「はい、好いております…」と答えました。おとねは、万二郎の顔を見つめ直して「成りません…家は貧しくても武士の家柄です。」と言いました。千三郎は、黙って二人の話を聞いていました。おとねはさらに「武士は武士の分相応の嫁を娶るべきです。」と言いました。万二郎は、首を横に振ると辛そうな表情して、両手を付いて頭を下げながら「母上、お許しください…好きな物は好きなのです…」と言うと立ち上がり、その場を去って行きました。おとねは心配そうに「万二郎…」と呼びとめたのですが、万二郎は戻って来ませんでした。おとねは、千三郎の方を向いて「あなた…」と言いました。千三郎は、ただ黙って内職をしていました。




万二郎は、善福寺の座敷に通されていました。おせきは、万二郎の前に座って、両手を付いて「この度は、私のせいで御迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした…」と、お礼を言うと、深く頭を下げました。万二郎は、静かな声で「とんでもない、頭をお上げください…」と言いました。おせきが頭を上げて、上目遣いに万二郎を見ていると、万二郎は「しかし、誰から聞いたんです…良庵ですか…」と尋ねました。おせきは、言葉を選びながら「良庵先生をお責めに成らないで下さい…良庵先生は、伊武谷様の身を案じて打ち明けて下さったのです…それに、私は、そんなに弱い女ではございません…どんな悪い噂がたとうと平気です……でも、伊武谷様のお気使い、嬉しゅうございました…心から感謝しております…本当にお優しい方なんですね…」と言いました。万二郎は、おせきに優しい方と言われて、照れくさくなったのか、頭に手をやって「いや、あのう…」と言うと、笑みがこぼれ出し、畳を見ながら「おせき殿…」と言いました。そして、おせきの顔を見つめて「お話があります…」と言います。おせきは、笑みを浮かべながら「何でしょう…」と聞きました。




万二郎は、いきなり立ち上がると、声の調子を大きくして、恥ずかしそうに「以前から言おうと思っていました。私は…」と、ここまで言うと、人の気配がしたので縁側を見ると、住職の法衣を着た、おせきの父親が立っていました。万二郎は驚き、現実に引き戻されました。おせきは万二郎に「父です…」と言います。万二郎は、慌てて座り、緊張した表情で両手をつきました。おせきの父親は「お初にお目に掛かります…」と言いながら、座敷に入って来ると、おせきの横に座って「おせきの父です」と言いました。万二郎は、緊張した表情で、深く低頭して大声で「伊武谷万二郎と申します…」と言いました。


おせきの父親は、低頭したままの万二郎を見下ろすようにして「娘から聞きました。危ういところを救って頂き、誠にありがとうございました。」と言うと、頭を下げました。万二郎は、低頭したまま大声で「いいえ…」と言いました。おせきの父親は「その上、娘の身の上を案じて頂き、感謝いたしております…あなたの行いは、御仏の道に通じるものがございます。感服いたしました。」と礼を言うと、頭を下げました。おせきも父親の横で一緒に頭を下げていました。万二郎は、緊張と恐縮したので硬くなり、ただ低頭して「いいえ…はい…」などと言うことしか出来ませんでした。

万二郎は、提灯を下げて、一人山門を出て来ました。俯きながら、しょんぼりとした表情で、石段を下りて行きました。ここで、良庵の声でナレーションが入ります。「結局、万二郎は何も言えず、帰って行った…まったく、不器用な男である…」と…



料理屋で万二郎は「おい良庵!…何で、おせき殿に喋った!…」と、大声で怒鳴りつけました。芸者たちは、驚いて座敷から出て行きました。良庵は、迷惑そうな声で「何だよ、藪から棒に…」と言い返しました。万二郎は芸者たちが出て行った後、慌てて外の様子を見ながら障子を閉め、良庵の元へ歩み寄って座ると、良庵の耳元で「世間には、口さがない連中がいるんだぞ…おせき殿に悪い噂が立ったらどうする…」と言いました。良庵は、悠然と手酌で盃に酒をつぎながら「それは心配いらん…よくよく考えたら大した問題じゃない…」と言って、酒を飲もうとしました。すると単細胞で一途な万二郎は、怒って良庵の盃を手で強く払いのけました。そして、良庵の胸ぐらをつかんで「何だとう…」と言うと睨みつけました。良庵は、開き直ったように「どんな噂がたとうともかまわん…オレが嫁にもらえば好いだけの話だ…」と言います。万二郎は、怒り心頭の表情で「ふざけるな!…」と怒鳴りつけました。そして、良庵の胸ぐらをつかんだまま睨みつけて、押し殺したような声で「嫁に貰うのは、このオレだ…」と言いました。良庵は万二郎を睨みかえすと「坊主になれるのか…」と言い返しました。万二郎も「お前はどうなんだ…」と言い返しました。すると良庵が真顔になって「成ってもいいかな…」と、履き捨てるように言いました。万二郎は、握っていた良庵の胸ぐらを押し掃うと「ああ、そうか…だから大阪に行きたくないなんて言い出したんだな……良仙先生に聞いたぞ…」と言いました。良庵は、図星だったので、万二郎の顔を見る事が出来ずに「別に行きたくない訳じゃない…心配なんだよ…オレがいない間に、おせきさんに悪い虫がつかないか…あんたみたいななあ…」と言います。万二郎は怒って、また良庵の胸ぐらをつかみ「バカ野郎!…」と言うと、押し倒しました。そして「一人前の医者になると言ったのは誰だ!…」と怒鳴りつけました。良庵は、起き上がると「やりやがったな…」と言います。万二郎は「やるか…」と言うと、腰の脇差を抜き取り「相撲で勝負だ…」と言って、良庵を睨みつけ、脇差を畳の上に起きました。万二郎は良庵に「根性を叩きなおしてやる…」と言うと、相撲のそんきょの姿勢を取りました。良庵は、酒の乗った膳をかたずけると「甘く見るなよ…」と言って立ち上がり「オレは相撲じゃ負けた事がないんだ…」と言って、万二郎の前でそんきょの姿勢を取って「ウォー!…」と叫びました。万二郎も負けずに叫ぶと立ち会いが成立し、相撲を取り始めました。二人は四つに組、投げ合いや足を掛け合いました。実力が均衡しているのか、なかなか勝負がつかずに、最後は同体で二人とも倒れました。二人は「ハーハー…」と息を履きながら、畳に寝たまま天井を見ていました。万二郎は「お前は道が見えているんだ…突き進め……安心しろ…オレは、抜け駆けはしない…」と言います。良庵は、拗ねた声で「どういう意味だよ…」と聞き返しました。万二郎は「お前が大阪から帰って来るまで、おせき殿には一切手を出さない…悪い虫がつきそうになったら…オレが守る…」と言いました。良庵は、起き上がると「心配事は、もう一つあるんだ…」と言います。万二郎も起き上がって「何だ…」と聞きました。良庵は、少し考えて「親父だよ…種痘所を作らせまいと、奥医師どもが何を仕掛けて来るのか…気が気でならないんだ…」と言いました。万二郎は「負かしとけ…良仙先生もオレが守る…」と言いました。良庵は万二郎の顔をじっと見つめていました。








ここで良庵の声でナレーションが入ります。「その言葉に、嘘偽りは一切感じられなかった…この男が守ると言ったからには、命を掛けても守るに違いない…万二郎とは、そういう男だった…」と…



楠音次郎と丑久保陶兵衛は、居酒屋で酒を飲んでいました。

音次郎が「決行の日が決まった…十月二日、蘭方医どもが集まる…」と言います。その時、店の女が「お待たせいたしました…」と言って酒を持って来ました。音次郎は女に「何か上手いものを持ってこい…」と言います。



ついに良庵が大阪に発つ日が来ました。おせきは、良庵に守り袋を渡すと「どうぞ道中御無事で…」と言いました。良庵は、守り袋を見ながら「かたじけない…」と言います。そして、おせきの顔を見ながら真剣な表情で「おせきさん、身は大阪におろうと、心はおせきさんのそばにおります…待っていて欲しい…立派な医者になって戻って来ます…その暁には…」と話していると、花街の女の声で「先生…」と言う声が聞こえて来ました。良庵とおせきは、声の聞こえる方向を見ました。



良庵は、突然の花街の女達の見送りに、顔が固まり、その場から逃げ出しました。良庵は、良仙とお中の間を通り抜けて、路地の奥に隠れようとしました。しかし、花街の女は良庵を見つけると「若先生…」と言って、良庵の襟をつかみます。良庵は、花街の女に困った表情で「バッバカ!…見送りに何か、来なくてもいいと言っただろう…」と言います。花街の女は、色っぽい声で「だって、当分会えなくなるじゃないの…」と言うと、手を良庵の首に当てて、良庵の顔を自分の方に向けさせました。すると、後ろの方から口々に「若先生…」と言う、花街の女達の声が聞こえて来ました。女達は、次々に良庵の元へ駆け寄って来ました。おせきは、その様子を茫然とした様子で見ていました。その時、良仙が懐から手ぬぐいを出して、頭からかぶり始めました。女達の中に馴染みがいるようで、顔を見られたくない様子でした。


良庵は、女達を見ると「また来やがった…」とぼやきます。女達は良庵を捉まえると「若先生…寂しくなるは…」と言い寄ります。良庵は、おせきに見られていることを心配して「おせきさん…違うんだよこいつらは…」と、言い繕おうとしますが、女達は「何が違うのさあ…良庵先生…」と言います。おせきの表情が、見る見るうちに冷たい表情へと変わって行きました。そんな様子を見ていたお中の表情も次第に曇って行きました。

その時、女達の中の一人が振り向いて、手ぬぐいでほっ被りをしている良仙の元へ歩み寄ると笑顔で「大先生…お久しぶり」と言います。良仙は、お中にばれるのが恐くて、手で離れるように合図をするのですが、お中に確り見られていました。お中は良仙に「親子で下屋の芸者そう馴染みなんて…」と言うと、歩み寄って良仙のほっ被りした手ぬぐいを取り払いながら「せわないね…」と、笑みを作って言いました。良仙は顔をひきつらせながら下を向いていました。


女達の集中砲火にたまりかねた良庵は「じゃ、オレは行くよ…」と言うと、女達を払いのけて歩きだしました。良庵は、良仙とお中の前で立ち止まると、深く一礼をしておせきの前に歩み寄りました。おせきにも深く一礼すると、笑みを浮かべて守り袋を握りしめ、黙って歩いて行きました。


良庵は、三百坂の前まで来ると「はあ…」と溜息をつきました。その時「はや駆…」と言う号令が聞こえて来ました。常陸府中藩の若侍達が、いつものように走り出していました。もちろん先頭を走っているのは万二郎でした。万二郎は、良庵を見つけると目礼をして走って行きました。良庵も確りと万二郎を見つめていました。良庵は、若侍達が走り抜けると、反対の方向へ歩いて行きました。







第二回 恋の鞘当ては、ここで終わりました。







大阪の適塾について、少し書いておこうと思います。

適塾は、蘭学者で医学者の緒方洪庵が作った私塾です。江戸時代の学校と言えば、江戸幕府の昌平坂学問所や、各藩に藩校が公の学校としてありましたが、そのほとんどが儒学を教えるところでした。(江戸時代、学問と言えば儒学で、武士階級以上では儒学の素養がなければ相手にされませんでした。よって、中国語を話せなくても読み書きは出来る武士がほとんどでした。高杉晋作などは、上海に密航した時など、現地の人と筆談で意志の疎通を交わしたそうです。)

幕末になると、昌平坂学問所でも蘭学(西洋の学問)を勉強する事が出来るようになったのですが、それでも偉大な蘭学者達の私塾の方が先進的でした。特に緒方洪庵が作った適塾は有名でした。緒方洪庵と言えば、天然痘の治療に貢献した我国の医学史に残る大学者ですが、適塾は医学者だけでなく、数多くの政治家や思想家等も輩出しています。司馬遼太郎の「花神」の主人公として有名な大村益次郎(軍事専門家・医師)や、一万円札の福沢諭吉(慶応義塾大学創立者)や、安政の大獄で処刑された橋本佐内など、幕末から明治にかけて活躍した人々を綺羅星のように輩出しています。適塾では、ズーフハルマというオランダ語の辞書を徹底的に勉強させて、オランダ語から西洋の学問を勉強させたようです。最初は医師だった大村益次郎も、いつの間にか軍事専門家になってしまいました。緒方洪庵の教育者としての偉大さが分かるような気がします。

手塚治虫氏の御先祖様、手塚良庵もこうした面々の一人です。この先、陽だまりの樹でどのように描かれるのかが楽しみです。





最後に、陽だまりの樹から一つだけ書きます。良庵と万二郎が相撲を取っていましたが、やはり相撲は国技なんだなと思いました。武士で武道家で武骨な万二郎と、医者で女ったらしで軟弱な良庵が、相撲で勝負をして、五分の同体になるなんて…

江戸時代、刀を腰に差せるのは、武士階級以上又は、それに準ずる苗字帯刀を許された人だけでした。幕末のどさくさで町人が剣術などの武道を修練した人もいますが、公に認められた物ではありませんでした。町人の格闘技と言えば相撲しかなかったのです。相撲は神事から始まったものだからかもしれませんが、武士も町人も同じ土俵の上で闘えたわけです…

大相撲の世界では、裸一貫から出世すると言う言葉があるようですが、強くなれば大名お抱えの力士にもなれました。力士は、十両(江戸時代は十枚目…幕下上位十枚目のこと)になれば関取と呼ばれ一人前となります。幕内に上がり、三役、大関、横綱と出世すれば、それは大変名誉なことです。草相撲とはいえ、万二郎と良庵が、男の意地を相撲で付けるという考え方も分かるような気がしました。




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