2012年3月29日木曜日

原発事故問題と『フロイス日本史』


原発事故問題と『フロイス日本史』



 読売新聞(2012328日 水曜日 朝刊)の文化欄に面白い記事を見つけました。まずはお読みください。



磯田道史の古今をちこち



罪作りなフロイス



 ルイス・フロイスも罪作りなことをしたものである。戦国時代の宣教師。信長・秀吉とも面識があり『フロイス日本史』を書いたが、天正1311月(15861月)の天正地震に関して、妙な地名を記したことから、現代人が大わらわになっている。

 彼は天正地震についてこう書いた。「関白殿(秀吉)が信長に仕えていた頃に居住していた長浜という城」の城下で「大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が呑込(のみこ)まれ」た。「若狭の国(福井県)には海に沿って、やはり長浜と称する別の大きい町があった」「揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき(うな)りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった」

 地震が起きた時、フロイスは島原半島(長崎県)の先っぽにいた。遠くの出来事を正確に書けなかったのかもしれない。若狭国に「長浜」という町はない。東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』(198194年)は津波がきたという長浜は「高浜の誤りであろうか」とした。高浜には原発がある。高浜でなく小浜だったとしても大変だ。なにしろあの一帯は原発銀座。原発に大津波が来るという話だ。穏やかでない。電力会社は原子力安全・保安院に説明せざるを得なくなった。発電所を動かすのにも古典教養が要る時代になったらしく電力会社は琵琶湖沿岸の長浜に津波がきたという古文書を探し出し、フロイスのいう津波は滋賀県の長浜のことである可能性をにおわせる報告書を提出した。

 しかし原発の安全性を危惧する人たちは納得しない。京都の公家・吉田兼見(よしだかねみ)の日記に「丹後・若州・越州浦辺(丹後半島から福井県沿岸)、波を打ち上げ在家(ことごと)く押し流し、人死に数知れず」とあるではないかというのだ。

 さて原発を動かすにしろ止めるにしろ正確な情報が必要だ。私は日本中の古文書を沢山みている。何かの参考になるかも知れないから書いておく。

 私の見解をいおう。若狭に津波がきたかの議論は、実は17世紀のパリで一度結論が出されている。クラッセという宣教師の著述をもとに『日本教会史(日本西教史)』(1689年刊行)を編んだ。フロイスの地震記事を検証し加筆修正している。「千戸の人家ある長浜では人家の半を転覆、半は出火の為に焼滅しけり」「若狭の国内貿易の為に(しばしば)交通する海境に小市街あり。此処(ここ)は数日の間烈しく震動し、之に継ぐに海嘯(かいしょう)(津波)を以てし、激浪の為に地上の人家は皆な一掃して海中に流入し、(あたか)も元来無人の境の如く全市を乾浄したり」。若狭の港町に津波がきたと結論している。

 江戸の知識人たちは天正地震が津波を伴ったことを知っていたようだ。俗に秀吉の軍師といわれる竹中半兵衛の子が書いた『(とよ)(かがみ)』に「浦里などはさながら海へゆり入、犬鶏の類までも跡なくなり所々あり」とあり、これを読んでいた。江戸後期の幕臣宮崎(せい)(しん)のメモ『視聴草(みききぐさ)』にもこれが写されている。

 どうも17世紀中頃まで若狭敦賀の人々は津波の恐ろしい記憶を保持していたふしがある。1662年京都で大地震が起きた。そのとき敦賀の町人は「四海波がうちて、ただいま敦賀は底の水屑(みくず)になるぞや」と叫び一目散に逃げた。日本最初の地震ルポルタージュ文学・浅井(あさい)(りょう)()『かなめいし』にある話だ。

(日本史家)



 今まで、地震大国日本では、太平洋沿岸の巨大地震だけが着目され、地震予知の研究対象になってきた。昨年の東北地方の大震災をきっかけにして、日本海側の原発を抱える地域において、日本海側でも巨大津波が起きる可能性があるのではないかと言われ始めていた。

 巨大地震や巨大津波はいつも起きるわけではない。数十年周期・百年周期・数百年周期・千年周期、時空を飛び越えてやってくる。現代の情報社会において、関東大震災や神戸淡路大震災クラスの地震は記録や記憶はすぐに蘇ってくるが、千年に一度の大震災と言われる今度の大震災になると記憶はもちろんのこと記録もなかなか手に入らない。そこで、地震学者が古文書の世界に飛び込まなければならないという話なのである。

 日本海側で巨大津波が押し寄せる地震はあったのか、なかったのか…日本海側で原発を抱える地域の人は誰でも知りたいはずである。本来は原発を建設する前に調べて置くべき事なのであるが、電力会社は原発を造らんがための調査しかしてこなかった。電力会社は電力開発を自社の採算だけでしか捉えずに、安易に巨大地震があるわけがない、あっても現代の建築技術は完璧で原発事故にはつながらないと高をくくっていたのである。しかし、今度の東北大震災で原発事故は起きてしまった。心の緩みがそうさせたのか、もともと技術が達していなかったのかはわからないが…

 そこで歴史の巨人フロイスの記録が、時空を乗り越えて蘇って来たのである。長浜という地名が間違いであったのか、それとも琵琶湖で津波があったときに、日本海側の高浜でも巨大地震の影響で津波が起きたのかはわからないが、フロイスの書いた記録がデタラメのはずはない。また、著者は17世紀のパリで、クラッセという宣教師によって、フロイスの記録が加筆修正されているとも記している。また、日本国内においても、それなりの地位を持つ固有名詞を出して、巨大津波の存在を証明する古文書を紹介している。こうなると、日本海側にある原発の稼働問題にも複雑な影響をもたらすことに間違いないと思う。安全基準の再考は、間違いなく行われるべきである。

 ところで私は、この記事を読んで気付いたことがある。今度の大震災に置いて、原発事故の処理問題や救助活動や避難活動をするにあたって、計画の立案や指揮命令の記録が一切なされていなかったことは、管政権による歴史に対する犯罪行為に等しいものではなかったかと…この情報社会において、取るべき記録も取らずに、後世への正確な伝達をすることが出来なかったとは、実に情けないことである。万死に値する者であると思う。
by Kei

2012年3月26日月曜日

百済文化と古代日本と韓流時代劇


百済文化と古代日本と韓流時代劇



 読売新聞(2012324日 土曜日)の文化欄に次のような記事が掲載されていました。



シンポ「百済文化と古代日本」

「日本書紀」に基づき韓国研究者が報告


韓国の金銅半跏思惟像のスライドを前に討議する研究者
 古代朝鮮の百済と日本(倭)の文化交流をさぐるシンポジューム「百済文化と古代日本」が、福岡県太宰府市の九州国立博物館で開かれ、韓国の研究者3人が最新の研究成果を報告した。

 『日本書紀』によれば、日本は仏教をはじめ儒教、暦法といった先進文化を百済から輸入する一方、高句麗や新羅の圧迫を受ける百済への軍事支援を重ねた。韓国国立中央博物館の李炳(イビョン)()学芸研究官は、定林寺跡、王興寺跡など6世紀代の百済寺院跡の発掘調査成果を紹介、日本の飛鳥寺や四天王寺と、伽藍配置や瓦のタイプが類似していることを指摘した。

 同博物館の閔丙贊(ミンビョンチャン)展示課長は、同館蔵の金銅半跏思(はんかし)()像と、京都・広隆寺の木造半跏思惟像が酷似していることから、朝鮮半島から渡来した可能性を示唆した。

 国立全州博物館の金鍾萬(キムチョンマン)学芸研究室長は、丹芝里(タンジリ)古墳群など錦江流域に分布する5世紀後半の横穴墓群について、副葬品に日本系の須恵器があることを指摘、479年に日本から帰国した末多王(東城王)の護衛として、「筑紫国軍士五百人」が渡海したとある雄略紀の記事を挙げ、「これらの横穴墓は彼らの墓ではないか」とした。

 かつて韓国では史書として扱われなかった『日本書紀』に基づく議論が行われたのは、近年著しい日韓の研究者交流の成果というべきだろう。九博では将来、百済文化をテーマにした特別展も計画している。

(池田和正)





 記事にも書いてありますが、かつて韓国は『日本書紀』を史書として認めていませんでした。これは、日本によって植民地にされたことや、韓国人のプライドの高さが原因で、歴史を政治に利用したことは否めません。私の学生時代には、朝鮮半島には高句麗・百済・新羅・任那の四つの国があったと習ったのですが、いつの間にか任那が教科書から消えてしまい、伽耶という地名が浮かび上がった時代もありました。そこで、私は専門家ではないので、ちょっと違った観点から気付いたことを書いてみたいと思います。

 最近韓流ブームで、私はよく韓流時代劇を見るのですが、ソドンヨというドラマがあります。ソドンヨとは、新羅に伝わる詩歌「薯童謠」にまつわる薯童<ソドン>と善花<ソンファ>の伝説をモチーフにして、三国時代の百済を舞台に描いた物語です。韓国の時代劇は歴史に忠実ではないとよく聞きますので、当てにはならないかもしれませんが、その時代の雰囲気はわかったような気がします。

 この物語の中で、百済の政変によって、百済の皇太子が倭国に預けられたり、皇太子が政変に勝ち残るために、倭国の太子(聖徳太子)の協力を得ようとする台詞が出てきたりします。私は時代が変わったなという印象を受けました。以前なら徹底的に日本を悪者にしなければ気が済まなかった韓国ですが、台詞だけとはいえ、味方として登場させていました。また、このドラマを見て、百済という国は科学技術や文化を大切にする国として描かれていました。鉄器や仏像などの鋳造、紙や稲作のための土木工事など軍事力というよりは、科学技術で国を支えているようにえがかれていました。

 また、時代は少し下るのですが、三韓統一した後の新羅を舞台にした『海神』というドラマでは、奴隷として唐に売られた主人公が、苦労に苦労を重ねて商人となり、新羅に戻ってきて、倭国と新羅の新海路見つけて、倭国・新羅・唐との間の中継貿易をする話なのですが、ここでも台詞だけとはいえ、倭国を肯定的に描いています。そして、中継貿易を盛んにするために海賊討伐をするのですが、韓国で海賊といえば倭寇がお決まりのコースなのですが、ここでは新羅の商人が海賊として描かれていました。

 日本では今、民放のBS局が増えたり、CS放送やパソコンの無料動画サイトが出来たりして、番組が不足しているのか、韓流ブームに乗って韓国から沢山のドラマが輸入されているので、日本人に鑑賞可能なドラマを制作している向きもあるのでしょうが、当然韓国国内でも放送されているわけですから、面白い現象が知らず知らずに行われているのかもしれません。

 また、高句麗末期を描いた『ヨンゲソム』というドラマでは、盛んに天孫という単語が出てきます。神話のようですが、私は日本の天孫降臨を連想して仕方ありませんでした。また、高句麗と百済は同族だが、新羅は別の民族だという台詞もありました。

 こうして見ると、この時代が現代にも負けないグローバルな時代だった事がよく分かります。韓国にはこの時代の史書があまり無いようにも聞いています。この時代の歴史を解明するためにも中国の史書や日本書紀を使って韓国の研究者が研究することはいいことだと思います。そして、学問を政治の道具にしないためにも、今の韓流ブームが役立っているような気がします。

2012年3月24日土曜日

『あんぽん』孫正義伝を読みました


『あんぽん』孫正義伝を読みました

(著者 佐野眞一 小学館)



この本の帯の紹介文にはこう書いてあります。

 『いまから一世紀前。

 韓国・大邱で食い詰め、命からがら難破船で対馬海峡を渡った一族は、筑豊炭田の“地の底”から始まる日本のエネルギー産業盛衰の激流に飲み込まれ、豚の糞尿と密造酒の臭いが充満する佐賀・鳥栖駅前の朝鮮部落に、一人の異端児を産み落とした。

 孫家三代海峡物語、ここに完結』と……

 私はこの本を一読して、「よくもまあ、こんな本が出版できたものだ!」と驚きました。あまりにも赤裸々過ぎて……恥も外聞もあったものではないと思いました。そして、この本の出版を許した、孫さんの器の大きさと、心の奥底にひそむ別の狙いがあるのではないかと感じました。それにしても、孫さんが著者をよほど信用していなければ、この本は出版されなかっただろうと思いました。



 まず、第一章の冒頭には、次のように書かれています。

 孫正義は19909月に日本に帰化した。帰化前の名前は、安本正義だった。

 中学時代、孫は旧姓の安本をそのまま音読みして、「あんぽん」と言われることをひどく嫌がっていた。それは、「あんぽん」の語感が、「あんぽんたん」という侮蔑語につながるからだけではない。「あんぽん」という韓国風の発音が、自分の出自を隠して生きて来た孫の自尊心を深く傷つけたからである。

 孫は日本に帰化して、日本の通名の「安本」から韓国姓の「孫」に変えた理由を、『DIAMOND ハーバード・ビジネス』(19925月号)の「生い立ちの記」の中で明かしている。以下はその要旨である。

 ……日本では以前、多くの韓国人がひどい差別を受けていた。在日韓国人のうちの99パーセントが本名の韓国姓ではなく、日本人の姓を名乗っている限り、たいていの日本人は韓国人だということに気づかない。

 しかし、いったん韓国人だとわかると、あらゆる種類の差別を受ける。私が韓国人だということを努めて隠していたのは、そのためである。けれど、日本人の姓を使っていると、何となく隠し事をしているような気がして、いつも心の中に暗いものがひっかかていた。

 友達といるときは楽しく騒いでいたが、家に帰って一人になると、お友達に隠し事をしているような気がしてならなかった。

 私は16歳でアメリカの高校に留学した。そのときから私は「孫」という韓国姓を名乗るようになった。アメリカでの六年半の生活体験は、日本にいたときよりずっと自由にものを考えさせてくれる余裕と、「孫」という韓国姓に改姓する勇気を与えてくれた……と



 孫さんの家系は、父方母方ともに両班(リャンバン)(朝鮮の貴族階級)の出身のようですが、没落しても両班の気概と誇りを忘れなかった孫一族の凄さや、父三憲さんから英才教育を受けた孫さんの商才の凄さもさることながら、この本の中核は、在日韓国朝鮮人に対する差別に耐えて、いかにして這い上がろうとしたかにあると思います。安本正義ではなく孫正義として日本国籍を取り、在日韓国朝鮮人の道標となるために、韓国系日本人として誇り高く生きようとしているところにあると思います。



 著者は、孫さんの子ども時代の生活環境を次のように書いています。

取材を進めるうち、かつてその朝鮮部落に住んでいたという在日朝鮮人(現在は別の場所で運送店を経営)の話を聞くことができた。

 「まあ、とんでもないところでしたよ。バラックというか、掘立小屋ですな。粗末な家が軒先を連ねるように並んでいてね。全盛期には数十戸、人数にして三百人くらいの朝鮮人が住んでいましたよ。

 みんな貧しかったから、SLの時代は汽車の音がうるさいだけじゃなく、煤煙が家の中まで入り込んで、壁まで真っ黒になった。とにかく上空まで煤煙で真っ黒になって、“鳥栖の雀は黒雀”と言われたほどです」…



かつて朝鮮部落に住んでいた在日朝鮮人運送店主の話をつづける。

 「差別?それはされました。朝鮮部落の掘立小屋に石を投げられることなんて、当たり前でしたね。地元の子供たちから『朝鮮人、朝鮮人』って、囃したてられることもしょっちゅうだった。

 私の娘も『汚い家に住んでいる』とか『近寄るな』とか、さんざんいじめられました。昔は朝鮮人っていうだけで、就職もできなかった。だから密造酒をつくってでも家族を食わせなければならなかったんです」

 同じ朝鮮部落出身の孫正義も、「鳥栖の幼稚園時代は頭に石をぶつけられたことがある。それ以来、自分の出自を隠すようになった」と過去の取材で語っている。

 「孫正義さんは立派ですよ。こんな環境の中から、世界有数の富豪になったんですからね。まあ、おじいちゃん、おばあちゃん、そしてお父さんもえらかったんでしょうな。あの家はみんな働き者だったし、なによりも、一家そろって頭がよかった。だから早い時期に、朝鮮部落から出ていくこともできた」……



 店の主人に……孫正義について何か知らないかと水を向けてみた。なんと、驚いたことに、店の主人は孫正義の従兄弟だった。詳しく言えば、店主の母親は旧姓安本清子といい、孫の父親の三憲の姉にあたる。

 「焼肉仁」経営者の大竹仁鉄は、突然の訪問にもかかわらず、快く取材に応じてくれた。

 「私は今年還暦を迎えましたから、正義よりも六歳ばかり上です。ええ、私も駅前の朝鮮部落に住んでいました。あそこは、孫の一族、四家族が集まって住んでいた。みんな豚を飼っていてね。それで生活していたんです。

 思い出すのは、朝鮮部落の脇に流れていたドブ川です。そのドブ川が、大雨が降るとあふれ出すんですよ。ええ、洪水です。あっという間に部落全体が水没してしまう。その中に豚がぷかぷか浮かんだりしてね。ついでに豚のウンコまで浮かびあがる。

 それが井戸の中に流れ込む。水道なんてありませんでしたからね。そんなことがあると、しばらくの間、井戸の水が臭いのなんのって、豚のウンコの臭いがするんだから。その水を飲んだり、煮炊きに使ったりしたんだから、よく腹を壊さなかったもんだよ。

 大金持ちになった正義が、いまどんな水を飲んでいるかは知らんが、あいつだって、ウンコ臭い水を飲んで育ったんだ」

 この話を聞いたとき、映画「にあんちゃん」のワンシーンを思い出した。朝鮮人炭坑夫家族が暮らす炭住の共同炊事場にやってきた保健婦が、こんな注意をする場面である。

 「まったく、なんて不衛生なんでしょう。ここじゃ、ウンチと米を同じ水で洗っているんですからね」……



 大竹によれば、孫正義は朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる掘立小屋の中で、膝まで水につかりながら、必死で勉強していたという。

 並みの根性でできることではない。この根性が、叩かれても叩かれてもへこたれない孫正義の強さの秘密である。と同時に、そのど根性は、人を辟易させる理由ともなっている。

 辟易させるといえばきれいな言い方だが、もっとストレートに表現すれば、それが孫正義という男をうさんくさい人物に見せる大きな理由になっている。

 孫一族がやっていた養豚や密造酒づくりが、孫正義にうさんくさいイメージを植えつけているわけではない。生きるためにはそうするしかなかった仕事を笑う権利は誰にもない。

 さらに言うなら、孫一家がそうした闇商売に携っていた時期は、ごく短い。彼らはすぐに別のビジネスに転身していった。そこで驚くべきスピードで築きあげた富が、孫正義をブレークスルーさせる最初の原資蓄積過程だった。

 これまでほとんど明かされてこなかったその過程にこそ、孫正義にまとわりつくうさんくささの源泉がある……



 孫正義の従兄弟の大竹仁鉄が語る、正義の幼少期の話し以上に興味深かったのは、父親の三憲の話だった。

 「孫正義の父親?ああ、三憲さんね。頭のいい商売人でしたね。顔はいまの正義そっくりですよ。養豚や密造酒でせっせと小金をためていました。

 そう言えば、税務署の役人に密造酒の件でしょっちゅう摘発されていましたよ。役人が来ると、一家総出で床下に密造酒を隠すんだけど、たいがい見つかっていたなあ。その度に始末書を書かされる。でも、またすぐに同じことを始めるんだ(笑)」

 三憲が、密造酒づくりを税務署に何度摘発されても、懲りずに密造酒をつくっていたことは、マッカリの原料の小麦粉を孫家に納めていた製粉所の社長も認めている。

 「三憲さんは税務署の手入れがあっても、あっけらかんとしたものでした。当時、三憲さんはオート三輪に乗っていましてね。運転席の後ろに木の箱をつくって、そこに密造の焼酎を隠していた。そしてその後ろの荷台に豚をのせていた。それがとても臭いんです。手入れを逃れる目的だったと思いますよ。警察も税務署も、そんな臭いオート三輪にさわりたくありませんからね(笑)」



 地元関係者の話をつづける。

 「孫さんのおばあさんは、とにかくよく働く方で、養豚から焼酎の仕事までまかされていました。小口の金融も、何でもこのお母さんから始められたようですよ」

 朝鮮部落の住人にキムチづくりのための白菜を売っていた老舗の八百屋のおかみさんの話では、孫の祖母が始めた小口金融の主な相手は、当時、鳥栖駅前にあった飲み屋街で働く水商売の女性たちだったという。

 「孫さんのおばあさんの言葉は完全な朝鮮訛りでしたね。家の前にゼンマイも干していましたが、へえ、朝鮮の人はあんな粗末なものまで食べるんだとしか思いませんでした。

 『テールスープをつくるったい』と言われたこともありました。でも、当時はなんのことかわかりませんでした。聞いたら『しっぽたい』と言われたので、よけい驚きました」

 孫の叔母夫婦に家を貸していた地元の主婦も、孫一家からよくホルモンの貰い物をした。

 「でも、毛が生えた内臓みたいなものを貰っても、私たち日本人にはとても食べられませんでした。密造酒もつくっていました。警察に見つかると没収されてしまうので、密造した焼酎を氷枕の中に入れ、それを体に巻きつけて博多まで売りに行っていました」……



 李元照さんの遺言は「金を貸すときには親戚でも利息を取るように」だったと聞いたこともあります。



 孫さんの子ども時代の生活環境は、どれも凄まじい話ばかりです。その根底には在日韓国朝鮮人への差別問題が大きくのしかかっていました。文化の違いによる偏見もあったように思います。今でこそホルモンやキムチは有名ですが、この当時の日本人は殆ど食べていなかったと思いますし、にんにくなどは滋養強壮薬と思われていた時代ですから、ゲテモノを食べる得体のしれない人たちと思われても仕方がなかったのかもしれません。

 私は、孫さんとほぼ同年代で、鳥栖市の隣町の久留米市で生まれ育ったのですが、幸か不幸か、差別したこともされたことなく育ちました。だから、在日の方たちがこの様な劣悪な環境で生活されていることなど知りませんでした。ただ、在日の方たちが差別されているということだけは、父から聞いて知っていました。

 父はよく言っていました。「差別したらいかんよ…あの人たちも生きていかにゃいかんけんね…就職もちゃんとしたところには出来んし…あの人たちも大変よ…」と…



 著者が孫さんの父三憲さんにこんな質問をしています。

 ……それから間もなく日本は戦争に負けますね。日本が戦争に負けて悲しかったですか。

 「全然悲しくなかったですね」

 ……それじゃ、これで朝鮮半島が解放されるから、うれしかったんですか。

 「うれしいとも感じなかったですね。僕はやっぱり、こっちで生まれていますからね。向こうにはまだ一度も行ったことがなかったし」

 日本が戦争に負けて悲しくもうれしくもなかった。これが、在日二世が日本敗戦に際して感じた案外、一番正直な気持ちだったのかもしれない。

 自分が朝鮮人だと意識したのは、いくつくらいのときですか。

 「親父とおふくろは、日本語は片言で、ほとんど韓国語でしゃべるわけですよ。だから自然にわかるわけです」

 ……差別はされましたか。

 「戦争中はなかったけど、日本が負けてから差別されるようになりましたね。基里中学の上級生が、五、六人で組んでいじめるんです」

 ……クラスには何人ぐらい朝鮮人がいたんですか?

 「私ひとりだったですね」

 ……ひとり?

 「戦前は日本に二百何十万人の朝鮮人が来とったでしょう。それが戦争が終わると、ほとんど帰って、二、三十万人しか残らなかった。その残っている朝鮮人は、落ちこぼればっかり。日本にカスばっかり残っとるんですよ(笑)。サラ金をやりよったときも、日本人はきちんと返すのに、朝鮮人はだいたい、一回目の利息は返しても、あとは返さんのですよ」

 ここまで朝鮮人の悪口をはっきり言う在日韓国人にはあった事がない。三憲の激しい言葉は、自分はそんな“カス”みたいな在日朝鮮人とは違うぞという強い意思表示のように聞こえた。



 これらの話は、在日問題の複雑さを物語っているような気がします。在日差別は「戦争中はなかったけど、日本が負けてから差別されるようになりましたね。」とありますが、戦争に負けて、アメリカに対するスケープゴートのように朝鮮人への差別が強まったのかもしれません。あるいは、終戦のどさくさから韓国との外交が決して上手くいっていたとは言えませんし、李承晩ラインを引かれたり、竹島問題が持ち上がったりで、日本人の感情が、在日朝鮮人に爆発したのかもしれません。ただ、落ちぶれたとはいえ、孫家には両班の誇りが垣間見えているようです。



 また、こんなエピソードも書かれています。

 ……正義さんも行っていましたが、お父さんは両班の血筋を引く孫家のプライドがすごく高くて、三憲さんが金稼ぎをしてくると、ものも言わずに下駄でぶん殴ったそうですね。

 「そうです。ずいぶんやられちゃいました。ただ、親父は偉いところもあったんです。僕が数えで十七で、酒売りをしよるときに、あんまり商売がうまくいかないもんですから『父ちゃん、マッカーサーが農地解放して、小作人はみな土地をただでもろうとる。父ちゃんはどうして、土地もらわんかったの?』と聞いたら、親父はカンカンになって、『お前はバカか、人んもんとわがもんが違うこともわからんのか』と怒るんです」

 ……どういう意味ですか?

 「自分はよそさんの土地を借りて小作しよったんだから、マッカーサーがいくら決めたって、人のものは返さないかん、人は返さんでも、おれは返すというわけです。そういう面では正直です。だから、貧乏ですよ。僕はおふくろが親父に一回だけ言うたの聞いたことがあるんです。『うちの父ちゃんは気位が高い。何の位か知っとか?くそくらえっていう位だ』ってね」……

 ここに書かれている話を読む限りでは、両班の誇りとは、日本の『武士は食わねど高楊枝』という考え方に相通じるものがあるような気がします。ただ、人間は食べなければ生きては行けない……だから三憲さんは、孫さんが子どもの頃から、いつもこう言っていたそうです。

 「……正義、俺の姿は仮の姿だ、俺は家族を養うために仕方なしに商売の道に入ったけれど、おまえは天下国家といった次元でものを考えてほしいってね。だから、僕は小さいときから商売人になろうと思ったことは一瞬もないんですよ。

 商売って要するに、出来るだけ安く買って高く売ることですよね。でも事業家は違います。鉄道や道路、電力会社など天下国家の礎を作るのが、事業家です」と……

 まさに、孫家三代の思いが、孫正義ソフトバンク社長の思いと重なり合って、いま結実しようとしているのではないでしょうか。



 私がこの本の中で、最も心を打たれたのは、孫さんが十二歳(小学六年生)のときに書いた『涙』という詩でした。とても、小学生が書いたとは思われない内容でした。



君は、涙をながしたことが

あるかい。

「あなたは。」

「おまえは。」

涙とは、どんなに、

たいせつなものかわかるかい。

それは、人間としての

感情を、

あらわすたいせつなものだ。

「涙。」

涙なんて、

流したらはずかしいかい。

でも、みんなは、涙をながしたくてながしては、いないよ。

「じゅん白の、しんじゅ。」

それは、人間として、

とうといものなのだ。

「とうとい物なんだよ」

それでも、君は、はずかしいのかい。

「苦しい時」

「かなしい時」

そして、

「くやしい時」

君の涙は、自然と、あふれ出るものだろ。

それでも、君は、はずかしいのかい。

中には、とてもざんこくな、涙もあるのだよ。

それは、

「原ばくに悲劇の苦しみを、あびせられた時の涙」

「黒人差別の、いかりの涙」

「ソンミ村の、大ぎゃくさつ」

世界中の、人々は、今も、そして、未来も、泣きつづけるだろう。

こんなひげきをうったえるためにも、涙はぜったいに欠かせないものだ。

それでも君は、はずかしいのかい。

「涙とは、とうといものだぞ。」



 当時の担任の三上喬先生は、孫さんのことをこう評しています。

 「孫くんの当時の感性がよくわかる詩だと思います。原爆の悲劇、黒人差別、ソンミ村の虚殺まで、小学生ならではの憤りが記されています。1970年という時代の影響かもしれませんが、小学生でここまで考えられる子はそうはいなかったはずです」

 三上は、孫は間違いなくクラスのリーダーだったという。

 「学級委員という肩書だけでなく、ちゃんとリーダーとしての資質を持っていた。子供の社会では、リーダーというのはたいがい敵をつくるものなんですが、孫くんには敵がいなかった。というより、孫くん自信が決して敵をつくらなかった。わけ隔てなく、誰とでも付き合う子だったんです。

 たとえば、ちょっと勉強ができない子がいれば、彼はちゃんと寄り添って面倒をみる。決して見下すようなことはしなかった。といって、堅苦しいだけの子どもではなかった。野球をやらせれば名サードとして活躍したし、みなで遊びに行けば、誰よりもはしゃいでいた。だから彼は“安さん、安さん”と呼ばれて頼りにされ、誰からも好かれていたんです。文字通り、よく学びよく遊ぶという子どもでした」

 「ですから実業家になったのは意外でした。しかし、世の中を変えるのは、政治家だけの仕事じゃない。彼はビジネスを通して世の中を変えたいと思っているのかも知れません」



 私は、この詩を読んで、『原爆の悲劇、黒人差別、ソンミ村の虚殺』という言葉の裏に、在日朝鮮人への差別問題が秘められていると読み取りました。孫少年の悲鳴が聞こえてくるようで堪りませんでした。三上先生は『孫くんには敵がいなかった。というより、孫くん自信が決して敵をつくらなかった。』と仰っていますが、私は敵を作れなかったのではないかと思います。在日という問題を抱えている孫少年にとって、敵の刃が、一瞬にして見方を敵に変えるオセロゲームのように感じていたのではないでしょうか。十二歳の少年にこのような思いをさせる在日朝鮮人差別とは何とむごたらしいものであったか、今更ながら考えさせられました。日本人はもっと、差別されている人の心の痛みを理解すべきだと思いました。





 孫一家は、差別という問題を抱えながらも、養豚と密造酒で稼いだお金を元手に、金融業やパチンコ屋などに手を伸ばし、佐賀でも有数の資産家となって行くのですが、その過程で一家の将来の夢を孫少年に託して行きます。孫少年の教育環境を整えるために、鳥栖市の小学校から北九州市の小学校へと転校させます。そして中学生になるとすぐに、母親と二人で福岡市城南区に移り住み、福岡県内屈指の進学校といわれる福岡市立城南中学校に転校させています。そして猛勉強の末に名門久留米大学付設高校に入学することができたのです。久留米大学付設高校とは、ご存じのように、東大・京大・九大を目指すようなハイレベルの生徒達が行く高校です。

 このことについて著者は、次のように書いています。

鳥栖のかっての朝鮮人部落の近くで八百屋を営むおかみさんは、こう話している。

 「お母さんが正義さんを城南にやるため福岡に引越したのは、孟母(もうぼ)三遷(さんせん)の教え通りにしたからだと聞いてます。正義さんが久留米大付設高校に入ってからは、久留米に下宿していたようですが、お母さんが時々鳥栖の家から車で送っていらっしゃいました」

 中学、高校時代の孫は、豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いが漂う朝鮮部落の貧民窟で育った極貧の少年とはうって変わって、完全に乳母日傘の“おぼっちゃまくん”である。……

 (孟母三遷とは、孟子の母は、はじめ墓場のそばに住んでいたが、孟子が葬式のまねばかりしているので、市場近くに転居した。ところが今度は孟子が商人の駆け引きをまねるので、学校のそばに転居した。すると礼儀作法をまねるようになったので、これこそ教育に最適の場所だとして定住したという故事。教育には環境が大切であるという教え。また、教育熱心な母親のたとえ。三遷の教え。)

 しかし、ここまで苦労して入学した久留米大学付設高校をわずか半年で退学して、アメリカの高校へ留学することになります。父三憲さんの生きるか死ぬかの大病のせいでもあったのですが、ここでも在日差別の問題が大きく影響していたようです。

 著者の質問に、孫さんは次のように答えています。

 ……アメリカに留学したのは、日本の大学を出てもしょうがないという思いもあったからじゃないですか。

 「久留米大付設を卒業して、東大に行って、何か事業を始めようと思ったこともあります。なぜなら、国籍の問題があるので、大企業は雇ってくれない。それならいっそ、日本よりずっと自由なアメリカでビジネスの種を見つけた方が手っ取り早いと思ったんです」

 ……その頃に読んだ司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響も相当あったようですね。

 「ええ、凄く影響を受けました。龍馬も脱藩して江戸に出ましたよね。脱藩っていうのは、お家断絶になるような大きな罪ですよね。僕もアメリカに行ってしまえば、家族が絶滅してしまうかもしれないリスクもあった。だけど、もし僕が兄貴と同じように、目先だけの商売をしたら、とりあえずの危機から脱することはできても、多くの在日韓国人のプライドを取り戻し、天下国家のために役立つ事業がやれなくなる。あくまで夢のまた夢の話ですが、そういう志はあったんです」……と

 わずか十六歳の少年が、ここまで考えなければいけない在日差別の問題とは、実に罪深いものだと思いました。孫家には、三憲さんによって蓄えられた資産があったからこの様なことが許されたのでしょうが、それでも親・兄弟・親類すべてが反対したそうです。それを振り切って孫さんは留学をしたそうです。そして、アメリカという自由の地で、安本正義から孫正義に脱皮したそうです。



 孫さんは六年半のアメリカ留学を終えて、ビジネスの種を日本に持ち替えて来たのですが、まだ海の物とも山の物ともわからない在日の若造に、一億円の債務保証をした人物がいました。その人は、元シャープ副社長の佐々木正氏でした。

 著者の質問に、佐々木氏は次のように答えています。

 ……孫正義ってどんな人間ですか?

 佐々木は間髪いれずに答えた。

 「ありゃ、宇宙人だ」

 ……宇宙人?

 「いや、正確に言えば、宇宙人になりたがっている。実際はまだ、人間と宇宙人の間くらいかな」

 ……孫さんに初めて会ったのはいつ頃ですか。

 「1977年頃だったと思う。当時、シャープの技術者だった私は、アメリカのシリコンバレーでLSI研究の現場を見て回っていた。孫くんとはそのとき出会った」

 孫と佐々木は日本で会ったとばかり思っていたが、初対面がアメリカというのは意外だった。二人が初めて会ったのは、孫がカリフォルニア大バークレー校経済学部の三年に編入した年である。

 「孫くんは当時、バークレーでコンピュータ研究のサークルに入っており、彼もまた、シリコンバレーを回っていたんです」

 ……そのとき、彼の方から挨拶されたんですね。どんな印象の青年でしたか。

 「まあ、普通の好青年というのが初対面の印象ですよ。礼儀正しいし、言葉遣いも丁寧でした。ただちょっと変わったところがある男だなあ、とも思いましたね。何かの拍子に、彼が突然、大真面目な顔で『宇宙の果てには何があるんでしょうか?そもそも、宇宙の始まりって、どこなんでしょうか?』って聞いてきたんです」

 ……それで、どう答えられたんですか。

 「それは忘れてしまいましたが、そんな質問をする男に会ったのは初めてだったので、孫くんに強い興味を持ったのは事実です。この変わった男のことをもっと知ってみたいと思ったんです」

 佐々木が孫に会って受けた初対面の印象は、孫に会った人間に共通している。孫は確かに、この男をもっと知りたいと思わせる何かを持っている。“じじいキラー”の魅力とでも言ったらいいか。

 「孫くんの目にギラギラした輝きがあったことも、私を引きつけた。野心家というよりも、それこそ宇宙の果てまで見通してやるんだという、そんな好奇心が瞳の中に宿っている。正直に言えば、そこに惚れてしまったのかもしれない」

 孫は最初から何のためらいもなく、自分の出自について包み隠さず明かしたという。

 「在日韓国人であることも、祖父母が九州の鳥栖で豚を飼って生計を立てていたことも打ち明けてくれました。でも、こんなことも言ってました。

 『僕はやっぱり、ちゃんとしたビジネスをやってみたい。親父や親戚と同じ道を歩むことには抵抗がある。だから、もっと勉強するためにアメリカに留学したんです』

 その言葉を聞いて、大きな世界を目指したいという強烈な要求が伝わってきましたね」



 佐々木はそれから間もなく帰国し、奈良県天理市にあるシャープの中央研究所の所長に就任した。孫から突然佐々木に電話があったのは、初対面から約一年後の78年の夏だった。

 「『いま、一時帰国しています。どうしても佐々木さんに会いたい。会って見せたいものがあるんです』って言うんです。確か公衆電話からでした」……

 ……自動翻訳機を風呂敷に包んで、まず大阪・門真の松下電器を訪ねた。ところが、松下では門前払いだった。次に訪ねた三洋電機でも、話も聞かずに追い返されてしまった。

 「そこで最後の頼みの綱として、アメリカで知り合った私に電話してきたというわけです。孫くんはお父さんの三憲さんと一緒にシャープの研究所を訪ねてきましたよ。三憲さんは『よろしくお願いします』と頭を下げるだけで、あとはずっと黙っていました。朴訥そうな人でした」

 佐々木は孫が風呂敷の中から取り出した自動翻訳機を一目見るなり、これは脈があるなと感じた。商品としてはまだ荒削りだが、そこにシャープが持っている電卓の技術などを取り入れれば、立派な商品になる。それが、佐々木の考えだった。佐々木は結局、孫の技術を二千万円で買った。



 ……孫は81年、佐々木の進言を受け入れてソフトバンクの前身の日本ソフトバンクを東京で立ち上げた。

 孫はその起業資金として、第一勧業銀行に一億円の融資を申し込みに行った。ところが、融資はあっさり断られてしまった。ソフトの販売業では担保にできるものが何もない、というのが第一勧銀が融資を断ってきた理由だった。

 孫から佐々木にまた電話があったのは、その直後だった。

 「『佐々木さん、僕は悔しいです。でも、僕は何とかしてビジネスを立ち上げたい。佐々木さん、融資の保証人になってもらうことはできないでしょうか』と言うんです。

 私はすぐにシャープの人事部に内線電話を入れ、私の退職金を計算してもらった。そして自宅の評価額も調べた。その結果、両方合わせれば、なんとか一億円になることがわかった。これなら、万が一焦げついても、何とかなるだろう。

 そんな計算をして、孫くんの保証人になる覚悟を決めたんです。なぜそこまでしたかですか?自分でもよくわかりません(笑)。孫くんに、それだけの魅力があったとしか言いようがない。彼に賭けてみよう。孫くんには、人をそんな気持ちにさせてしまうところがあるんです」

 債務保証を頼む方も頼む方ですが、それを引き受ける方も引き受ける方だと思います。アメリカ留学から帰国したばかりの在日の若造のために、一億円の債務保証をすることなど到底考えられる事ではありません。私のような常人にとっては、尋常ならざる行為だったと思います。しかし孫さんは、これを足掛かりにして、ソフトバンクをソフトの販売会社として成功させ、インターネット通信事業へと大展開させて行きました。佐々木氏の先見の明というか、人を見る目の確かさと度胸の良さは、常人には真似のできないことでした。こうして、現在のソフトバンク社長、孫正義へとつながって行きました。





 著者は、孫さんが日本をいかに愛しているかということについて、次のように書いています。



 あなたは日本に帰化してよかったと言っているが、子どもの頃、自分を差別した日本が本当に好きなのか、本音で言えばすごく嫌いじゃないか。

 意地悪だと思ったが、これも孫にあったら、是非聞きたかった質問だった。

 201011月に行った最初のインタビューで、孫は大晦日になったらこたつでミカンを向きながら紅白歌合戦を見たい、餅を食いたい、それで初めてお正月を迎えたような気になると、言っている。

 ……孫さんは何でそんなに日本が好きなんですか。

 「僕は生まれたのも日本だし、育ったのも日本ですからね。一番しっくりくるのは、やっぱり日本語であり、日本文化であり、日本の食生活なんですよ。僕はきなこ餅が好きなんです(笑)」



 ……まさに多国籍型マルチ人間ですね。でも、子どもの頃は、孫さんが一番しっくりくるというその日本民族から差別されたわけでしょ。

 「差別はされました。でもそれはいつの時代でも、なにがしかはあったことですよ。日本の中にだって、本の百五十年前までは、士農工商っていう身分制度が社会構造の中に明確にあったじゃないですか。僕はやっぱり、生まれ育った国を愛し、その生まれ育った国に少しでも恩返ししたい、貢献したい。それが掛け値なしの純粋な気持ちです。



 ヤフーBBADSL設計を担当していた元社員の平宮康広氏は次のように言っています。

 当時(2001年)のソフトバンクは、ブロードバンド事業として沖縄から小笠原までを網羅するブロードバンド網を張りめぐらせようとしていた。これは「光の道」構想の前哨戦ともいうべき戦略だった。

 「その頃の孫さんは『とにかくお国のためにやるんだ』ということばかり言っていました。通信料を下げなければ、世界一高い通信料で日本は後進国になってしまう、という意識があったのでしょう。

 当時は、それだけNTTが独占的に通信回線を持っていて、それを開放する気などまったくなかったんです。これは僕の失言ですが、あるとき、こう言ってしまったんです。

 『国のため、国のためって言うけど、あんたは在日じゃないか?』

 すると孫さんは『俺は日本人だ』と言って、こう反論したんです。

 『このままでは、日本は世界から取り残される。だから、これは日本のためなんだ。お前は国のための事業だと思わんのか?』

 孫さんは、強烈な愛国者なんです。社長室には神棚もあります」

 こうした一連の動きに見られる孫の旺盛な事業欲は、「動機、善なり」という稲盛の教えを孫なりに実践した“愛国心”ゆえなのか、それとも、第二電電にアダプターを売り込みに行ったときと同様、競合他社を参入させない“独占欲”ゆえなのか。

 両方の答えとも、おそらく正解である。そのわけは、“大欲”は、時として“無欲”によく似ているからである。

 これを読んで、私が思ったことは、そろそろ日本人も『韓国系日本人を認めるべき』ということでした。政治経済的に日本を愛し支持するのであれば、たとえ文化的には韓国文化を継承されていても認めるべきだと思います。まして孫さんの場合は、日本の文化を愛されているのですから……私は、在日差別問題は、米国における日系米国人差別問題に通じるものがあると思います。しかし米国では現在、日系米国人への差別は無くなったと思います。日本人もそろそろ大人になるべきです。

最近、孫さんのことをやたらと叩くマスコミやツイッタ―等の記事が目立ちます。自分たちのことを棚に上げて、新参者の孫さんのことを叩くのならば、それと同等に旧来の企業も叩くべきなのに、そうなっていないような気がします。日本のマスコミ等は、叩きやすい者だけを極度に叩く習性があるような気がします。報道が一極に集中し、何度も何度も同じ映像を使って繰り返し、サブミナル効果のようなものを国民の心に刻みつけて行きます。国民をあおり先導しようとするのですが、それは視聴率や部数の増加、あるいはスポンサーの獲得や維持が目的であり、真に国を良くするための報道とはかけ離れていると思います。マスコミ等ももっと大人になるべきだと思います。

 これらのことについて、著者は孫さんに対して、次のような質問と解説をしています。

 ……孫さんにホリエモンと同じようないかがわしさを感じている人がいると思います。これは日本一の大金持ちになった孫さんへのやっかみもあると思いますが、このみ方に是非反論してください。俺はホリエモンとは、ここが違うよって(笑)

 「僕はあの事件(ライブドアの粉飾決算に関する証券取引法違反容疑で逮捕)で堀江さんが正しかったか間違っていたかを判断する材料を持っていないんです。でも、大企業だって、堀江さんのようにある一線を越えることだってままあるわけですよ」

 ……ありますね。

 「野村證券だって、NTTだって」

 ……やってますよね。

 「NTTデータだって、この間たしか有罪になりましたよね。特許庁の職員に賄賂を送ったとかいう事件で。もし、あの事件をホリエモンが起こしていたらどうなっていたのでしょうかね」

 ……火あぶりでしょうね(笑)

 「火あぶりですよ。だけど、NTTデータだと、新聞に二、三回載るだけで、人間は誰でも間違いがありますぐらいで済まされちゃう。ソフトバンクが個人情報漏洩事件を起こすと、世界中のテレビにまで放映されて、新聞の一面トップでガンガンやられるのとは大違いです。

 もちろんデータの漏洩は問題です。われわれも反省しています。だけど、それから約二年後、ほぼ同数に近い数の個人情報漏洩がKDDIであったとき、ソフトバンクのときのように報道されたか、露出度はソフトバンクのときの百分の一です」

 この発言を聞いたとき、孫がテレビ朝日を買収しようとした理由がわかったと思った。孫は既成のメディアに強い不信感を抱いている。だからこそ、既成のメディアを手中に収め、これまで日本になかったメディアにしようとしたのではないか。

 孫がデジタル情報革命を通じて、誰もが発信者になれる、つまり全員がメディアに関われる社会を目指しているのも、根っこにはたぶん同じ理由が横たわっている。

 話を社会が誰を敵視するのかという問題に戻すと、孫は結局、日本は法人に甘く、個人に厳しいと言っている。

 それは、古くはリクルートの江副浩正やライブドアのホリエモンであり、新しくはソフトバンクの孫正義ということになる。

 こうした事例を見ていくと、確かに日本には、新参者が出現すると、バッシングしろといういやらしい風土がある。

 ……孫さんに対する世間の風当たりが強いのも、そんな社会風土が背景になっている。

 「だと思いますね。いわゆる新興企業は成金であり、いかがわしい、悪いことをして伸びてきたに違いないと。それは日本人の中に信仰のようにあるんじゃないですか」

 ……それに比べて、老舗の大企業はそんなことするはずがないと。本当は老舗ほど怪しいんだけど(笑)。

 「老舗がたまたま不祥事を起こすと、それは何かの間違いだろうという程度で済まされちゃう(笑)」

 ……お目こぼししてくれる。

 「それに比べて、アメリカは若い開拓者をアメリカンニューヒーローと褒め称える風土があります。現在の日本のように、社会そのものをドラスティックに変革しなければならないときに、やはり若い人のチャレンジ精神を大切にしなくてはいけないと思うんです。これは一歩間違えると、格差社会反対という言葉のもとに成功者の足を引っぱり、若くして成功する者を排除する社会になってしまう。ひいては国そのものの成長力と競争力をなくしてしまうことにもなりかねません」

 確かに、孫の大好きな司馬遼太郎の『竜馬がゆく』ではないが、あの幕末維新のとき、年寄りが若い連中の足を引っぱっていたら、この国は滅亡していたかもしれない。

 そんな意見を聞いて、私は孫という人間がやっとわかったと思った。孫は自分が生まれ育った日本という国の将来を掛け値なしに心配している。

 もう一度、孫に対する私の“立ち位置”を確認しておこう。

 孫正義は成り上がり者だから、いかがわしさを感じるのか。ノーである。

 孫正義は元在日朝鮮人だから、いかがわしさを感じるのか。ノーである。

 では、孫に対して感じるいかがわしさやうさんくささは、どこから来るのだろうか。

 孫は「経済白書」が「もはや戦後ではない」と高らかに謳った翌年、鳥栖駅前の朝鮮部落に生まれ、豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いの中で育った。

 日本人が高度経済成長に向かって駆け上がっていったとき、在日の孫は日本の敗戦直後以下の極貧生活からスタートしたのである。

 その絶対に埋められないタイムラグこそ、おそらく私たち日本人に孫をいかがわしいやつ、うさんくさいやつと思わせる集合的無意識となっている。

 高齢化の一途をたどる私たち日本人は、年寄りが未来のある若者をうらやむように、底辺から何としても這い上がろうとして実際にそれを実現してきた孫の逞しいエネルギーに、要は嫉妬している。





 『三・一一』以後、孫さんは通信事業者からメガソーラー(再生可能エネルギーによる)発電の旗振り役として、大きく変貌して行きます。そのへんのことを著者は、次のように書いています。



 懸念していた通り、“精神の瓦礫”は「三・一一」から日が経つにつれ、政界、官界、財界に広がっていった。

 政治家はつらい避難所暮らしをする被災者のことなどそっちのけで見苦しい権力闘争にうつつを抜かし、官界と財界はグルになって偽メールまで使って原発の再開に躍起となる。

 「三・一一」では、二万人もの尊い命が失われたが、自分のことしか考えようとしない彼らの言動は、犠牲者のことなど考えているとは到底思えず、とても正視できなかった。日本のリーダーと呼ばれる人びとのふるまいは、いつからこうも劣化してしまったのか。

 そう思っていた矢先に、孫が被災者に百億円の個人義捐金を寄付し、それとは別に、十億円の私財を投じて原発に代わる自然エネルギー財団を設立することが報じられた。

 孫正義という男はやはりただ者ではなかった。

 これまでの取材とインタビューで、私はこれまで世間に流布する、ジャパンドリームの体現者といった孫正義像は、いわば表面をなぞっていただけに過ぎないことを実感した。この男はそんな類型的な見方でとらえることはできない、と思っていただけに、この報に接して自分の見方に間違いがなかったことを確信した。

 ところがそう思った私は世間的には少数派だった。「三・一一」後に孫が旗振り役となった反原発、自然再生エネルギー利用の動きに対するマスコミの反発はすさまじかった。

 「清朝45」(20118月号)は、大江舜なるジャーナリストを起用して孫正義批判を展開した。驚くのはそのタイトルである。実にストレートに「うろちょろするな、孫正義」である。その要旨も簡単明瞭で、自然エネルギー発電に取り組むより、つながりにくいソフトバンクの携帯電話をどうにかしろ、である。

 結論部分は、孫にとってはとんでもないとばっちりだが、孫に反感を持つ者は、この結論に快哉を叫ぶに違いない。

 <小生夢想する。この美しい日本の田園が孫正義の、カラスのように真っ黒な色をした巨大なソーラーパネルに覆われたおぞましい光景を。その下には太陽を奪われた植物がモヤシのように青白くのびる。ミミズさえ死に絶えて、生きているのはナメクジだけ>

 植物も動物も死に絶えた“沈黙の春”の風景が出現しているのは、福島原発の事故後だと言っても、こういう論旨に賛同する輩には理解できないだろう。彼らは、孫正義を論理ではなく生理で嫌っているからである。

 「三・一一」からおよそ七ヶ月後の2011106日、米アップル社を創設したスティーブ・ジョブズが死んだ。孫はこのとき「彼は現代のレオナルド・ダ・ビィンチのような人間だった」という言葉で最大級の哀悼の気持ちを表した。その日、奇しきことに米アップル社の新型スマートフォン「iphone4s」が発売された。「iphone4s」はこれまでアップルのスマートフォンを独占してきたソフトバンクだけでなく競合相手のKDDIau)からも発売された。

 なぜこんな話をしたかと言えば、このとき、マスコミはauにエールを送り、なかにはこれでソフトバンクの時代は終わったと書きたてる気の早いメディアもあったからである。孫正義バッシングは孫がマスコミに取りあげられれば取りあげられるほど高まっていっている。

 孫正義は「三・一一」に遭遇したとき、どんな思いを抱いたのか。そしてこの未曽有の災害に対して、どんな行動をしたのか。私が「三・一一」をどう受け止めたのかを誰よりも知りたかったのは、政治家でも官僚でもジャーナリストでもなく、孫正義だった。

 思っていた通り、孫は「三・一一」後、最初のインタビューに即決で応じ、私のぶしつけな質問に驚くほど率直に答えてくれた。

 ……先日、孫さんは老朽化した原発にかえて、太陽光などの自然エネルギーにシフトすべきという、脱原発復興プロジェクト構想を民主党に提言しましたね。百億円の個人寄付とは別に十億円の私財を投じ、自然エネルギー財団も設立すると。

 「大震災の前まで僕は原発反対派でも推進派でもありませんでした。ニュートラルというか、考えていなかった。ところがこの一ヶ月で、原発の恐ろしさというか、これが魔物だということをつくづく考えさせられた。原発に頼りきる以外に本当に選択肢はないのかと。

 そのために自然エネルギーを研究開発するような財団を数カ月以内に作ろうと考えました。いますぐ原発を全廃せよというのは現実的には無理です。だけど徐々に依存度を下げていかなければいけないと思う」

 ……原発がなければ日本の経済発展は維持できないという原発容認論も、事故を起こした以上、原発は即時撤廃すべきだという否定論も、妥協点なき、“原理主義”という点では同じです。それに比べて孫さんの意見は説得力があります。

 「政府はまずそれに向けた明確なビジョンを示すべきです。まず原発って、だいたい四十年が寿命で、世界では三十年単位で廃炉にしていくのが普通です。福島のように、四十年も使用しているのはごくわずかだそうですよ。無理に運転するのはやめて、安全運転の基準をより厳格にすべきですね。加えて、原子力安全・保安院だとか委員会への天下りとかを断ち切って、チェックアンドバランスを保たないと。そうしたいくつかの指針を明確にする。その上で着地すべき自然エネルギーへの方向性を示すべきです」

 ……原発の方が安価だというのが、これまでの政府や東京電力の説明でした。だが、今回の原発事故で、その論理は脆くも崩れた。

 「エネルギー別の発電コストは原子力が五~六円と一番安いことになっているけれども本当なのか。オーバートークじゃないのか、と。交付金などの原子力関係予算や核廃棄物処理コスト、そして事故対策費などの追加コストを考えれば、一番高く付くのは原発でしょう。現に米国では、昨年(2010年)、原発と太陽光発電のコストが逆転したそうです」



 ……いまの孫さんを見ていて思い出すのが、阪神・淡路大震災のときのダイエーの中内功会長です。神戸は中内さんの故郷のようなもので、彼はダイエーの物流システムをすべて投入して被災地に物資を運んだ。感動したのは、被害を受けたローソン店舗でも灯りだけは絶やすなと指示した事です。人間は暗くなるとどれだけ不安になるかわかりませんからね。これは中内さんのフィリピンの地獄の戦線での体験から生まれています。中内さんの最後の光芒はあのときだったなと思っています。その中内さんにインタビューしたとき、時の村山(富市)政権の対応の遅さに「こんな国に税金を払っていたかと思うと悲しい」といって嘆いていました。孫さんはいまの政府や東電を見て、どう思っていますか。

 「まず東電経営陣の皆さんが初動をテキパキとしていれば被害はもっと少なくてすんだんじゃないかと。それが腹立たしい。死に物狂いでやっている現場の方には敬意を表しますが経営陣の必死さは伝わってこない」

 ……確かに東電経営陣の釈明会見はまるで他人事でした。あれを見ていた人は全員怒りを覚えたと思います。

 「政府に対しては、例えば避難民のメリハリをもっと明確につけるべきだと思うんです。『自主避難』というのは、判断を放棄してしまっている。最初の初動が『大丈夫です、安心してください』と、危険じゃないことを強調し過ぎた。でも、この非常事態には、もっと危機意識を強く、ややオーバー過ぎるくらいの臨戦態勢をとるべきだったんです。

 僕は今回で言えば、二つの究極の正義の議論があったと思うんですよ。風評被害と人命被害。要するに大事だ、大事だと騒ぐと風評被害がより広まる。でも、騒がないと物理的な非難をするのが遅れる。これはサンデル教授じゃないけど、難しい選択なわけです。でも、今回で言えば僕は徹底的に放射能問題を調べて公表するべきだったと思う」

 ……政府の対応が悪いばかりに、日本のイメージが完全に地に墜ちた。

 「完全に政府のミスと言えるのは、例えば、原子力安全・保安院が発表した安全基準が、IAEA(国際原子力機関)とはまったく違う、日本独自のモノサシだったことです。それを自分たちの方が正しいかのように報告した。IAEAの基準は土地の表層部分で、一平方メートル当たりの放射性物質を計測する。ところが保安院はわざわざ地面を五センチ掘り、採取した土壌一キログラムあたりの放射線量を測る。放射性物質は表面に付着するんだから、掘って測れば、十分の一くらいになってしまうじゃないですか。ある種の虚偽、粉飾です」

 ……いわば粉飾放射能か。

 「世界のモノサシで数値を適宜開示していかなければ、日本政府の発表する数値には信頼がおけないと、世界中の政府やメディアが思ってしまう。それはあらゆる輸出にダメージを与える」

 ……観光客も全然来ない。

 「つまり、これは信用不安ですよ。直ちに健康被害はないとか、『レベル三』だ『レベル五』だとか言っていた。あげく、今になって『レベル七』だという。これは政府のミスジャッジであり、政府が人命被害だけでなく、風評被害を拡大させたことになる」



 孫はツイッタ―でも、原発から自然エネルギーへの転換を繰り返し主張している。これに関連する孫のツイッタ―を、時系列的に紹介しておこう。

 四月六日 投資家失格でも構わない。(「孫氏の100億円寄付と報酬全額寄付、同じ経営者としてちょっと失望。災害は大変悲しいできごとですが、それとビジネスは別物。どういうリターンが……。経営者としては1流でも投資家としては無いかなあと。」というツイートへの返答)

 五月八日 この様な「偉そうな方」を未だに現役顧問に仰ぐ東電と原発推進派議員達の気がしれない。(元参院議員の加納時雄氏が「低線量放射線、体にいい」と発言していることへの感想)

 加納時雄は元東電職員で、原子力本部長、副社長(原子力担当)などを歴任した。「朝まで生テレビ!」の原発討論の回には推進側のパネリストとして出演し、原発反対の故・髙木仁三郎と激しい論戦の火花を散らした。

 六月三十日のツイッタ―は、「週刊新潮」と「週刊文春」がトップ記事でいずれも孫正義を叩く記事を掲載した号を発売した日だけに、孫のトーンはふだんにも増してヒートアップしている。

 六月三十日 悲しいなあ。(「週刊誌の釣広告が、二誌ともトップが孫正義さんを叩く記事。テレビ、新聞のみならず、既存マスコミは全て既得権益者擁護しかしないんだね」というツイートへの返信)

 同日 私個人が非難されるのは、構わない。しかし、その時にわざわざ「在日」という言葉を使われるのは……。(「この国は志をもって行動する人間を傷めつけたり貶めたりする性癖がある様です。文春も新潮も、原発村の住人たちが、狙っているのでしょうか」というツイートへの返信)



 ツイッタ―にはお門違いの意見が目立つが、それは脱原発問題への関心の高さと理解しておけばいい。それより気になるのは、孫に対する風当たりの強さである。

 それがまっとうな批判なら別に構わない。私がうんざりするのは、愛も変わらず「在日」に対する古くさい偏見に基づいた批判が多いことである。

 結果として孫正義批判の援護射撃役となった「週刊文春」と「週刊新潮」の記事は、「週刊文春」が「孫正義『強欲経営』の正体」、「週刊新潮」が「脱原発の政商になる『孫正義』の果てなき商魂」とタイトルこそ勇ましいが、羊頭狗肉の見本を読むようで、これまでの孫批判記事を焼き直しただけの内容にまったく新味はない。



 「週刊新潮」がレッテルを貼った“政商”といえば、孫は私のインタビューに答えて、「政商というなら、日立や東芝、三井物産などの経団連のお偉いさんの方こそ政商。彼らは原発に原子炉や圧力容器、ウランなどを納める納入業者として大儲けした上、これだけの事故があったのに、何の反省もせず原発を再稼働しようとしている」と、経団連を真っ向から批判している。

 さらにツイッタ―上で、「脱原発の自然エネルギー事業に取り組む孫正義は政商」という発言をした。“電力安定論者”の堀義人(グロービス代表)と201185日、公開討論を行っている。孫はこの公開討論で、「政商と呼ばれるのは心外。自然エネルギー事業では一円の利益もとらない。そんなことのために夜も寝ずに考え、口角泡を飛ばしてきたんじゃない。政商という言葉を撤回してほしい」と発言している。

 その公開討論で目についたやりとりをちょっと紹介しておこう。

 「防護服を着て立ち入り禁止区域に入った人の写真が海外メディアに紹介されると、風評被害が増大していく恐れがある」という堀のトンチンカンな発言に、孫は「じゃあ防護服を着ないで行けばよかったと仰る?あなたは防護服を着ないで行く勇気があるかもしれないけれど、普通の人はリスクがあると考えて防護服を着ていくと思いますよ」と切り返している。

 また孫は「僕も、原発をいますぐ全部撤廃しろ、とは言いません。ただ少なくとも日本国民の一人として、原発事故を起こした以上、これに代わるエネルギーを考える時期に来ていると思うんです。まあ、僕が日本国民と思われているかどうかは別としての話ですが……」という皮肉も言っている。



 この様な孫さんの言動に対して、父親の三憲さんは、著者のインタビューに次のように答えています。

……三憲さんに最初に会ってからわずか二ヶ月あまりで日本は激変しました。いうまでもなく、三・一一大震災によるものです。これによって、孫正義さんの事業も脱原発へと大きく舵を切りました。三憲さんは、こうした正義さんの動きをどう見ていますか。

「私はね、そのことにはなるべく口をはさまんようにしとるんですよ。僕はそのことに関して何の知識もないからね。ただ、日本は戦争でアメリカから原爆二つを落とされて、民間人が広島と長崎で合計六十万人ぐらい死んだもんな。それだけやられとって、また原発を五十何ヶ所作るっていうのは、国策かも知らんが、あんまりいいことじゃないと思っていた。だからそれに代わる新エネルギーを考えるのは悪いことじゃないと思っとるんです。ただ、日本の国策にしている根幹の仕事にあんまり立ち入るとね。もともと韓国人だから」

……いくら日本に帰化してもですか。

「はい、韓国人がなんば言いよるとかというふうに思う人もいっぱいおるから」

……なるほど、親としてそれが心配だと。

「殺されるもん」

……殺される?

「危ないもん。僕は正義のことが心配で心配でたまらんけん」

ネットを見ると、確かに右翼からの脱原発の旗振り役になった孫正義への攻撃はすさまじい。反日ハゲ爺の孫正義が、国民の税金を使って環境ビジネスに乗り出した。孫正義は売国奴。孫正義を擁護するのは左翼か在日……。



 私は三憲さんのインタビューを読んで、七十を過ぎた父親が、五十を過ぎた息子の命を心配しなければいけない、日本という社会は一体何なのかつくづく考えさせられました。日本は、自由と民主主義の国ではなかったのか…在日というだけでここまで叩かなければいけないものなのか…と思いました。



 著者は、この本を締めくくるに際して、孫さんへのインタビュー等を次のように記しています。



彼らは故国では僑胞と言って軽蔑され、日本では在日といって差別された。それを極限まで体現したのが、玄界灘を往復した安本三憲こと孫三憲である。

三憲は見る立場によって、猛毒性の曼荼羅華(通称・朝鮮朝顔)のように違った相貌を見せる。ある者には鬼畜にも見え、ある者には菩薩にも見える。

孫正義はこういう異様な家系から生まれた。そう言うと、奇異に思う人がいるかもしれない。だが、こういう尋常ならざる一族からでなければ、東日本大震災に百億円の義捐金をポンと提供し、こと場合によっては暗殺されるかもしれない反原発の旗振り役となるトリックスターは出てこない。



孫は私のインタビューに、「親父や親類がやっているような仕事で金儲けしようと思ったらいくらでもできた。でもそれじゃ、在日をカミングアウトして帰化した意味がない。あえて茨の道を行くことが、僕に与えられた使命なんです」と繰り返し語っている。



あのご両親でなければ、孫さんのような人間は生まれてこなかったし、これほど劇的な人生は歩んでこられなかったのではないですか、と尋ねると、孫は胸中の思いを吐き出すように言った。

「両親にはやっぱり一番感謝してます。僕の原点は何といってもかけがえのない親父であり、おふくろなんです。そしてその両親と一緒に暮らした子ども時代のあの環境そのものが僕をつくってくれたんです」

お父さんは孫さんが反原発に走りすぎると殺されるんじゃないかと心配していました。経団連など経済界からの孫さんに対する風当たりも日増しに強くなっています。最後にそんな質問をすると、孫は急に表情をひきしめ、「僕は死ぬまで原発に反対していきます。それで刺されるなら本望です」ときっぱり言った。



玄界灘をはさんで二つの祖国を持つ男は、在日を毛嫌いする日本の保守的エスタブリッシュメントに敗れ去って、“故国”韓国に尻尾を巻いて逃げ帰るのか。

それとも韓国を足がかりにしてアジア、そして世界の孫正義として雄々しく羽ばたくことができるのか。

孫正義は、インターネットビジネスから、東日本大震災をきっかけにして、事業の主軸を脱原発の自然エネルギーへと大きく舵を切った。

この男は日本を救う英雄なのか、それとも一族の過剰なリビドーを受け継ぐ稀代の怪人なのか、それとも時代をひっかき回すだけの迷惑男なのか。日本の将来の方向も暗示するその答えは、そう遠くないうちにわかる。

それまで私たちは孫正義という男から目を離すことができない。これは好き嫌いとは次元の異なる問題である。

豚の糞尿と密造酒の臭いが充満した佐賀県鳥栖駅前の朝鮮部落に生まれ、石を投げられて差別された在日の少年は、いまや日本の命運を握る存在にまでなった。

だが、ネット上では相も変わらず「在日は早く朝鮮に帰れ」といった差別意識むき出しの罵詈雑言が蔓延している。この国は、孫正義少年を陰で「あんぽん」と呼んで白眼視した時代と何も変わっていないのではないか。

だから、私はこう言いたい。孫正義よ、頼むから在日でいつづけてくれ。そして物議を醸しつづけてくれ。あなたがいない日本は、閉塞感が漂う退屈なだけの三等国になってしまうからである。

それは「日本が大好き」というあなたも望まないだろうし、「三・一一」後大きく変わる新生ニッポンの誕生を期待する多くの日本人も望んではいない。





 私は、『あんぽん』孫正義伝を読み終えて、いくつか気付いたことがあります。



 孫さんの生き様は、在日韓国朝鮮人差別との戦いだったように思います。そして今もなをマスコミやツイッター等で、叩かれ続けています。まるで戦前のアメリカにおいて、日系人が差別されたように……しかしアメリカは、第二次世界大戦に置いて、ヨーロッパ戦線や太平洋戦線(NHKの大河ドラマ『山河燃ゆ』で取りあげられている)で、日系人が活躍したことによって、日系アメリカ人を認知してくれました。その象徴的人物が、ダニエル・イノウエ上院議員だと思います。

 ダニエル・イノウエ上院議員は、今では上院議長を務められています。上院議長とは名誉職だそうですが、形式上、アメリカにおいて大統領・副大統領に次ぐ三番目の権力者となられています。日系アメリカ人の地位の向上は、戦前と比べ物にならないほどです。アメリカに出来ることが、なぜ日本に出来ないのでしょうか?

孫さんは、日本国籍を取られています。言わば、韓国系日本人です。この本を読んで、孫さんがこよなく日本を愛されていることも分かりました。政治・経済的に日本を愛され、日本と共に行動されるのであれば、たとえ文化的に韓国の文化を継承されたとしても、それを認めるのが、大人の対応なのではないでしょうか。『日本人よ、大人になれ!そしてすべての差別をなくそう!』日本人は、韓国系日本人を認知すべきです。そして、すべての差別を無くすべきです。

古代、日本人は自国の文化と他国の文化を融合させて、独自の文化を作り上げてきました。唐や百済や新羅などから文化を取り入れてきました。その過程で渡来人が大勢日本にやって来ましたが、差別されたという話は聞いたことがありません。日本の皇室にも百済の王族の血が流れていると聞いています。宮崎の南郷村には百済の王様をご神体とした神社もあると聞いています。すでに、日本人と韓国人の血はまじりあっているのです。なのに、お互いがお互いを差別しても仕方がありません。差別は差別を生み、そして憎しみを生みます。いまの日本に憎しみは必要ありません。



それから孫さんは、坂本龍馬(竜馬がゆく)を尊敬されているようですが、この本を読んで私は、坂本龍馬というよりは、その師匠の勝海舟(父子鷹=おやこだか)を連想して仕方がありませんでした。

小普請組とはいえ、直参のプライドを確りと胸に抱いて、貧困の中で必死になって剣術と勉学に励んだ勝麟太郎……後に蘭学を学んで西洋式の海軍を作り上げ、咸臨丸で太平洋を横断し、徳川家の宰相まで上り詰めた海舟にも、小吉という三憲さんのような途方もない父親がいました。

確かに大政奉還を成し遂げた坂本龍馬の業績は素晴らしいものですが、それも勝海舟の存在があってこそ成し遂げられたものだと思います。海舟は江戸城の無血開城を成し遂げただけでなく、明治の後年になって、徳川慶喜を明治天皇に拝謁させることにも尽力しています。

私は孫さんには、勝海舟に成って欲しいと思いました。そして、龍馬のような弟子をたくさん育て上げて欲しいと思いました。在日韓国朝鮮人の道標に成るためにも、韓国系日本人として誇り高く生きて欲しいと思いました。アメリカの日系人社会の象徴的な人物、ダニエル・イノウエ上院議長のように、韓国系日本人の象徴的人物に成り得る人だと思いました。そしていつの日か、勝海舟が天皇家と徳川家の和解に尽力したように、孫さんが朝鮮民族と大和民族の架け橋となって、真の和解の日が来ればいいなと思いました。



最後に、これは私の勝手な思い込みかもしれませんが、孫さんが王さん(ソフトバンクホークス会長)を手放さない気持ちが分かるような気がします。孫さんにとって、王さんは理想の先達、あるいは鏡なのかもしれません。外国籍で王さんほど日本人に尊敬されている人物はいないからです。経済とスポーツ、バックグランドは違っていても、孫さんは王さんに限りなく近づきたいのだと思います。





<後記>

あんぽん 孫正義伝は、ハードカバーで400ページもある大作です。まだまだ、いろんなことがたくさん書かれています。例えば孫家のルーツである韓国の取材や母方の叔父である国本徳田さんが、炭鉱事故で亡くなられたこと、そのことによって、孫さんの母方の祖父、国本太郎(李嶋鳳)さんを主人公のモデルにした、短編小説『鳳仙花』という作品が書かれていた事など……是非御一読されることをおすすめします。