書店で立ち読みをしていたら、偶然に『台湾(四百年の歴史と展望)』という新書本を見つけた。台湾と言えば親日の国、三年前の3.11東日本大震災の時には、二百億円という多額の義援金と援助物資を送ってくれた国だが、私は感謝の念とともに台湾について何も知らないことに気付いた。私が台湾について知っている事と言えば、戦前日本の植民地だったことと、幾人かの政治家の名前、そして子供のころにテレビで見た紀政さんの走る姿ぐらいだ。同じ植民地でも朝鮮半島のことは多少なりとも学校で学んだ記憶があるのだが…と思いつつ、この本を読んでみることにした。
(紀政さんとは、陸上の女子短距離界ではアジアの女王といわれた方で、1968年メキシコオリンピックでは80mハードルの銅メダリスト、戦後欧米の選手と互角以上に戦うことができた唯一のアジア人女性だ。現役時代が、世界の政治情勢の変動で、台湾と大陸政権の地位が逆転した頃と重なり、孤軍奮闘されていたように思う。言わば台湾のジャンヌダルクの様な方だ。私は子供心に凄い人だなと憧れていた事を覚えている。)
最初に書いておくが、著者の伊藤潔氏は、1937年日本統治下の台湾で生まれ、中華民国籍を経て日本に帰化された方だ。帰化以前の名前は劉明修、東アジア政治外交史専攻の歴史学者で東京大学大学院博士課程修了の文学博士だ。2006年にお亡くなりになっている。この本は、1993年8月25日が初版で、二十年以上も前に書かれた本である。しかも李登輝政権の任期途中までしか書かれていないので、この本を読んですぐに現在の台湾が解るわけではないが、二十年後の現在を見抜いてあるような気もする。また、2012年6月20日までに19版と版を重ねており、スタンダードな歴史書として実に分かりやすく書いてあるような気がする。
著者は、この本について次のように書いている。『小著は日本人の読者を対象にしているからといって、日本の台湾支配に対する批判を避けたり、遠慮もしていない。ひたすら日本の読者に「台湾」を紹介することを心がけたつもりである。』と…
そして、この本を読み終えて幾つか感じることがあった。
①台湾という国は、四百年の歴史の中で、オランダ(スペイン)、鄭氏政権、清国、日本、国民党政権、そして現在と支配政権は変わっても、昔も今も置かれている立場は変わっていないのだなと思った。歴史のほとんどが、外来政権によって治められ、抑圧と抵抗の連続だった。例えば、鄭氏政権では中国人(漢民族)によって初めて支配した政権だが、反清復明を唱え、帝位には就かず藩主の地位にとどまり、明王朝の復活を掲げて大陸への反抗をめざした。まるで蒋介石父子の国民党政権の様である。また、清国(満州民族)統治下では、国内植民地としてあつかわれ、住民は抑圧され続けた。第二次大戦後、独立しようと思っても独立できず、国民党政権に抑え込まれて、時期を逸したのか、現在では米国すらも独立に反対している。独立国とは認められずに、国際的には主権国家に準ずる政治的実体となっている。私は個人的には、経済的に中国大陸に依存しすぎないようにして、早く独立宣言をした方が好いのではと思っている。
②また、日本統治下において、明治の元勲板垣退助を筆頭に、日本の多くの政治家や市民が台湾の自治運動に携わっていた事を知り驚いた。孫文に対して梅屋庄吉が支援していた事は有名なのだが……この様な事もあってか、台湾は親日の国、同じ植民地だった朝鮮とは違うとよく言われるのだろうと思った。外来政権に抑圧され続けた歴史の中では、日本の統治は、よりましだったのかも知れない。そのキーマンが後藤新平であり、その政策「ヒラメの目は鯛の目にすることはできない…」という「生物学的植民地経営」が、日本統治初期の政策としては、優れていたのかもしれない。著者は、日本の台湾統治に対して、「植民地下の近代化」がなされた。その最たるものが「教育政策」で、イギリスの植民地と比較して、それを証明している。
③この本を読んで、改めて李登輝元総統の偉大さが分かったような気がする。李登輝元総統は、京都帝国大学農学部経済学科在学中に学徒出陣をした。戦後は台湾大学に復学して1948年に卒業。二回の米国留学を経て、48歳にして学者から政治家に転身された遅咲きの政治家である。本省人(台湾人)がゆえに国民党の党歴は浅く、周辺(外省人長老)を気遣いながらも副総統に上り詰めた時、天は蒋経国総統の突然の死というチャンスを与えた。李登輝元総統は、そのチャンスの前髪を確りとつかみ、憲法の規定により総統、そして国民党主席に就任した。65歳のことである。本来ならば、本省人では、成り得ないことであった。
そして、総統・国民党主席に就任した李登輝は、政治改革を断行した。ロボットと言われるほどに、権力を何一つ持たないなか、国民党への野党と国民の反発を利用して、「党」「政」「軍」「特」の権力を次々につかみ、台湾に民主主義の扉を開いた。著者は「流血なき革命」と書いているが、私は「内なる革命」だと思う。民主主義とは相反する一党独裁の国民党の権力を握り、国民党の権力と野党や国民の反発を利用して、外省人長老を抑え込みながら、民主主義へと台湾を導いたからである。
④最後に、鄭氏政権の初代藩主鄭成功(開山王)が、日本の平戸で、日本人の母(田川氏)から生まれたということは、何処からともなく耳にした事はあったが、江戸時代に鄭成功をモデルにして、近松門左衛門が書いた国性爺合戦が、人形浄瑠璃や歌舞伎化されていた事を、私は全く知らなかった。鎖国の江戸時代に、鄭成功に日本人の血が流れているとはいえ、よその国の出来事が戯曲化されるということは、余程の人気があったのだろうと思った。後に日本統治下においては、「延平郡王祠」を「開山神社」に改め、鄭成功の神格化にあずかったそうである。
他にもこの本には、興味深いことが多々書いてある。以下は、この本の抜粋と要約を記した。
台湾は西洋では『麗しき島(Ilha
Foromosa イラ・フォルモサ)』と呼ばれているそうだ。台湾を発見したのは、俗に世界史的に言えばポルトガル人だそうだ。ポルトガル船の種子島漂着の翌年、1544年と推定されている。しかし、中国の史料によれば、元王朝の14世紀末には、すでに澎湖列島の警備と治安にあたる為に「巡検司」がおかれていたそうである。澎湖列島は、今日では台湾に属しているが、当時は、台湾から出没する倭寇や海賊を防ぐ為の中国の前線基地であった。当時の台湾は、中国から見れば、倭寇や海賊の巣窟であり、風土病の蔓延する恐ろしい未開の地と考えられていたようだ。
倭寇や海賊は、台湾をねぐらとはしていたが、台湾を征服して政権を作ろうとはしなかった。また、台湾の先住民は多部族に分かれていたために統一した政権や王権が樹立されていなかったそうだ。こんな話が残っている。1593年豊臣秀吉が台湾の高山国に入貢するようにと使者を送ったのだが、使者は誰に秀吉の書簡を渡して良いか解らずに実現しなかったということだ。
●オランダ支配下の台湾
台湾に最初の政権を作ったのはオランダだった。
1603年オランダ艦隊が、台湾海峡に連なる澎湖列島をめざし、その主島である澎湖島に上陸した。これがヨーロッパ勢力が台湾に足を踏み入れた最初だった。明王朝はただちに軍勢をくりだし、澎湖島から追いだした。しかしオランダは、1622年に再び澎湖島の占拠をはかり、今度は成功した。オランダはバタビア(ジャカルタ)・馬公・中国・日本を結ぶ中継貿易の拠点とするとともに、台湾海峡の制覇を試みた。
これに対し明王朝は、1624年1月澎湖島を攻撃した。そして8カ月の攻防のすえ、明王朝はオランダ艦隊の澎湖列島撤退を条件に、オランダの台湾島占領を認めるとともに、オランダとの貿易に同意するという停戦協定を提示した。オランダにしてみれば、思いがけない好条件であった。澎湖島の占領に固執しても、明王朝の軍勢にはかなわず、しかも台湾は澎湖列島と比べてはるかに土地は広く、東アジアの貿易ルートの要衝に位置しているばかりか、すでに日本との貿易も行われていた。台湾を領有すれば、中国や日本との貿易の独占の可能性もある。ただちに停戦協定が結ばれ、オランダ艦隊は台湾島に移動した。著者は『明王朝が簡単にオランダの台湾占領と領有に同意したのは、元々この地を領土と見なしていなかったからにほかならない。』と言っている。
オランダは、1624年8月26日に台湾の南部に上陸した。オランダ連合東インド会社はバタビア(ジャカルタ)に派遣した総督を通じて台湾長官を任命した。台湾長官は各地にあるオランダ商館の商館長とは違い、貿易業に加えて植民地行政の責任者でもあった。オランダは明王朝と違って、台湾領有の価値を充分に認識しており、中継貿易の拠点としてだけでなくその肥沃な土地と産物にも着目し、植民地としての価値も認めていた。
オランダは中継貿易で暴利をむさぼる一方農業開発にも力を注いだ。本国の「王田制」にならい、すべての土地をオランダ連合東インド会社の所有とし、それを移住民に貸与して、収穫物の5から10%を小作料として徴収した。農業開発のなかでも特筆すべきは、砂糖産業の育成であった。オランダの領有以前から砂糖の生産は行われており、出合貿易で輸出されていた。オランダは砂糖輸出の利益に着目し、砂糖キビのプランテーションを通じて、砂糖の増産に取り組み、重要な輸出産業に成長させた。砂糖産業は、その後三百年間にわたり、台湾の輸出産業の重要な地位にあった。
オランダのアジア貿易において、台湾は日本のオランダ商館につぐ業績を上げていた。しかも日本のオランダ商館は、台湾からの輸入によって利益を上げていた事を考えれば、オランダのアジア貿易に占める台湾の価値は、きわめて高いものであった。税金や借金を容赦なく厳しく取り立てる様は、まさしく重商主義時代の植民地経営そのものであった。
オランダは、台湾に上陸した当初から、先住民や中国からの移住民の抵抗と、競合するヨーロッパ諸国の侵入に備えなければならなかった。当時の先住民には、今日でいう「領土」の概念こそなかったが、「自ら生活する土地」という意識は持っていた。これまでに台湾に侵入してきた倭寇や海賊は、台湾をその「巣窟」として使用しても、「領土」とするような発想はなく、先住民とは支配と服従の関係になかった。オランダの侵入によって、先住民は初めて支配を受ける身となり、長い間の自由な天地を失った。
オランダは、先住民対策として、キリスト教による教化の一方、武力で鎮圧し、先住民を完全に掌握するまでには、十年余の歳月を要した。宣教師は、文字をもたない先住民に対する布教の必要から、先住民の言語をローマ字化した聖書を作るなど文化的に少なからぬ足跡を残した。
《スペインの北部占領》
スペインも中継貿易の拠点として台湾をめざしていた。バシー海峡をはさむフィリピン(当時はスペイン領)の安全確保と、日本や中国との貿易をオランダに独占されることを恐れ、台湾北部の占領をめざして、1626年5月5日にマニラから艦隊を派遣した。オランダは南部の経営に全力をあげており、スペインの北部占領を喰い止めることはできなかった。しかし、台湾北部を占領したスペインは、日本や中国との中継貿易や日本へのカトリック布教を実行することはできなかった。その上、占領要員の多くが先住民の襲撃やマラリアなどの風土病に倒れ、台湾進出の目算が狂い、1638年に淡水のサン・ドミンゴ要塞を破壊して撤退した。スペインの占領態勢の弱体化を見たオランダは、1642年夏に艦隊を派遣し、三カ月にわたる攻防で基隆を陥落させ、スペイン17年間にわたる台湾北部の占領は幕を閉じた。スペインの撤退で、南部を中心としたオランダの支配は、北部にも及ぶ事となった。
●鄭氏政権下の台湾
オランダが台湾を支配していた頃、大陸では満州族の清王朝が勢力を拡大し、漢族の明王朝は清に押されて南下していた。明王朝は1628年に、東アジア海域に勢力を張る海賊の頭領である鄭芝竜を招撫(名誉の官職を与えて手なずけること)し、その軍事力と資金力に期待をかけた。(鄭芝竜は、日本の平戸に滞在中に、日本人女性の田川氏と結ばれ、1624年に長男の鄭森(1624-1662)をもうけた。妻と鄭森とその弟とともに1631年に中国に渡った。)明王朝は衰退し、鄭一族が明王朝を支えた。鄭森は成人すると明王朝の姓(国姓)である「朱」を授かり、名前も「成功」と改め「国姓爺・鄭成功」となった。
清は、福建を包囲すると1646年8月に明の隆武帝を捕らえ、鄭芝竜に対しては、官職と引き換えに降伏を促した。鄭成功は反対したが、鄭芝竜は同年11月にこれに応じた。しかし、清王朝は約束に反して鄭芝竜を北京に送って幽閉し、妻の田川氏は、清の凌辱を受けて自害した。これを知った鄭成功は、士大夫(読書人)から武人となり、君国と父母の仇を討つことを誓った。
鄭成功は、1661年に福建の厦門と金門の二つの島の固守に力を注ぐ状況に追い込まれていた。この時、台湾のオランダ連合東インド会社の通訳をしていた事のある何斌が鄭成功に台湾の土地の豊かさを説いて侵攻を勧め、海図を献上した。鄭成功は、厦門と金門の守備を長男の鄭経に託し、何斌を案内役に、自ら400余の艦船と25000の将兵を率いて、同年四月にまず澎湖島を占領し、続いて台湾をめざした。オランダは1662年2月に鄭成功の軍門に降り、バタビアに撤退した。こうしてオランダの38年にわたる台湾支配に終止符がうたれた。鄭成功は、台湾全島を「東都」(中国の東)と改名した。そして東都を明王朝再興の基地とし、帝位を僭称(身分制度のある社会において、本人の身分を越えた地位、称号を名乗ること)することなく、「藩主」の地位にとどまった。オランダの「王田」を「官田」とし、現に所有する者の土地を侵さない条件で、農地の開拓が行われた。台湾における土地の私有制度の始まりである。
鄭成功は、台湾に到着して一年足らずの1662年5月に、反清復明の志をとげないまま、波乱に満ちた39歳の生涯を終えた。その死後、オランダを追い払い、台湾を開拓した功績を讃える移住民に「開山王」と崇められ、台南に「開山廟」が建てられた。鄭成功の人気は日本にもおよび、江戸時代には近松門左衛門の「国性爺合戦」がある。また日本統治下においては「延平郡王祠」を「開山神社」に改め、鄭成功の神格化をはかった。
鄭成功の死を知り、厦門にいた長男の鄭経はただちに台湾に向かった。鄭経は、中国への征戦に腐心し、政務を顧みる余裕も関心もなかった。そのため政務は、鄭成功以来の重臣である陳永華に委ねられた。
陳永華は、鄭氏政権の台湾経営にもっとも貢献した人物であり、農地開発にともなう土地制度および戸籍整備など、統治の基本となる行政機構と制度を確立し、鄭氏政権の基礎を整えた。また、軍事政権ともいうべき鄭氏政権への貢献の大きさは、同時に苛斂誅求(税金や借金を容赦なく厳しく取り立てること)の圧政となり、台湾住民を苦しめた。
反清復明を国是とする鄭氏一族が台湾に移ると、清国政府はすぐさま台湾に対する封鎖を断行した。「遷界」と「海禁」政策である。遷界は、東南沿海五省の住民を沿岸から30里の内陸に移し、この間での居住や農耕はもとより立ち入りを禁じ、海禁は、漁船や商船の出入港を禁止したものである。この封鎖政策は、かえって中国との密貿易を必要とさせ、台湾の海上貿易の発展を促した。台湾は対中貿易の一大拠点となり、貿易の利益は増大した。また、封鎖政策に苦しむ中国沿海ことに福建、広東の住民が、続々と台湾に移り住み、台湾の人口増加の一因となった。
鄭氏政権は財源確保のために、台湾住民からの徴税にも腐心し、それはオランダ支配時代以上に苛酷であった。オランダの人頭税を踏襲したほか、固定資産税にあたる家屋税を新たに設け、豚舎や鶏舎にまで課税した。課税対象は当時の諸産業におよんだ。
鄭氏政権は海外貿易で得る巨大な利益に加え、住民から絞り取る税収で財政は豊かであったが、反清復明の軍事作戦を重ね、その為の費用も莫大であった。重税に苦しむ住民は、次第に怨嗟の念を募らせ、ついに鄭氏政権を見限るようになる。また、鄭氏政権が発足するとともに、先住民は否応なしに漢族系の移住民に支配されるようになり、その生活習慣やおかれた環境ゆえに人口が増えず、少数民族への道をたどらざるを得なかった。
●清国の台湾領有
清王朝も台湾を実際に領有するまでは、その版図としなかった。しかし、清王朝は反清復明を国是とする鄭氏政権の存続を認めることはできず、和議を重ねつつも鄭氏政権と戦い続けた。
1681年10月に清王朝は中国内部の敵対勢力を鎮圧すると、台湾の鄭氏政権の打倒に向けて全力を傾注するようになった。対台湾の作戦に起用されたのは、鄭氏政権に背いた施琅であった。施琅は1683年7月8日、300余の艦船と2万余の兵員を率いて澎湖島をめざし、1週間の攻防のすえに澎湖島を占領した。同年9月27日、鄭成功、鄭経、鄭克塽の三代にわたる、23年間の鄭氏政権は幕を閉じた。
清王朝は鄭氏政権を滅ぼしたが、台湾の領有には消極的であった。当初、台湾に関しては「放棄論」が支配的で、施琅だけが「領有論」に固執した。清王朝は台湾よりは澎湖島を重視していたのだが、康熙帝は施琅の上奏(…台湾を領有した事のあるオランダが、機に乗じて必ず台湾を再度占領するに違いない。台湾の領有は、すなわち澎湖島の安全の保障ともなる…)を容れ、1684年5月27日に台湾領有の詔勅を下した。
清国は212年にわたって台湾を領有したが、1874年までの約190年間は、消極的な経営であった。その経営の基本方針は台湾が再度、盗賊の巣窟と化し、反政府勢力の根拠地となることを防ぐことに重点がおかれた。しかし、福建や広東からの移民の流れを止めることができず、農業を中心に台湾の開発は着々と進んで行った。
清国政府は台湾の官吏と部隊による反乱の防止にも腐心し、台湾に赴任する官吏の任期を三年とし、任期が満了すればただちに中国に転勤させ、家族の同行も禁じた。また、各地に駐屯する、総数約一万からなる陸軍と水軍の部隊は三年ごとに移動させた。これを『班兵制』といい、台湾現地からの募兵を禁じた。いずれも長期に駐在することによって土着化し、台湾住民と結んで反乱を起こすことを恐れたからである。台湾への渡航は認められることになったが、厳しく制限された。
また、住民の反乱防止を台湾統治の基本政策とする清国政府は、さまざまな制限措置を設け、台湾の開発に消極的であった。
台湾の移住民には「封山令」で臨んだ。封山令とは、すでに台湾に定住する移住民に対し、先住民の居住地域への入植を禁じたものである。封山令は一見して先住民を保護し、移住民と先住民の衝突を防ぐ処置のようであるが、実際は反乱を起こした移住民が、先住民の地域に逃げ込むこと、及び先住民と結託して反乱を起こすことを防ぐ為のものであった。清国政府は先住民と移住民との居住地域を隔離して境界線を設け、先住民を封じ込めると同時に、移住民に対して越境と先住民との交流や通婚を禁じた。これをおかした者には厳罰をとった。そうした上で、清国政府は移住民の武器の私蔵を防ぐ為に、長期にわたり鉄と鉄製品の移入はもとより、鋳造も禁止した。農機具の製造には政府の許可を必要とし、台湾全域で政府認定の鍛冶屋は27軒、原材料の鉄も指定された福建の漳州からの移入のみであった。封山令に始まる一連の制限措置は、農業の生産力を弱め、台湾の開発を阻害した。
中国の歴代王朝に漏れず清国政府もまた、厳罰をともなう多くの禁令を布告したが、時がたつにつれて、取り締まる役人の腐敗によって形骸化した。渡航禁止令や封山令、鉄製品の移入禁止、農機具の鋳造制限など、いずれもなしくずしに破られた。清国政府の消極的な台湾経営が積極的に転じるのは、1874年の日本の台湾出兵まで待たねば成らなかった。
《先住民の漢化と天地会と分類機闘》
先住民は多くの部族に分かれ、結集力も弱く、全面的な蜂起に発展することはなかった。移住民と先住民の交流や通婚は禁止されていたが、現実には多く行われていた。通婚の増加は、先住民人口の増加率を低めさせた原因の一つであり、生まれた子は漢族系住民とされたことから、移住民人口は増加した。清国政府はいちはやく、先住民のなかでも平野に居住し、教化に服する者を「熟蕃」または「平埔族」(「平地先住民」…今日ではほとんど漢族化している)とし、山岳地帯に居住し教化のおよばない者を「生蕃」(山地先住民)として区別した。移住民の通婚は、ほとんどが平地先住民とである。
清国政府は台湾領有早々に、平地先住民に対する教化に着手し、1695年には学校教育を開始した。初歩的な漢字の習得用教材として『三字経』を用い、平地先住民に漢民族の価値観を植え付けて行った。
先住民と比較して、移住民の抵抗が圧倒的に多く、かつ規模も大きかった原因の一つに、鄭氏政権崩壊後に顕在化した秘密結社である「天地会」の存在がある。天地会は政治的には異民族である満州王朝の打倒と、漢民族の明王朝の再興をめざし、経済的には孤立無援の移住民の互助を目的とする民間組織である。天地会の名は「天地を父母とし、盟員は兄弟」とするところに由来した。天地会の初期の活動には、政治的な動機が強く見られたが次第に薄れ、相互扶助の性格が顕著となって行った。
「分類械闘」とは、同じ漢族系の移住民であるが、閩南系と客家系があり、閩南系にはさらに漳州系と泉州系があり、それぞれが同じ原籍地の人々を結集して、武器を擁して互いに闘うことである。分類械闘は貧困な福建でよく見られた因習であるが、台湾に伝わり、いっそう激化し複雑化した。また「義民」とは、清国政府に加担して「乱民」の鎮圧に協力した人々である。
《国内植民地と商業組合》
台湾の農業は食糧の生産と輸出のための砂糖キビ栽培が中心であった。人口の少ない時には「糖主米従」であったが、人口増加や天災などで食料の需要が増大すると「米主糖従」となり、いわゆる「米糖相克」の問題が常に生じている。清国統治時代には中国の食糧不足を補い、福建の「穀倉」の存在であった。しかし、中国に米を送る一方、台湾に必要な日用雑貨などは、中国からの移入に頼らなければならなかった。
商人らは中国の日用雑貨を台湾に、台湾の米、砂糖、樟脳などを中国に運び、台湾は中国の経済的な植民地、すなわち「国内植民地」であった。台湾の移出入商人は独自の組織をもつようになり、「郊商」と称される商業ギルドが形成され、政府公認の独占的な存在になり、台湾の商業資本家として発展する。「郊商」は特権と引き換えに、住民の蜂起や抵抗運動に際しては、ほとんどの場合において政府にくみして、鎮圧に加勢する「義民」の募集や軍資金の献上などを通じて、政商の道を歩んだ。
《開港と列強の進出》
阿片戦争のさなかの1841年9月を初めに、イギリス艦隊は数度にわたって台湾沖に姿を現し、北部の基隆港と西海岸中部の梧棲港の占領を試みたが、いずれも失敗した。帝国主義列強の台湾に対する最初の野心的行動であった。続いて1854年7月に、日本で和親条約締結を終えた、米国のペリー艦隊が基隆に約10日間停泊し、失踪した水兵の捜索と基隆近郊の炭坑の調査を行なった。ペリーは帰国後、台湾は米国極東における中継貿易の拠点に適しており、フロリダ半島とユカタン半島が囲む、メキシコ湾を制するキューバのような存在であると報告し、占領を主張した。この台湾占領の主張は実現しなかったが、ペリーの報告はヨーロッパ列強に注目され、台湾への関心が一気に高まった。その後、1856年10月に広州でアロー号事件が起こり、その処理のために1858年6月に天津条約が結ばれた。清国政府は天津条約に基づいて台湾の淡水(1862年)基隆(1863年)安平、高雄(ともに1864年)をあいついで開港し、宣教師によるキリスト教の布教も認めた。このようにして台湾は欧米列強に解放され、新たな時代を迎えることになった。台湾の経済は世界経済の一環に組み込まれ、北部の淡水と基隆からは茶と樟脳、南部の安平と高雄からは砂糖が輸出され、輸入は阿片と雑貨が主であった。
《日本の台湾出兵》
日本が明治維新後、日清両国の琉球の処遇に苦慮し、また、台湾にも食指を動かしていた頃の1871年に、琉球の宮古島の住民66名が台湾南部に漂着し、54名が牡丹社(部落)の先住民に殺害され、残る12名は保護されて辛うじて帰国するという「牡丹社事件」が起こった。日本政府は、この事件を利用して、琉球の日本領有確認と台湾進出を同時に果たすことをもくろんだ。
リゼンドル(米国人・日本外務省顧問)は、米国の厦門領事在任中の1867年に、台湾南部の先住民部族長のトウキトクとの間に、船舶の遭難救助に関する条約を結んでいる。清国政府は、先住民とその居住地域を「化外の民、化外の地」であるとして責任を回避したため、リゼンドルは米国政府の承認を得て、直接トウキトクと条約を結んだのである。これはあたかも、台湾に二つの政府が存在するようなものである。
外務卿の副島種臣が「日清修好条約」批准書交換のために、1873年3月に北京を訪れ、牡丹社事件に関しても清国政府と交渉した。清国政府は台湾の住民は「化外の民」で、その地域は「教化のおよばないところ」として、牡丹社事件の責任を回避した。清国政府の姿勢は、リゼンドルの遭難救助条約の締結の経緯と同じであった。これを受けて日本政府は翌1874年4月、陸軍中将の西郷従道を台湾蕃地事務都督に、大隈重信を台湾蕃地事務局長官に、リゼンドルを事務局二等出仕に任じ、台湾出兵の首脳陣とした。
西郷らが台湾南部を占領している間に、日本政府は大久保利通を全権弁理大臣として、リゼンドルをともなわせて清国に派遣した。重ねて交渉のすえ同年10月31日、日清両国の間に「北京専約」が結ばれ、清国は日本に50万両を支払い、日本は台湾から撤兵することが確認された。そして琉球の帰属に関しての明確な規定はないが、清国政府が日本の台湾出兵を国民保護の「義挙」と認め、遭難被害者の遺族弔慰金10万両を支払うことが合意された。台湾の一部を占領する目的こそ実現しなかったが、間接的に琉球の日本帰属を清国政府が認めることになったのである。
日本の台湾出兵は、それまでの清国政府の消極的な台湾経営への警鐘となった。これ以後、台湾の防衛力は著しく強化されたが、日本と一戦交えるのではなく、むしろ台湾経営を改革し、積極政策によって発展させることにあった。積極政策とは、①先住民の慰撫と封山令の廃止②渡航制限の完全撤廃③行政区画の整理と府・県・庁の拡充④台湾を兼轄する福建巡撫(省長に相当)の台湾移住⑤軍政の整頓⑥石炭の採掘などであり、台湾経営に一大転機をもたらした。
《劉銘伝の改革》
阿片戦争の後、列強は狼狽する清国の領土や属領を虎視眈々と狙っていた。日本の台湾出兵以後、台湾に直接武力侵攻したのはフランスであった。フランスは清国の属領であるベトナムの領有をめぐる、清仏戦争のさなかの1884年4月に、艦隊を基隆に強行入港させ、港を測量した上、石炭を強制的に買い上げた。同年8月にも基隆に上陸し、砲台を破壊、市街地を威嚇行進して引き揚げた。その後も9月には基隆と淡水を、11月から翌1885年2月の間に、基隆周辺の攻撃を繰り返した。フランス軍の一時占領もあったが、結局は台湾北部の占領を果たせなかった。そこでフランスは、防衛力の弱い澎湖島に目標を転じ、1885年3月に占領した。4月には、ベトナムがフランスの保護国となる前提で、清仏両国の停戦協定がなり、フランスは台湾海峡の封鎖を解き、澎湖島から撤兵した。このフランスの台湾に対する軍事行動は、いっそう清国政府に台湾の重要性を認識させ、台湾経営における積極政策を加速させるべく、改革推進派の劉銘伝(1836-1895)が台湾に派遣された。
劉銘伝は、台湾と福建を管轄する福建巡撫に就任したが、台湾と福建省の分離を建言して認められ、1885年10月に台湾が独立した「省」となると、初代の台湾巡撫に就任した。劉銘伝の改革は、住民の自己負担の原則に立ち「現地調達主義」というべきものであり、新規の事業を興すと同時に租税を整理し、新たな財源を開発した。
劉銘伝は1886年人口調査と治安対策を兼ねた「保甲」の編成を行なった。保甲制度とは「甲」を単位として住民を連座制のもとで管理するもので、10戸を一甲とし、10甲を一保として、甲には甲長、保には保正をおいた。また土地調査に着手し、土地および田畑の所有者を確定し、納税を逃れている「隠田」を摘発し、所有者を確定した。これにより地租収入は、50万両たらずから一挙に67.5万両に増大した。
鉄道事業では当初、北部の基隆から南部の台南に至るまでの縦貫鉄道の敷設が計画されたが、資金不足と劉銘伝の離任により、基隆から台北までの約32キロが敷設され、その後1893年に新竹までの67キロが完成した。これで清国統治時代に建設された狭軌鉄道は、基隆から新竹までの約100キロとなった。
●台湾民主国
《日本の野心》…リゼンドルの建言
リゼンドル(外務省顧問)は、台湾出兵に参画するとともに「北は樺太より南は台湾に至る一連の列島を領有して、支那大陸を半月に包囲し、さらに朝鮮と満州に足場をもつにあらざれば、帝国の安全を保障し、東亜の時局を制御することはできぬ」と建言し、日本政府に大きな刺激を与え、台湾領有の野心の植えつけに多大な影響をおよぼした。後日、日本の大陸政策は、ほぼこのリゼンドルの建言に沿ったものになっている。
元枢密顧問官の井上毅は、台湾の譲陽性を説き、この機を逸すれば再び機会はないと建言した。また海軍教授を経て大本営属になっていた中村純九郎も、海軍軍令部長の樺山資紀に「台湾島占領に関する建議」を提出し「南シナ海の咽喉たる台湾は、必ず日本が版図に収めなければならない」と力説している。大本営は、1895年1月澎湖島の占領を決定し、下関における日清講和会議さなかの3月26日に、澎湖島を占領させた。澎湖島の占領は、清国政府の台湾に対する支援を封じる上で、必要かつ有効な作戦だった。
日清開戦直後の1894年10月、すでに日本政府の台湾領有の野心を察知していたイギリス政府は、ロンドンの「タイムス」にこれを報道させて各国の関心を喚起し、また、フランスは日本の台湾占領に強く反対し、武力行使も辞さないことを表明した。
《台湾民主国の独立宣言》
日清講和条約は、1895年4月17日に調印された。「台湾才子」の誉れ高い邱逢甲が台湾巡撫の唐景崧を訪ね、台湾住民は割譲に反対し、徹底抗戦すると伝えた。清国政府から正式に台湾と澎湖島の割譲が通告されたのは、同月19日であった。そのなかに「台湾の割譲はやむにやまれぬことで、台湾も重要だが京師(首都北京)と比べれば軽い。台湾は海外の孤島であり、守りぬくことはできない」とあり、台湾住民を落胆と悲憤の淵に陥れた。
5月15日、邱逢甲は唐景崧を訪ね、台湾にとどまることを強請した。会見後に邱逢甲は「台湾はすでに朝廷(政府)に見捨てられた土地であり、住民に頼るべきところなく、ただ死守あるのみである」と声明し、台湾独立の意向を表明した。そして1895年5月23日「台湾民主国独立宣言」が布告された。
独立宣言には「日寇は横暴にして、我が台湾の併呑を欲す……情勢は危急をきわめ、日寇はまさに至らんとす。もしわれ屈従すれば、わが郷土は夷狄(野蛮人)に陥らん……すでに列国と協議を重ねたり、自立して後に必ずわれを援助す。わが台湾同胞は誓って倭に服せず、戦って死を選ぶ……決議を経、台湾は自立して民主国を樹立す」と勇ましい文言が並んでいる。こうして、アジア最初の共和国が誕生した。ただし、諸外国の承認を得られぬまま日本軍の進撃により、ほどなくして消えたのである。
《日本軍の台湾占領》
1895年5月10日台湾出兵の為に台湾を調査した事のある、海軍大将の樺山資紀が台湾総督に、樺山の台湾調査に同行した水野遵が、民政局長官心得に任命された。
台湾民主国の兵力は、清国の駐屯兵である正規軍と、台湾で募集した義勇(民兵)で、合わせて五万ないし十万と推定されている。士気も悪ければ、規律も乱れていた。6月6日日本軍の基隆の占領は、台北を震撼させた。基隆から台北に敗走する清国の正規軍は、その道すがら、略奪と暴行をほしいままにした。
台北城内の紳商や外国商人に請われた、鹿港出身の辜顕栄(1866-1937)が基隆に赴き、日本軍の速やかな台北入城を要請し、自ら案内役を務め、日本軍の無血入城を助けた。そして6月17日、樺山総督は元台湾巡撫衙門(役所)で始政式を行なった。
6月19日からの南進作戦は、強い抵抗にあい苦戦を強いられた。台湾の占領に投入された日本軍は、陸軍は約五万人、軍属と軍夫約二万六千人、軍馬九千五百頭で、当時の陸軍の三分の一以上が動員され、海軍は連合艦隊の大半が動員された。台湾住民は、悲壮なまでに激しく抵抗した。苦戦することになったのは、移住民の多くが、すでに台湾を父祖の地、墳墓の地として、台湾で生きる決意が強く、それだけに抵抗も激しかったのである。日本軍は台湾全島の鎮圧に五カ月も費やした。台湾住民の犠牲は、戦死と殺戮された者を合わせて一万四千人と推定され、日本軍の戦死者は278人、負傷者は653人と発表されている。まさに玉砕戦であった。また、台東の先住民の戦闘員700名が、西部の移住民とともに戦ったことも注目に値する。長らく移住民と反目していた事を考えれば、先住民の参戦は画期的な出来事であり、「台湾人」としての意識が生まれたともいえる。
指導者のあいつぐ逃亡で、台湾民主国は土台から崩れようとしていたが、資金調達のために民主国の紙幣や郵便切手は発行されていた。しかし、劉永福の脱出で中心的指導者はいなくなり、台湾民主国は崩壊した。1895年5月25日の建国から、わずかに148日間の台湾民主国であったが、台湾の歴史に痛哭の一章を記している。
台湾民主国は崩壊しても、台湾人の抵抗は続いた。劉永福の脱出後、台南城内の混乱を恐れた紳商と外国商人は、イギリス人宣教師のバークレーを使者に立て、日本軍の入城を案内させた。日本軍は10月21日に、台南の無血入城を果たし、11月18日に樺山総督は大本営に台湾全島の「平定」の完了を報告した。
●日本統治の基礎づくり
日本の台湾統治は、台湾人の武力抵抗に対する鎮圧から始まった。樺山資紀、桂太郎、乃木稀典の三代総督は、台湾民主国とその後の「土匪」または「匪徒」と称された、ゲリラとの戦いに明け暮れた。また、樺山資紀は在任十三か月足らずで交代、桂太郎は在任わずか四カ月で交代した。台湾総督でありながら、樺山も桂も心は台湾に有らずで、日本本国の中央政治に心を奪われていた。乃木稀典は、台湾統治の熱意は強く、母親を同伴しての赴任であったが、乃木の在任期間も一年四カ月と短かった。
「土匪」の鎮圧の難しさに加えて、言語の問題もあった。日本政府は台湾人が中国語(北京官話)に通じていると思い込み、中国語の通訳を台湾に派遣した。しかし、先住民や移住民のほとんどの台湾人は中国語に通じず、中国語のできる台湾人を副通訳に採用し、日本人の正通訳との間に中国語を介して、会話が行われた。この「通訳政治」は、きわめて非能率的なばかりでなく、さまざまな誤解や曲解を生じさせ混乱をもたらした。
台湾総督は行政長官であると同時に、軍政と軍令を統轄する軍事長官として、事後報告だけで臨機専行の建言を与えられており、まさに台湾に君臨する「皇帝」、台湾でいう「土皇帝」であった。台湾総督の「土皇帝」ぶりは、日本に政党政治が実現し、原敬内閣のもと文官総督が就任するまでつづいた。
台湾総督に立法権を与え、総督によって制定された法律は、特に「律令」と称して日本国内と区別し、その法域も台湾に限定された。また、台湾総督には、財政権も与えられた。臨機専行のもとで議会の監督も受けず、軍政と軍令のほかに行政権、立法権、司法権(裁判権)、財政権をも掌握する権力の集中ぶりであった。
《国籍の選択》
日本政府は、二年間の猶予期間を設けて、台湾住民に対し、台湾にとどまり日本国籍を取得して日本国民となるか、それとも所有の財産を売却して台湾をさるか、のいずれかを選択する自由を与えている。(日清講和条約の第五条)…日本政府としては、住民の抵抗もなく平穏裡に台湾を領有するため、割譲に反対する者には、あえて台湾にとどまり、日本国民となることを求めなかったのである。(退去者が携行する財産には関税を免除した。)実際に台湾を退去した者は約4500人とも6500人ともされている。いずれにしても人口の1%にもおよばず、住民の台湾定着度の高さを示している。台湾住民は国籍選択の自由を与えられたが、日本国籍を好んで選んだとはいえない。むしろやむにやまれぬ二者択一であり、これまで台湾に築いてきた生活の基盤を失うことを恐れたからにほかならない。
日本政府ならびに台湾総督府もまた、抵抗する「土匪」を除き、住民に対しては積極的に台湾からの退去を強いる政策をとらなかった。台湾は熱帯と亜熱帯に属し、日本とは生活環境が大きく異なっており、風土病をはじめとして衛生事情が悪く、ただちに日本人を移住させて開発に従事させるわけにはゆかない。台湾の開発と経営に必要な労働力を確保する見地からも、住民の流出は望ましいことではなかった。
国籍選択の期限以降、台湾総督府は台湾と中国との往来を厳しく制限した。清国の台湾における領事館の開設も拒否し、住民に対する清国の影響の排除に努めた。その結果、台湾住民は、国籍こそ「日本」であっても、植民地における宿命でもある歴然たる支配者と被支配者の関係から、真の「日本人」とはなり得ず、差別に苦しむなかで「台湾人」としての意識を強めて行った。
《後藤新平の生物学的植民地経営》
後藤新平は日清戦争終了当時、陸軍中将の児玉源太郎・臨時陸軍検疫部長(第四代台湾総督)のもとで、事務官長を務めた。児玉と後藤はここで相知り、相許すなかとなった。
台湾の阿片問題をめぐり「厳禁論」と「非禁論」が対立して、議論が湧き起っていた。後藤は「漸禁論」を唱えて「台湾島阿片制度ニ関スル意見」なる意見書を提出、これが認められて台湾総督府衛生顧問に起用された。この後藤の意見書に基づいて、1897年1月に「台湾阿片令」が布告され、阿片の専売制度が設けられた。阿片問題は後藤と台湾を結びつけ、さらに日露戦争後の満鉄総裁就任へと導き、日本の植民地経営に大きな足跡を記すことになる。……台湾人の阿片吸飲は、オランダ統治時代からの悪習であった。阿片対策は台湾人の武力抵抗の鎮圧とともに、日本の台湾領有の当面の重要課題となっていた。
児玉は兼務していた職が多く「留守総督」といわれるように、五代総督の佐久間佐馬太と1906年4月に交代するまでの八年間、台湾統治に携わる暇はなく、実質的には後藤民政長官に委ねられた。後藤は、その持論である「生物学的植民地経営」を実践して行った。後藤いわく「ヒラメの目を鯛の目にすることはできんよ。鯛の目はちゃんと頭の両方についている。ヒラメの目は頭の一方についている。それがおかしいからといって、鯛の目のように両方に付け替えることはできない。ヒラメの目が一方に二つ付いているのは、生物学上その必要があって付いているのだ…政治にもそれが大切だ…だから我輩は、台湾を統治するときに、先ずこの島の旧慣制度をよく科学的に調査して、その民情に応ずるように政治をしたのだ…これを理解せんで、日本国内の法制をいきなり台湾に輸入実施しようとする奴等は、ヒラメの目をいきなり鯛の目に取り替えようとする奴等で、本当の政治ということの解らん奴等だ」と…
植民地経営は人類愛に基づく「慈善事業」ではない。軍事力という物理的な措置で領土を獲得すれば、当然に武力による抵抗を招く。その抵抗を抑える為に、またしても武力を行使することになり、抵抗が厳しいほど弾圧も強化されて行く。後藤新平の「土匪」対策は、徹底したアメとムチの併用であった。さらに近代的な建築物や鉄道、水道、電気などの整備で植民地の住民を威圧する、いわゆる「文装的武備」によって、治安秩序の回復と支配関係の確立をはかった。そして抵抗の鎮圧にあたっては、非情なまでの手段による「鉄血政策」で臨んだ。後藤は就任後まもない1898年6月に、乃木前総督の「三段警備」を廃止し、軍隊を排して警察中心に「土匪」の鎮圧にあたった。日本の植民地統治を朝鮮では「憲兵政治」といい、台湾では「警察政治」という。
鄭氏政権に始められ、清国時代に基礎ができた保甲制度をさらに完備させ、「保甲条令」が布告された。この時の保甲制度は、警察の管轄下で連座制、相互監視、相互密告を強化し、「土匪」の鎮圧と治安の維持に大きな威力を発揮し、また総督府の意向を住民に徹底させる上でも多大な効果があった。また、「匪徒刑罰令」を布告し「土匪」「匪徒」に対して厳罰で臨んだ。後藤の就任から1902年までの五年間に処刑された「土匪」は32000人にも達しており、当時の台湾の人口の1%を越えている。
台湾人に対して苛酷なムチで臨む一方、後藤は懐柔策もほどこしている。後藤は台湾人の弱点として、①死を恐れ、高圧的な威喝に弱い。②銭を愛し、利益誘導に弱い。③面子を重んじ、虚礼と虚位で籠絡しやすいことを挙げている。これらの弱点を利用しての統治は「治台三策」といわれる。また、投降を奨励し、投降者には刑を免除するほかに、更生資金と職業を与えた。こうして後藤新平が台湾を去る1906年までに、大規模な武力抵抗はほとんどなくたった。
生物学的植民地経営の理念から、各種の調査事業も行われた。まず1898年に土地調査が始められ「台湾地籍規則」と「台湾土地調査規則」が布告された。この調査で台湾の耕地は、調査前に予想した30万5600甲をはるかに越して、田が約31万3700甲(一甲は9700㎡)畑が30万5600甲の約62万甲となり、地租徴収の基礎となった。この調査では、日本国内でもまだ用いられていなかった最新の三角測量法が採用され、正確な地図の作成に役立っている。また、1901年「臨時台湾旧慣調査会規則」を布告し、学者による分析が行われた。これは台湾の行政のみならず、今日でも清国ならびに中国学の研究に役立っている。1903年には「戸籍調査令」を布告し、台湾初の人口調査を行なった。台湾の人口は約304万人、その内訳は、台湾本島人(台湾人)は約298万人で97.8%(閩南系は約249万人で82%、客家系は約40万人で13%、平地先住民は約5万人で1.53%、山地先住民は約4万人で1.2%)日本人5万7千人で1.89%、中国人を含む外国人は約1万人となっている。
「土匪」を鎮圧しつつ、台湾経営の基礎とする土地調査、旧慣調査、人口調査を行う一方、後藤新平は産業開発のためのインフラ(経済活動の基盤となる交通、運輸、港湾などの施設)の整備にも着手した。台湾総督府は1897年4月布告の「台湾銀行法」に基づいて、1899年7月に台湾銀行を設立、9月に開業した。台湾のインフラ整備に必要な事業公債は、台湾銀行を通じての調達であり、台湾銀行の役割には大きなものがあった。硬貨になじんでいた当時の台湾人には、紙幣の流通は貨幣革命であった。
台湾総督府は1901年に「台湾公共埤圳規則」を布告した。埤は貯水池、圳は灌漑用河川のことで、つまり農業振興のための水利灌漑施設の整備に関する規則であり、あわせて新たな耕地の開拓に資するものであった。水利灌漑事業は後藤が台湾を去った後にも受け継がれ、台湾の耕地面積は1919年に75万甲、1941年には88万甲に達し、そのうち水利灌漑のおよぶ耕地は約54万6000甲であった。水利灌漑事業は、台湾の農業生産に飛躍的な効果をもたらし、地租の増収にも貢献している。
後藤新平は、オランダ統治時代からの輸出産業の一つである製糖業の育成にも努めた。旧式製糖技術の革新に腐心する後藤は、新渡戸稲造を台湾に招聘した。製糖技術と設備の近代化で、砂糖の品質と生産高は大いに高まり、税収の増加に大きく貢献した。病み上がりの新渡戸の為の「昼寝付き」の招聘に見るように、後藤新平は台湾総督府に必要な人材に対しては、異例破格の条件で多くの優秀な人材を集めている。また、通信網の整備では日本本土との通信設備を整え、台湾各地に郵便局と電信局を開設した。公衆衛生に関しては、いちはやく台湾医学校を開校して医者を養成するとともに、各地に総督府立病院を建設した。また、強力な警察組織を通じて、伝染病患者の隔離を徹底させ、住民に種痘と伝染病の予防注射を強制した。
児玉総督と後藤長官の在任中は、台湾経営に多くの成果を挙げた。そのなかでも1905年度から、日本政府の台湾総督府特別会計に対する補助金を辞退することにより、領有から10年ほどで台湾の財政独立を実現させたことはよく指摘される。後年、矢内原忠雄東京帝国大学教授は「台湾のごときは本国財政及び経済にとり最も価値多き植民地」であると評価している。
●日本殖民地下の近代化
1918年9月に政友会を基礎とした原敬内閣が発足した。日本の政党政治は台湾総督の人事にも強く反映し、これまでの武官総督に代わり、文官の総督就任に道を開いた。
原敬は外務次官当時の1896年2月、台湾事務局に「台湾問題二案」(同化政策と非同化政策の二案)を提出し、台湾統治に関する基本政策として、フランスの植民地のアルジェリアにならい「内地延長主義」(国内の法律や制度を植民地に延長して通用させる)の同化政策を主張した。しかし、日本政府と台湾総督府がとった施策は、原敬の急進的な同化政策でもなければ、後藤新平の「ヒラメの目と鯛の目」の比喩にあるような非同化政策でもなく、その中道を行く「激進同化政策」であった。
異民族による植民地統治は、支配される民族の伝統的な文化を破壊し、政治的な従属を強調し、経済的な圧迫を加える為、必然的に支配される民族の抵抗運動を惹き起す。日本の台湾統治も例外ではなかった。抵抗運動には武力抵抗と政治運動があり、台湾の場合は1915年の「西来庵事件」の前後を境に、「非合法」の武力抵抗から合法的な政治運動へと移行して行った。
台湾人が合法的な政治組織を通じて、日本の植民地統治に抵抗した最初は、1914年12月に発足した「台湾同化会」の運動であった。台湾同化会は、明治の元勲である板垣退助を中心に、台湾中部随一の資産家である林献堂(1881-1956)らの奔走で結成され「内地人(日本人)台湾人ヲ以テ組織シ、互ニ親睦交際ヲ厚クシ、渾然同化ヲ計リ、以テ一視同仁ノ皇猷ニ応ヘ奉ル」ことを趣旨とする組織であった。しかし、この運動に加わった台湾人の真の目的は、日本への同化よりも日本人と平等の待遇を要求することにあった。そのため運動は、総督府の猛烈な弾圧と在台湾の日本人の中傷のもとで、「公安ヲ害スルモノ」とされ、台湾同化会は翌年二月に解散を命じられた。
……第一次世界大戦後の民族自決の潮流のなかで、各国植民地に勃興する民族運動に刺激され、また日本における大正デモクラシーの影響を強く受けていた。この頃の台湾人留学生の心情の一端は、「1920年7月に創刊された『台湾青年』の創刊の辞に、「諸君!立てよ、時期はまさに到来した。義を見て為さざるは勇なき懦怯者、世界の潮流に反抗するものは文明の落後者…」と、高らかに謳っているところに垣間見ることができる。……意図するところは台湾人の地位の改善と向上を実現する事であった。『台湾青年』は台湾史上、台湾人が発行した最初の政論雑誌である。
《台湾議会設置請願運動》
新民会は啓発会の「六三法」撤廃運動を引き継いだが、議論を進めるなかで明治大学法科を卒業し、後に弁護士となった林呈禄が、「六三法」の撤廃運動は、台湾人みずから台湾の特殊性を否定し、原首相および田総督のいわゆる内地延長主義にもとづく、同化政策を肯定するものであるとして、運動の中止を主張し、植民地自治の理念に基づき、台湾の特殊性を強調する「台湾議会」の設置を求める運動を提唱した。
新民会の林献堂会長は、運動の目標を台湾の自治の獲得に定めながらも、自治運動が極端に走れば、日本政府ならびに台湾総督府の同化政策との正面衝突を招くと判断し、また、必要以上の刺激を与えることを警戒して、無用の弾圧と犠牲を避けるため、完全な自治を要求する主張を退けた。そして自制的に台湾総督の立法権および財政権の特別会計に対する予算編成の協賛権を要求する「半自治」を獲得するための台湾議会設置請願運動を主張した。……1921年から、日本統治下の台湾の自治をめざす、近代的かつ合法的な民族運動である、「台湾議会設置請願運動」が始まり、1934年を最後に請願を中止するまで、14年にわたり、15回におよぶ帝国議会への請願が展開された。しかし、日本政府および台湾総督府は、当面は自治の獲得が目的であっても究極的には台湾の独立をめざすものとして警戒した。そのため帝国議会のたいおうは、「不採決」「上程せず」「審議未了」のいずれかで、結局は台湾議会の設置は実現しなかった。
この運動に対して理解を示すだけでなく、理論的な側面から支援した日本人学者もいた。東京帝国大がの矢内原忠雄教授などである。また、日本の政治家の中にも協力者がいた。日本人の支援が、台湾人を勇気づけたことは言うまでもない。
台湾議会設置請願運動と台湾文化協会を分離し、新たに「台湾議会期成同盟会」を設立する構想があり、これを察知した台湾総督府は、ただちに国内法の「治安警察法」を台湾にも適用させて、台湾議会期成同盟会の設立に備えた。
台湾で禁止された台湾議会期成同盟会は、ただちに東京で同名、同目的、同会員の組織を結成し、内務大臣の許可を得た。……台湾総督府は「法域は違っても、会員の大部分が旧結社員にして会名も同一だし、台湾島内で活動している」との理由で、1923年12月16日に台北地方法院三好一八検察官長の指揮で、警察を一斉に動員し、台湾文化協会と台湾議会設置請願運動の関係者を治安警察法違反の容疑で逮捕した。同時に事件に関する報道を禁止し、日本本土向けの電報と書信を検閲するという、徹底した処置をとった。この「治安警察法違反事件」で、99名が家宅捜索と召喚を受け、うち拘留された者は41名、蒋渭水をはじめとする18名が翌1924年1月に起訴された。第一審では「証拠不充分」として全員無罪、第二審では蒋渭水をはじめとする8名が、三ないし四カ月の禁固、蔡式穀ら5名が罰金100円の判決を下された。第三審は第二審を支持し、刑は確定したのである。
三好検察官長は法廷論告において、日清講和会議で清国全権の李鴻章が伊藤博文に語った「台湾人は五年に一大乱、三年に一小乱」の言葉を引用し、日本の台湾領有から1915年までの「土匪の反乱」を例に挙げ、台湾人の反逆的な民族性を強調し、台湾人には自由の権利を要求する資格はない。台湾人が同化政策を喜ばないならば、この際、台湾から立ち去るがよいと述べている。これに対して弁護人の渡辺暢(貴族院議員)は、①台湾で禁止された結社を解散し、東京で新たに同名同目的の結社を結成したのであり、法律には問題ない。②同化政策は政府の政策であっても、これに反対したからといって反逆者とはいえない。③台湾議会期成同盟会の東京での合法的な行動を台湾で罰するのは、法域が異なっていることを無視している。④同化主義に反対する者は台湾から出てゆけ、というのでは異民族を同化できないと反論している。また清瀬一郎(衆議院議員)は、①請願を反逆とする心理をもって台湾統治にあたるのであれば、永遠に台湾人を承服させることはできない。②同化政策はもはや陳腐な考えであり、台湾人の要求は当然である。③合法的な政治運動でさえ、強権をもって圧迫を加えており、これがさらに大きな問題を惹き起す。④司法は諸刃の剣であり、偏見をもって運用すれば国家も被告人も傷つく、と弁論した。清瀬弁護人は三好検察官長の、台湾人が同化政策を喜ばないならば、台湾から去るがよいとの論告に触れた際に感情を抑え切れず、「台湾に生まれ、台湾に生活し、しかも帝国臣民でもある台湾人が、同化政策に反対したことで、台湾から退去せよというのは、国法、人道共に許せない暴論である」と声を詰まらせ涙をこぼして弁じ、法廷に大きな感動を与えた。渡辺暢と清瀬一郎は、この裁判を機に、貴族院と衆議院に対する台湾議会設置請願の紹介議員となり、請願運動が中止されるまで協力を続けている。
台湾総督は台湾における司法権を有し、裁判官も検察官もその指揮下にある。当然、治安警察法違反事件の裁判の結末は当初から予想できたが、裁判の過程を通じて自治獲得の要求の正当性と、問題の本質が明らかになった。そして何よりも、台湾人の民族運動が初めて法廷闘争の手段で争われ、法治国家の市民としての意識が培われることになった。これらの意義には、はかり知れないものがある。以後、政治運動で入獄した政治犯は英雄視され、数か月か一年や二年の入獄は「食事つき無賃宿」の感覚でとらえられるようになった。しかし、このような認識と感覚は植民地下とは言え、「法治国家」だからこそ通用したもので、第二次世界大戦後の中華民国国民党政権の下では通用せず「二・二八事件」で台湾人指導者や知識人の犠牲を余儀なくさせたのである。
《台湾文化協会の分裂》
台湾文化協会の会報第一号には蒋渭水の「台湾の臨床講義」が掲載されている。それによると台湾は「原籍…中国福建省、現在…日本帝国台湾総督府」「病状…道徳退廃、迷信、知識浅簿、卑屈、怠惰」「診断…世界文化の低能児、知識栄養の欠乏」「治療…知識栄養剤の補給」の状況にあり、厳しい自己批判といえる。蒋渭水のこのような刺激的な表現は、当時の台湾人には衝撃であったろう。台湾文化協会は台湾議会設置請願運動を推進すると同時に、まさに台湾人に「知識栄養剤」を補給する役割を担い、さまざまな文化活動を展開した。……台湾人意識の啓蒙、知識の向上、政治への関心、ことに日本の植民地支配に対する批判の喚起であった。……あらゆる活動は、治安警察法に基づく、警察の厳しい監視と取締まりのなかで行われた。しかし、警察の干渉や警察との衝突は、かえって台湾人意識を向上させた。台湾文化協会の創立から分裂までの六年間は、「台湾人のルネッサンス」といっても差し支えないであろう。この六年間は、台湾人の民族運動の「統一戦線」といわれるように、あらゆる勢力が結集した貴重な一時期であった。
時代は1921年の中国共産党と翌年の日本共産党の結成にみられるように、社会主義や共産主義の運動が高揚し、階級闘争が台頭した頃であり、台湾もその影響から逃れられなかった。台湾人の「統一戦線」とは、台湾文化協会のもとに民族主義も社会主義も、つまり右派と左派の別なく結集したものにほかならず、したがって民族運動の台湾議会設置請願運動から農民闘争や労働争議にいたるまで始動した。しかもそれらがことごとく強権のもとで抑圧されたことで、「合法的な抵抗運動」に対する疑問や批判が生じ、イデオロギー論争から路線闘争へと発展し、ついには台湾文化協会の主導権は左派の握るところとなった。たもとを分かった右派の蒋渭水や蔡培火らは、1927年7月に台湾史上最初の合法的な政党である「台湾民衆党」を結成したが、もはやかっての台湾文化協会のような勢いはなかった。そして台湾民衆党は、蒋渭水の指導下で左傾してゆくなか、右派の林献堂や蔡培火らが脱党して、1930年8月に「台湾地方自治聯盟」を結成した。台湾民衆党は指導者の分裂に加えて、1931年2月の結社禁止命令により、四年足らずで解散を余儀なくされた。
台湾人の民族運動の最左翼ともいうべき「台湾共産党」は、コミンテルンの指導と援助により、1928年4月に上海のフランス租界で結成された。台湾が日本の植民地であったため、台湾共産党は組織上、日本共産党の「台湾民族支部」となり、その指揮と命令下におかれていた。ここで留意したいのは、台湾共産党の綱領に「台湾民族の独立」と「台湾共和国の建設」を掲げ、日本の台湾領有を正面から否定していることである。……台湾共産党は地下活動の域を出なかった。そのため左派の牛耳るところとなった台湾文化協会を浸食し、1931年には完全に主導権を掌握するにいたり、台湾文化協会は終焉を迎えた。台湾地方自治聯盟も1937年7月、日中戦争勃発の一週間後に自発的に解散し、ここに台湾人の政治運動は、台湾から姿を消したのである。
《教育の充実》
後藤新平は「教育は諸刃の剣」との考えから、台湾人に必要以上の教育をほどこすことには消極的であった。しかし、やがて産業が発展するにしたがい、総督府は台湾人を近代化産業の労働者や下級官吏、中堅技術者として育成する必要から、学校教育の充実をはからざるを得なかった。
清国統治下の台湾での教育は、「書房」と称する私塾で行われたが、総督府は台湾領有の翌年の1896年に、台北に「国語学校」を設立し、台湾各地にも「国語伝習所」を開設した。国語学校は教員養成の「師範部」(後の師範学校)と、中等教育をほどこす「国語部」の二部に分かれ、各地の国語伝習所は1898年から、台湾人児童の初等教育機関としての公学校となった。1899年には「台湾医学校」が設立され、その後1919年までに、各地で中学校や高等女学校、職業学校があいついで開設された。清国統治時代の教育とは隔世の感があるが、政策的に日本本土の教育体系との連携が断たれていたため、本土の上級学校へ進学する道は閉ざされていた。ちなみに在台湾の日本人児童や生徒は、本土同様の「小学校」や「中学校」に就学、このようなところにも台湾人に対する差別と「教育は諸刃の剣」であることへの警戒が垣間見られる。
文官総督の就任と同化政策の推進は、台湾の教育を著しく豹変させ……同化政策のもとで本土と台湾の教育制度の一元化も進められた。日本が台湾を放棄する一年前の1944年には、小・公学校1109校、生徒数93万2475名、師範学校3校、学生数2888名、職業学校117校3万2718名、高等女学校22校、1万3270名、中学校22校1万5172名、高等学校1校563名、専門学校4校1817名、帝国大学1校357名を数えるまでになっていた。ことに1944年の児童の就学率は、92.5%という驚くべき高さであり、戦闘要員の養成が急務の戦時体制下とはいえ、各国の植民地の教育状況と比較しても、台湾は格段に教育の普及に力を注いでいたことが窺える。
日本植民地下の台湾における教育の重視は、イギリスの植民地マラヤと比較しても特筆すべきものがある。イギリスは1786年からマラヤに進出したが、唯一の大学(マラヤ大学)を設置したのは、1世紀半も過ぎた1948年のことである。日本が台北帝国大学を設立したのは1928年、台湾領有から33年後のことである。大学の設立には小学校、中学校、高等学校の整備が必要であり、それを考えればイギリスのマラヤと、日本の台湾における教育に対する姿勢には、雲泥の差がある。……日本の植民地支配を肯定するものではないが、植民地下の近代化、わけても教育の充実がなければ、1970年代以降の台湾経済の飛躍的な発展はなく、いま少し先のことになっていたと思われる。……日本の台湾統治の最大の「遺産」は、インフラ整備におけるソフト面としての教育であり、これなくしては台湾人の近代的な市民としての目覚めは、大幅に遅れたであろう。また、植民地統治下の台湾では、日本人官吏や警察官と比べて、概して教師は使命感が強く人格的にも優れ、敬愛と信頼を集めていた。……今日の台湾人年配者に多く見られる親日感情は、これら日本人教師の存在が大きい。日本が台湾を放棄した後、新たな支配者となった国民党政権は、日本植民地下の教育を「奴隷化教育」と決めつけているが、それは近代的な市民意識に対する認識を欠く為政者が、自らの独裁と腐敗の政治を隠蔽し、責任を転嫁するための口実に過ぎない。
●日本戦時体制下の台湾
戦時体制に対応するため1936年9月に、予備役の海軍大将・小林躋造が台湾総督に起用された。いわゆる「後期武官総督時代」の始まりである。小林総督は、就任早々に、台湾人の「皇民化」、台湾産業の「工業化」、台湾を東南アジア進出の基地とする「南進基地化」を、台湾統治の基本政策とすることを表明した。
皇民化とは、文官総督時代の同化政策をさらに強化するものであり、「皇国精神の徹底を図り、普通教育を振興し、言語風俗を匡励して忠良なる帝国臣民たるの素地を培養」することを目的とした。……新聞の漢文蘭の廃止、日本語の使用の推進、寺や廟の偶像の撤廃、神社参拝の強制、台湾の慣習による儀式の禁止などが、やつぎばやに実施されて行った。これら台湾人の精神改造ともいうべき伝統文化の破壊は、まさに強権の発動によるものであり、1940年2月11日の「皇紀2600年記念日」には、台湾人の日本名使用を進める「改姓名運動」も開始された。……皇民化運動は台湾人の日本人化ばかりでなく、戦時体制の完成と戦争遂行に向けての、全台湾人を巻き込んだ大々的な運動であった。
日本は太平洋戦争に突入する前から、東南アジアのイギリス、フランス、オランダの植民地への進出、つまり「南進」を準備していた。それを象徴するのは、1936年11月に勅令により設立された「台湾拓殖株式会社」である。政府と民間が同額出資する半官半民の国策会社である。投資先は台湾をはじめ、日本軍の占領する中国南部、東南アジアの各地におよんでいる。投資対象は開拓、植民、商工業、鉱業、運輸業…と多岐にわたっている。
植民地の経済を宗主国の経済に従属させ、かつ植民地の資源や原料を提供させ、宗主国で商品化した後に植民地をマーケットとするのが、植民地経営の定石とされている。文官総督時代までの台湾経済は、ほぼこの定石に沿ったものである。ところが戦時体制下の台湾の産業の振興はこの定石を覆し、軍需工業に関連する重工業を急速に発展させた。特に太平洋戦争に突入する過程において、原料の供給はもとより重工業の分散、南進の補給基地などの要請から、台湾の重工業は飛躍的な伸長を遂げたのである。
日中戦争を契機に、さらにその後の太平洋戦争突入で「南方作戦の兵站基地」となるにおよんで、軍需関連産業が驚くべき速さで育成され、鉄鋼、化学、紡績、金属、機械などの近代的な工業が活況を呈した。1939年にはついに工業生産が農業生産を上回り、総生産額の45.9%を占める5億7000万円となり、台湾は工業社会への戸口に到達したのである。
《戦時体制下の台湾人》
亜熱帯と熱帯にまたがる台湾は、米の3毛作も可能であり、品種改良の成功もあって、米の生産が順調に伸び、日本の「穀倉」とさえいわれた。しかし、戦争が拡大するにつれて食料の統制が必要となり、1943年には「台湾食糧管理令」が布告された。これに基づき「台湾食糧営団」が設けられ、食料の統制と配給も開始された。ここに至り台湾人は初めて、食料の厳しい統制と不足を経験した。それまでは日中戦争における日本の一方的な勝利と、太平洋戦争の緒戦における日本軍の輝かしい戦果が伝えられており、一般の台湾人は日本の勝利を信じていた。それだけに食料の統制と配給は、深刻な事態を実感させた。
本来、日本政府は台湾人に兵役の義務を課さなかった。ところが戦線の拡大につれて、兵員が不足するにおよび、台湾人は軍属や軍夫として徴用され、大量に前線に送られることになった。そして「志願兵」の名のもと、1942年4月から「徴兵」が始まった。「陸軍特別志願兵」である。1944年までの三年間に約6000名の志願兵が前線に送られ、そのうち先住民の約1800名が「高砂義勇隊」を編成している。こうして台湾人も直接的に戦争に関わることになり、戦争はもはや日本人だけのものではなくなったのである。
戦局の悪化と著しい兵員の消耗にともない、1944年9月に台湾にも徴兵制が施行され、この時には2万2000名が招集された。皮肉な事に、この徴兵制の施行に合わせて、翌年三月に衆院議員選挙法が改正され、わずか5名とはいえ、初めて台湾人を帝国議会に送る国政参加の道が開かれた。最もこの権利は、一度も行使する機械を得ないままに終戦を迎え、日本の台湾放棄により、台湾人は「日本人」でなくなった。ちなみに、1973年4月の厚生省援護局の資料によれば、戦争に駆り出された台湾人の軍人は8万433名、軍属と軍夫は12万6750名で、合計20万7183名であり、戦死および病死者は3万304名となっている。これは7人に1人の高率であり、終戦時の台湾人口(約600万人)のほぼ200人に1人が、戦争の犠牲となったことになる。これら3万余の台湾人犠牲者をはじめ、負傷した軍人、軍属、軍夫は、戦後、日本国籍を失ったことを理由に、何らの補償も受けていない。その後、1974年末にインドネシアのモロタイ島に残留、30年ぶりに発見された元日本兵で先住民のスニオン(日本名は中村輝夫)の救出を契機に、台湾人元軍人、軍属、軍夫の補償運動が展開された。訴訟では日本国籍の喪失を理由に敗訴となったが、1987年9月に成立した議員立法の「台湾住民である戦歿者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」で、戦病死と重傷者を対象に1人につき200万円の弔慰金が、日本政府から支払われた。しかし、同じ「日本兵」として戦地で血を流しながら、戦後における日本人と台湾人の処遇には雲泥の差がある。また、米国や英国、フランスなど宗主国として植民地の民を戦場に送った国々は、手厚い戦後補償をほどこしている。この彼我の違いを見れば、台湾人に対する「一視同仁」や「皇民化」の同化政策は、統治の手段に過ぎなかったと批判されても仕方ない。
《敗戦と台湾人》
敗戦は日本人ばかりでなく、日本人以上に台湾人の運命を大きく転換させることになった。敗戦直後においては、一般の台湾人にはこの敗戦が何を意味し、何をもたらすか、ほとんど分からなかった。敗戦といっても台湾総督府をはじめ行政機関は健在であり、日本軍もまだ駐屯していた。ごく一部の知識人だけが米国の放送を通じて、1943年11月の「カイロ宣言」や、1945年7月の「ポツダム宣言」をひそかに聞いており、日本の敗戦が「台湾の中国への返還」をもたらすことを知っていた。そして、50年におよぶ長い植民地支配の重圧から解放を喜ぶ人もあれば「昨日の敵」が「明日の祖国」となることに複雑な思いを抱く人もあり、中国と台湾の近代化の格差を知る人の中には、台湾独立の機会到来と考える人もいた。だが悲しいかな、台湾人は自らの運命を決定することはできなかった。在台湾の日本人の一部は、敗戦の現実を受け容れず、台湾人と力を合わせて台湾の独立を計った。しかし、安藤総督は台湾独立に反対し、自治運動も禁止した。後日、国民党政権はこの「台湾独立計画」の関係者を処罰し、1年10カ月から2年2カ月の禁固刑に処した。
《敗戦と在台湾の日本人》
終戦当時の在台湾の日本人は、軍人16万6000にを含めて約48万8000人であった。一般人は日本本土の混乱と食糧難、台湾の生活になじんでいること、敗戦とは言えほとんど台湾人からの報復が無かったことなどから、約20万人が台湾に留まることを希望した。しかし、台湾を接収した国民党政権は、大量の日本人の残留を許さなかった。……日本人の引き揚げは1946年4月20日に完了した。引き揚げ者は一人につき現金1千円と途次の食料、リュックサック2袋分の必需品の携帯が許された。半世紀かけて営々と築いてきた、有形無形の財産のあらかたを残しての帰国である。……国民党政権が必要とする技術者や教師など28000人弱が「留用者」として残った。……1946年4月13日、最後の台湾総督安藤利吉が戦犯として逮捕された。安藤は上海に送られたが、そこで自殺した。
●虐殺と粛清の二・二八事件
台湾の領有権の変更に関する国際条約もないまま、素早く台湾を中国の「台湾省」としたのは、カイロ宣言に依拠してのことである。……国民党政権は戦勝国とはいえ、米軍の全面的な支援を得ての台湾占領であった。この時の国民党軍の低い士気とわびしい身なり、劣悪な装備を目の当たりにした多くの台湾人は、日本軍とのあまりの違いに驚愕し、日本が中国に敗れたとは、とても信じられなかった。そして「日本は米国には負けたが、中国には負けていない」という噂の正しかったことを確信した。
《祖国と敵産の接収》
1945年10月25日、陳儀行政長官がラジオ放送を通じて「今日より台湾は正式に再び中国の領土となり、すべての土地と住民は中華民国国民政府(国民党政権)の主権下におかれる…」との声明を発表した。この声明は台湾の領有権の変更のみならず、台湾人の意志にかかわらず一方的に、その国籍を日本から中華民国に変更するものであった。この点、日清戦争後の台湾割譲にともない、台湾住民には二年間の猶予期間が与えられ、国籍の選択が認められたのとは、著しい違いであった。台湾人の国籍は中華民国となり、本省人と称され、中国から新たに渡ってきた中国人を「外省人」と称して区別した。……日本の降伏を受けて、ただちに総督府に台湾省行政長官公署が、台湾軍司令部に台湾警備総司令部が発足し、敵産(日本企業)の接収も始まった。1947年2月末日までに、土地を除き接収された財産は、①公的機関593件、29億3850万円②民間企業1295件、71億6360万円③民間の私有財産4万8968件、8億8880万円で合計5万856件、109億9090万円であった。当時の貨幣価値からすれば膨大な資産である。国民党政権はこれらの元台湾総督府を頂点とする統治組織を基礎に、いとも簡単に台湾における統治機構を構築し、台湾経済を全面的に掌握した。また、接収の過程で官僚の私服も肥やされたのである。
日本人が律儀に作成した財産目録に基づき外省人官吏が接収するが、その目録は改竄され、接収財産の一部は着服されて姿を消した。日本の教育が浸透し、法治国家の市民に成長していた台湾人の目には「祖国」の官吏の公私混同と腐敗ぶりは、これまた驚嘆すべきものに映った。台湾人の胸中には「祖国」と国民党政権への失望と軽蔑が芽生え、日を追って膨らんで行った。
国民党政権は日本の統治機構や財産を継承したばかりでなく、台湾を占領してしばらくの間は統治制度も踏襲した。行政長官は職権の範囲内において諸令を発し、台湾に施行する蜂起を制定する権限を付与されている。また、警備総司令官を兼任していることから、軍令と軍政を含む軍事権も有した。これは日本統治時代の武官総督に匹敵し、立法、行政、司法、軍事の諸権限を一身に集める、新たな「土皇帝」であった。そして、日本統治時代末期の1944年に廃止された保甲制度が復活され、以前にも増して厳しいものとなった。
国民党は「レーニン式の一党独裁」に近い政党であり、「以党治国」(党が国を治める)をめざした。国民党政権は特務機関と称される治安情報組織をその統治の支柱としており、日本の敗戦直後に特務人員を台湾に潜入させ、いたるところに組織網を広げていた。警備総司令部の特務室を頂点に長官公署から末端の地方行政機関はもとより、公共団体や学校、公営企業にいたるまで、特務の監視網が張りめぐらされた。
台湾総督府はじめ行政機関や日本の企業は台湾人を差別し、ほとんど上級職に登用することはなかったが、下級職には優秀は台湾人がたくさんいた。これら能力ある台湾人は、「祖国」に復帰したからには、活躍の場を得られると期待していたが、果たせなかった。国民党政権は重要ポストや管理職のほとんどを外省人で独占した。しかも学識や経験、能力に劣る者が多かったため、台湾人の不満を募らせた。
国民党政権は台湾を占領接収するとともに、台湾と日本の関係を断った。これにより台湾経済も中国経済の一環となり、過去の日本従属から中国従属へと移行した。当時の中国経済は、対日抗戦に続いての国共内戦で、疲弊し崩壊寸前の状況にあり、当然、台湾にも波及した。……経済崩壊寸前の中国は、物資の欠乏とインフレにより、物価の上昇は天井知らずで、台湾に移出する製品の価格に連動し、否応なしに台湾の物価を押し上げた。
国民党政権は台湾占領後、従来の台湾円を一対一の比率で台湾元に切り換え、台湾の通貨とした。そして台湾元と中国の通貨である法幣(後に金元券に変わる)の交換レートを固定相場制とし、台湾元を不当に低く抑えたため、移入商品の価格はさらに押し上げられた。中国の悪性インフレは、交易と通貨の交換レートを介して台湾にも波及し、台湾経済は破局的な状況に陥っていた。固定相場制は後に変動相場制になったが、それでも台湾元の価値は不当に評価されたままであった。
台湾は「穀倉」といわれてきたが、1945年11月末には、全台湾規模で深刻な米不足となっていた。これは台湾の米を中国に移出したからで、米不足は米の価格を吊り上げた。終戦時の台北の米価は、一斤(600g)20銭であったのだが、11月には60倍の12元にも跳ね上がった。台湾のあらゆる物産が不当な低価格で、中国に移出または密輸されたため、早くも1946年早々には、著しい物資の欠乏とインフレの昴進の二重苦に台湾人は直面していた。しかし、国民党政権は紙幣の増刷で対処しただけだった。1945年9月の発行額は19億3000万元であったが、翌年5月には29億4300万元、同年末には53億3000万元、1947年末には171億3300万元、1948年末には1420億4000万元となっている。
経済状況の悪化に加えて、失業者の急増による社会的な混乱も深刻化した。日本の敗戦で大量の留学生が日本から戻り、前線からも軍人や軍属、軍夫が帰還したが、これらの人員を受け容れる職場はなかった。そればかりか、爆撃で操業不能となった工場や、接収しても順調に稼働しない工場もあり、わけても国民党政権の意図的な台湾人排除により、就労機会は極端に減少し、30万人以上もの台湾人失業者が巷に溢れた。治安も悪化し、日本統治時代の「法治国家」から一転して「無法地帯」となった。
国民党軍兵士の強奪や狼藉、官吏の腐敗と貪欲ぶりには目に余るものがあった。国民党軍の占領まもない頃から、台湾人は「同胞」という新たな支配者に失望し始め、不満を抱くとともに批判するようになった。「犬(日本人)去りて豚(中国人)来たる」とまで嘆くようになった。要するに日本人はうるさく吠えても番犬として役立つが、中国人は貪欲で汚いと言うのであるが、そこには台湾人は日本人や中国人とは違った存在であるという、潜在的な意識があることに注目したい。
1946年3月に「人民自由防衛委員会」が発足、たちまち台湾各地に波及した。……台湾大学教授の林茂生(1887-1947)が主宰する『民報』の社説で「もはや台湾の法と秩序の維持は、完全に警察に任せられない状況にあり、光復して間もない今日、人民は自衛措置をとらざるを得ない」と論じ、長官公署の無能と腐敗を糾弾するとともに、厳しく批判した。……この頃の知識人の要求は、もっぱら行政改革と地方自治の実行、陳儀行政長官以下の貪官汚吏の更迭であった。しかし、長官公署はじめ南京の国民党政権中央は、この切実な要求と巷に溢れる不満の声に貸す耳を持たなかった。そればかりか1946年12月に制定され、1年後に施行される予定の「中華民国憲法」の台湾適用について、陳儀行政長官は1947年1月に「台湾人民は長期にわたり日本の統治下におかれたため、政治意識が退化しており自治能力を欠く」ことを理由に、二、三年先とすると明言し、台湾人の怒りをさらに助長した。
《二・二八事件》
台湾人の不満が鬱積していた1947年2月27日の夕暮時、台北市の淡水河沿いの台湾人商店街の大稲埕で起きた、密輸タバコ売りの取締まりに端を発したいざこざは、たちまちにして全台湾規模の「二・二八事件」に発展した。タバコは専売局の専売品で、重要な財源であった。しかし長官公署の高官や関係者は、大量のタバコを密輸して稼いでいた。言わば密輸タバコの元締めを放置しながら、末端の街頭小売人ばかりが摘発されることに、日頃から台湾人は不満を抱いていた。
大稲埕のいざこざは、次のような事であった。……取締員の傅学通(広東人)ら六名が、中年の台湾人寡婦の林江邁から、商品の密輸タバコの没収だけでなく所持金までも取り上げたため、林は跪いて現金の返却を哀願したが、返却されないばかりか銃で頭部を殴打され、血を流して倒れた。憤慨した群衆が、一斉に取締員らを攻撃したため、取締員らは逃げながら発砲、傍観の一市民にあたって即死させた。それがいっそう群衆を刺激することになり、ただちに近くの警察局と憲兵隊を包囲して、逃げ込んだ取締員らの引き渡しを要求したが拒否された。一夜明けて翌28日午前、怒った群衆は専売局台北分局に抗議し、分局長と三名の職員を殴打して、書類や器具を路上に放り出して燃やした。午後、群衆は長官公署前広場に集まり、抗議のデモを行うと同時に政治改革を要求した。ところが長官公署の屋上から、憲兵が機関銃で群衆を掃射し、数十人の死傷者が出る惨事となった。ここにいたり事態は緊迫し、台北市の商店は軒並み閉店、工場は操業を停止、学生も授業をボイコットし、万余の市民が抗議の輪に加わり、市中は騒然となった。警備総司令部は台北市に戒厳令を布告したが、市民は放送局を占拠して、全台湾に向けて事件の発生を知らせた。三月一日には事件は台湾全土に波及し、大都市だけでなく一部の地方でも騒動が起こり、憤激した市民が官庁や警察局を襲撃し外省人を殴打して、一年余の国民党政権に対する不満をぶつけた。軍や憲兵隊、警察は発砲して鎮圧をめざしたが、収拾するどころか事態は益々悪化した。この日『民報』は、事件について「官吏と軍人の無規律、横暴、貪欲」が原因と指摘し、国民党政権を批判する論調を掲げている。
台北市では三月一日に、民意代表からなる「緝烟血案」(タバコ取締まり流血事件)調査委員会」が結成され、代表を陳儀行政長官のもとに派遣して「二・二八事件処理委員会」の設置を要求して承諾を得た。翌二日、台北中山堂に民意代表を中心とした二・二八事件処理委員会が招集され、長官公署も五名の官吏を出席させた。五日午後、正式に「二・二八事件処理委員会組織大綱」が採択された。その要点は、①長官公署秘書長、民政、財政、工硡、農林、教育、刑務などの処長、法制委員会委員の半数に台湾人を起用②公営企業の経営を台湾人に委ねる③ただちに県長や市長の民選を実施④専売制度、貿易局、宣伝委員会の廃止⑤言論、出版、集会の自由の保障⑥人民の生命と財産の安全の保障などである。こうして事件の前後処理を目的として発足した二・二八事件処理委員会は、政治改革の推進機関となった。
三月六日、事件処理委員会は「全国の同胞に告げる書」を発表し「このたびの事件を通じ、我々の目標は貪官汚吏の一掃と、台湾の政治改革の実現であり、決して外省人の排斥ではなく、むしろ外省人の政治改革への参加を歓迎する」と述べた。翌七日、事件処理委員会は混乱の中で、四十二カ条からなる「処理大綱」を採択し、ただちに放送を通じて発表された。しかし、翌八日午後に国民党政権の増援部隊が基隆港と高雄港から上陸し、台湾はたちまちにして生き地獄と化した。
《虐殺と粛清》
陳儀行政長官は台湾人の代表である事件処理委員会と交渉し、その要求を受け容れるかのように装う一方、ひそかに国民党政権中央に増援部隊の派遣を要請するとともに、危険人物のリストを作成し、台湾人の大粛清に備えていた。1947年3月8日午後、中国から派遣された憲兵2000名と陸軍11000名の増援部隊は、基隆港と高雄港から上陸し、手当たり次第に台湾人に発砲した。これらの部隊は、先の接収部隊と違って、米国の援助で装備された近代的な部隊であり、武器のない台湾人の抵抗できるところでなかった。
陳儀行政長官は増援部隊の到着を聞くと、ただちに二・二八事件処理委員会を不法組織であるとして解散を命じた。それまでの交渉が嘘のような変わり様で、台湾人に対する無差別の殺戮は基隆と高雄に始まり、台北から屛東さらに東部に転じ、約二週間で台湾全土におよび、台湾人の抵抗は完全に鎮圧された。殺戮には機関銃が使用され、きわめて残酷なものであった。逮捕されても処刑の前に市中を引き回され、処理後は数日間にわたり、市民へのみせしめとして放置された人も多々あった。とても二十世紀に生きる文明人のなせる業とは信じがたい野蛮な手口であり、「祖国」や「同胞」の仕業ではあり得なかった。
市民に対する虐殺の一方、警備総司令部は3月14日に「3月13日までに全省を平定し、即日より粛奸工作を開始する」と発表し、ただちに戸籍調査の名目で、全面的な捜査と逮捕を開始した。「粛奸」の対象は、事件に直接関与した者はもとより、無関係の多くの社会的指導者にまでおよび、危険人物と見られた民意代表、教授、弁護士、医者、作家、教師など大勢の知識人が逮捕された。どうやら長官公署は意図的に、日本教育を受けた知識人を根こそぎ粛清するかのようであった。当時の台湾の知識人を代表する、大学教授の林茂生、弁護士の湯徳章、医師の張七郎父子も、この悲劇に遭った。
……張七郎の妻は当局に真相の追及を要求し、訴冤状の中で「日本の統治は独裁とはいえ、なお呉越同舟が可能であり、法に従いみだりに逮捕したり、処刑したりはしなかった。今日、民主の美名のもとで生命の保障がなく、官憲はしたい放題である。官が法律や綱紀に従わないのに、どうして民に法が守れようか。悲しいかな、夫と息子はなぜ光復以前に死なず、このような清廉潔白の一生を汚されるとは。光復して後に死し、しかも無実の罪で耐えがたい汚名を着せられている」と嘆いている。……台湾の悲劇は、日本統治下で体得した「法治国家」「法の支配」の精神を、国民党政権にも期待し、幻想を抱いたことである。知識人の多くは「治安警察法違反事件」(1923年)を経験しており、政府を批判したり抵抗しても「悪法」とはいえ法にしたがって裁判と処罰を受けている。ところが「祖国」には、「法の支配」の概念のカケラさえなく、ただあるのは、批判や抵抗する者を容赦なく「鉄砲で裁く」ことであった。
台湾人に対する過剰なまでの鎮圧と殺戮は、国際社会とくに米国の厳しい批判を招いた。米国のスチュアート中国駐在大使は4月18日、蒋介石に「台湾情勢に関する備忘録」を手渡し、国民党軍の台湾における非人道的な暴行に厳しく抗議した。この時の国民党政権は、国共内戦で敗色を強めており、米国の援助にすがる状況にあった。蒋介石は米国の意向を無視できず、同月22日に陳儀行政長官を免職し、5月1日に南京に召喚した。
《二・二八事件のその後》
「二・二八事件」に関連して、一か月余の間に殺害された台湾人は、国民党政権のその後の発表によれば約28000人を数える。……日本の五十年間の統治において、武力抵抗で殺戮された台湾人の数に匹敵する。しかも、知識人が粛清の標的であっただけに、台湾人の指導者のほとんどが殺害され、または「粛奸」「清郷」の名で検挙されて、長期にわたり投獄されたため、その後長らく台湾人社会に指導者の空白が生じている。
国民党政権は台湾人の政治改革の要求を正面から対処することなく、虐殺と粛清で封じ、それが外省人と台湾人(本省人)の対立をもたらした。「省籍矛盾」の原点は、ほかならぬ「二・二八事件」である。こうした背景のもとで、台湾人に国民党政権と外省人に対する嫌悪感と台湾独立の志向が芽生え、台湾で許されなかった政治運動や台湾独立運動は、海外で展開されることになった。……逮捕と殺害をまぬがれて海外に逃れた知識人は、廖文毅(1910年雲林生まれ、米国オハイオ大学工学博士)を中心に、「台湾再解放同盟」を香港で結成した。廖文毅らは1948年9月1日、国連に請願書を送り、台湾を国連の信託統治下におき、台湾の帰属または独立を台湾人の投票で決めるよう訴えた。……廖文毅は1950年2月に来日し、同志とともに京都で「台湾民主独立党」を結成、自ら主席に就任し、1956年2月には東京で「台湾共和国臨時政府」の樹立を宣言し、臨時大統領となった。その後廖文毅は、1965年5月に国民党政権に「帰順」し、台湾独立運動に少なからぬ打撃を与えたが、独立運動の先駆者として果たした役割は無視できない。
1960年代になると、世界各国ことに米国への台湾人留学生が急増した。米国各地に台湾独立運動関係の組織があいついで結成され、米国政府や議会に対して、台湾の民主化と独立のための効果的な工作と説得を展開した。このような事情から、海外での台湾独立運動の中心は日本から米国に移り、1970年1月に総本部をニューヨークにおく「台湾独立聯盟」(後に「台湾独立建国聯盟」)が発足した。
●国民党の強権政治
《国民党政権の台湾移転》
中国・南京の国民党政権は1947年4月22日、陳儀行政長官を免職するとともに長官公署を撤廃し、「台湾省政府」を設置、米国に受けのよい外交官の魏道明を台湾省政府主席に任命した。魏道明主席は5月16日に就任し、翌日、戒厳令の解除と「二・二八事件」関係者の逮捕の中止を声明した。しかしこの声明に反して、事件関係者の逮捕と処刑は依然として続けられた。魏道明主席は台湾人を懐柔するため、台湾省政府委員の14名中7名に台湾人を任命した。また、省政府高官にも台湾時を起用したが、それは満洲国における「内面指導」とさして変わらなかった。つまり、満州人の配下にある日本人が実権を牛耳ったように、台湾人高官のもとで、部下たる外省人が実権を掌握したのである。
中国における内戦は国民党の形勢不利が顕著となり、国民党政権は台湾への移転に向けて本格的な準備を始めた。そのために魏道明主席は1948年12月29日に解任され、代わりに蒋介石の腹心陳誠将軍が台湾省政府主席に任じられた。(長男の蒋経国、次男の蒋緯国を重職に着けた)……1949年5月20日には戒厳令を施行した。この戒厳令は、1987年7月15日に解除されるまで、実に40年に迫る世界一長い戒厳令となった。
国民党政権は1947年1月に「中華民国憲法」を布告し、国民大会代表2961名(定数3045)、立法院委員760名(定数773)、監査員委員180名(定数223)からなる三つの国会の、第一期の国会議員を選出した。翌年の三月に第一期の国民大会が招集され、蒋介石を総統に、李宗仁を副総統に選出した。……戦局は益々悪化し、蒋介石の下野を要求する声が高まると1949年1月に、蒋介石は国民党総裁のまま、総統を辞して李宗仁を「代総統」とした。
下野した蒋介石は、その後台湾に渡り、1949年8月に台北近郊の陽明山に「中国国民党総裁弁公庁」を開設し、国民党総裁として、華南一体の国民党政権の「党」「政」「軍」「特」の諸機関を指揮し命令を下した。この頃、頼みの綱である米国政府の国民党政権に対する失望は高まり、8月5日に発表された『中国白書』は、国民党政権の失敗の原因は腐敗と無能にあり、「不信の政権」と断定して、国民党政権を見限ろうとしていた。11月1日、中国共産とが中華人民共和国の建国を宣言し、国民党の敗北はいよいよ決定的となった。(代総統の李宗仁は12月5日に米国へ亡命した)国民党政権は7日に台湾移転を声明した。ちなみに、国民党政権は台湾に移転した後も、一貫して中国共産党の中華人民共和国を認めず、中華民国こそ「唯一の中国」国民党政権こそ「中国の正統政府」であることを固持した。
《朝鮮戦争と米国の軍事保護》
国民党政権に追い撃ちを掛けるかのように、米国のトルーマン大統領は1950年1月5日に、「台湾海峡不介入」を声明した。つまり中国の共産党軍の台湾侵攻に、米国は関与しないことを意味する。この危機に際して蒋介石は三月に「総統復職」を声明し、陳誠を行政長官(首相に相当)に任命した。……米国に見放されようとしていた国民党政権にとって「救いの神」ともいうべき朝鮮戦争が6月25日に勃発した。トルーマン大統領は6月27日に、一転して「台湾海峡の中立化」を声明し、ただちに第七艦隊を台湾海峡の巡行に派遣、中国軍の台湾侵攻を防止するとともに、国民党軍による中国攻撃も阻止した。これより以後、台湾は米国の軍事保護下におかれ、冷戦構造下の西側陣営の一員となる。
1951年1月には、米国政府は国民党政権に対する軍事援助を復活し、翌2月10日に「米華共同防衛相互援助協定」に調印、台湾に軍事顧問団を派遣し、5月には執務が開始された。また1954年12月には「米華共同防衛条約」を締結した。その後、国際情勢の変化により、1979年1月の米中国交正常化を境に、台湾と米国の国交はなくなったが、米国は同年4月10日に「米華共同防衛条約」に代わる、国内法の「台湾関係法」を制定して、台湾を「政治的な実体」と認め、実質的な関係を維持し、台湾の防衛に必要な武器を有償で提供し続けてきた。米国政府と議会は、「台湾は中国の一部」「台湾問題は内政問題」であると主張する中国政府に対し、「台湾問題は平和的に解決しなければならない」と「警告」ともとれるような声明を重ねて発表している。要するに、国民党政権は米国の保護下の台湾で生き延び、体制づくりに専念することができたのである。
《動員戡乱時期臨時条款》
蒋介石が第一期国民大会で総統に選出された当時、就任の条件として、共産党の「反乱」の鎮圧には、憲法を改正して総統に緊急の処分権を認めるか、臨時に憲法に優越する法律を制定するかを要求した。結局、憲法に優越した有効期間を二年とする「動員戡乱時期臨時条款」(以下「臨時条款」とする)が制定され、1948年5月10日に施行された。「動員戡乱時期」とは「反乱団体」である中国政府・中共政権を「戡乱」(平定、鎮圧)するまでの、国家総動員の時期をいう。従って「臨時条款」は時限立法であり、有効期間を二年としたのは、それまでに「反乱」を平定できると踏んでいたからである。
「臨時条款」は、中国共産党の「反乱」の及ばない台湾にも施行された。国民党政権の台湾移転後の1950年5月に「臨時条款」は期限満了となったが「反乱」の平定が実現していないことを理由に延長され、1991年5月に「動員戡乱時期」が終了するまで、43年間にわたり施行されている。つまり国民党政権は、米国の保護下の台湾を非常時の「動員戡乱時期」体制におき「臨時条款」で統治したのである。この「臨時条款」を補強するのが戒厳令であり、また「動員戡乱時期」を冠した約160もの法律や条例であった。いいかえれば国民党政権は中国共産党の「反乱」を口実に、台湾における強権政治を正当化し、統治体制の安定と強化をはかったのである。「臨時条款」は改正を重ね、総統ならびに第一期の国会議員の終身化を可能にし、総統に「緊急処分権」を与えている。
中華民国憲法は「五権憲法」とされ、国民大会に総統の選出と憲法の改正権を付与し、総統のもとに中央政府として五つの機関、立法院(法律制定と改廃、ただし国政調査権はない)、司法院(憲法解釈と各級裁判所を管轄)、行政院(内閣に相当)、考試院(人事院に相当)、監察院(国勢調査と公務員の弾劾)を設けている。「臨時条款」体制のもとで、この中華民国憲法は棚上げされているにもかかわらず、強権政治を隠蔽し、かつ「中国の正統政府」を根拠づける意図から、国民党政権はあたかも全中国を統治しているかのように、台湾移転以前の政府組織を踏襲した。さらに総統の「緊急処分権」に基づいて、国家安全会議をはじめとする、危機管理の「動員戡乱機構」を設けている。これにより蒋介石総統、その後の蒋経国総統を頂点とした国民党の一党独裁体制が可能となり、現実に構築された。
《一党独裁と蒋家の支配体制》
国民党はながらく疑似「レーニン式の政党」をめざし、一党独裁という「以党治国」の体制を整えようとした。それまでの国民党は諸派閥の連合体に過ぎなかったが、台湾移転を前にして党の再生を行い、蒋介石の直系だけで中枢を固め、台湾において蒋介石父子の一元的な支配体制を構築し、「以党治国」を実現した。
1949年5月20日の戒厳令施行を契機に、国民党政権は集会と結社の自由を制限するとともに、新たな政党の結成も禁止した。これがいわゆる「党禁」である。国民党とともに台湾に移転した政党には、「中国青年党」と「中国民主社会党」があり、いずれも国民党から補助金を得て存続する泡沫政党に過ぎなかった。その存在意義は、国民党の一党独裁色を薄めることにあり「便所に飾る花瓶」と揶揄された。「便所」(一党独裁)の「悪臭」を消すことはできなかった。
1949年8月5日に、これまで党の最高権力機関である中央常務委員会を廃止し、新たに蒋経国を含む16名の委員からなる「中央改造委員会」をつけた。蒋介石は、この党の改造を通じて、自らの地位を盤石なものとし絶対的な存在となった。あわせて蒋介石の神格化と個人崇拝の、いわゆる「造神運動」も進められ、台湾各地に蒋介石の銅像が建立された。
蒋介石と蒋経国の父子は権力の掌握に努める一方、後継体制づくりも進めた。蒋経国はソ連に留学し、ソ連共産党員の経歴を持ち、国民党の擬似「レーニン式政党」の実現に大きく寄与している。国民党の性格は共産党とほぼ同じで、革命成就、つまり「三民主義」(孫文の主張する「民族主義」「民権主義」「民生主義」)が、全中国に実現するまで、「革命」を続ける「革命政党」であり、党首に絶対的な権力を集中させた。党首は共産党の政治局に相当する。中央常務委員会の議長であり、中央常務委員会は、党首の意向に沿って、国家の基本政策を決定し、共産党の「民主集中制」と大差はない。また、軍や公営企業などの「特種党部」があり、軍には中隊に至るまでに党の組織がおかれ、政治将校の「政治作戦官」や「指導員」が党の政策遂行と思想指導にあたった。公営企業には企業ごとに党部がつくられ、例えば鉄道局には「鉄道党部」がある。
国民党の組織活動はこれにとどまらず、党中央財務委員会が管轄する特権的な「党営企業」が、あらゆる分野の営利事業に進出しており、台湾最大の企業集団とさえいわれている。このような縦横無尽の国民党の組織網の構築に、蒋経国の果たした役割は大きく、これが蒋経国の後日の権力掌握につながっている。
《屋上屋の行政機構》
中央政府(行政院)と台湾省政府は、明らかに機構的にも機能的にも重複しており、この「屋上屋」の構造ゆえに行政の肥大化、繁雑化ばかりか行政効率の低下を招いている。まさに「石を投げれば役人にあたる」状況にあった。
「屋上屋」の最たるものは、総統の緊急処分権にもとづいて1967年2月に設立された「国家安全会議」である。これは従前の国防会議に代わるもので、総統を議長とし、その決定を行政院に執行させることから、いわば「行政院の上の行政院」である。国民党の一党独裁のもとで、国民党中央常務委員会の決定を執行するのも行政院である。そして国家安全会議のメンバーのほとんどは国民党中央常務委員であり、ともに国家の大政大策の決定機関の構成員であり、その重複ぶりと複雑さはきわまりない。
《国民党と蒋介石父子の軍》
国共内戦に敗れ、台湾に移転した当時の国民党政権は、60万の大軍を擁していた。その中には中国各地に割拠していた軍閥の部隊も含まれていた。そのため台湾移転後、米国の軍事学校出身の孫立人将軍を編練司令官に起用して、台湾南部の鳳山と屛東で、中国からの部隊の再編成と淘汰を行うとともに、台湾で募集した新兵を訓練した。こうして再編成された部隊は、国民党の武力装置となり、「改造」された国民党が蒋介石父子の党となったのと同様に、蒋介石父子に忠誠を尽くす軍隊となった。
朝鮮戦争ぼっ発後、米国は台湾に対して「共同安全保障条約法」に基づき、1951年から1965年の間に15億米ドルの援助を提供し、そのうちの8億米ドルが軍事援助であった。米国の軍事顧問団とともに、日本の元軍人である富田直亮(中国名、白鴻亮)を団長とする、いわゆる「白将軍」の「白団」と称される秘密の軍事顧問団も加わり、国民党軍の装備と訓練を支援した。これらが国民党軍の近代化に資し、台湾での徴兵もあって、戦闘能力は飛躍的に強化された。国民党政権は、中国奪還をめざして「一年準備、二年反抗、三年掃討、五年成功」の「反攻大陸のスローガンを掲げ、長きにわたり喧伝してきた。しかし、いつの間にか「反攻大陸」のスローガンは消え、逆に中国の武力侵略に備える「専守防衛」の国防体制に変わっている。……国民党も共産党同様に、軍人や兵士に対する「政治教育」を徹底しており、国民党と蒋介石父子の「私兵」となったため、国民党政権への批判勢力を敵対視していた。
国民党政権は中国政府に見られる陰湿な「秘密警察政治」を台湾に持ち込んだ。秘密警察と「密告」は不可分であり、保身のために親子や夫婦、兄弟、親戚の間でさえ密告を惜しまない。国民党の強権政治のもとで、台湾人同士が互いに疑心暗鬼に陥り、これまた国民党の台湾統治に大きく資している。
国家安全局は部外者の出入りはもとより、報道関係者も正門からの撮影以外は許されない。歴代の局長はすべて軍人、それも大将で占められ「台湾のKGB」つまり「TKGB」の異名もある。国家安全局が「安全資料」を集中管理する。その徹底ぶりは、まさに「天羅地網」といえ、国家の治安情報活動に名を借りて、内外の台湾人の政治活動や思想を監視して、国民党政権や国民党に対する批判者を摘発し、しばしば公開の裁判もなく断罪した。
「二・二八事件」以後、台湾に監視と摘発の「天羅地網」を張りめぐらせた国民党政権は、改革の要求や強権政治の批判、反体制運動に対し、「中国共産党に通じた」「中共のスパイを隠匿した」「政府転覆を陰謀した」などの罪名で、容赦なく弾圧した。それにとどまらず、批判や抵抗をする異議分子の抹殺の為に、罪の捏造も多々行われた。
●奇跡の掲載発展
《幣制改革と土地改革》
「流亡政権」といわれる国民党政権が、台湾で生き延びるには、政治の安定と経済の再建を急ぐしかなかった。そのため国民党政権は、一党独裁の強権政治体制を構築する一方、経済の再建と復興を最優先させた。これがいわゆる「開発独裁」である。そして経済の再建と復興にとどまらず、「奇跡」といわれるほどの成長を成し遂げた今日、台湾の「開発独裁」は「台湾経験」(台湾モデル)として、途上国の範とされている。
国民党政権に接収された台湾は、行政長官公署の人為的な失政に加え、国共内戦の影響により経済的な混乱を深めて危機的な状況を迎えた。なかでもインフレの昂進はすさまじく、1945年から5年間に、物価上昇は一万倍にも達している。日々刻々と進むインフレは、経済活動を混乱させ、市民生活を容赦なく圧迫した。その上に、国民党政権とともに官吏や軍人、その家族ら約150万人が台湾に移り住み、消費人口は一気に膨れ上がり、ますます台湾経済を窮地に陥れた。
中国共産党関係者の潜入を防ぎ、かつ人口の過剰流入を抑制するため、警備総司令部は、1949年2月から港や河口を封鎖、海岸線も管制下におき、許可された者以外の台湾入境を認めなかった。さらに同年6月15日には、中国と台湾の貨幣の関係を断ち、従来の40000台湾元を一新台湾元とする、デノミネーションを断行した。
国民党政権は台湾移転を前にした1948年4月に、台湾の土地改革つまり「三七五減租」を断行した。「三七五減租」は従来、地主は小作人から収穫物のおよそ50%の小作料をとっていたが、これを37.5%以下に引き下げさせたものである。土地改革は、国民党政権にとって、まさに「元手いらず」の改革であった。それがほとんど地主の抵抗なく実現できたのは、「二・二八事件」以後、ほぼ強権政治体制が整っていたからで、つまり「鉄砲で口を封じた」に等しい。しかも「公地放領」の為の土地も、地主に支払う公営企業の株式も、「敵産」として日本から引き継いだものであった。
国民党政権は土地改革で農民に恩恵をほどこす一方、農民から収奪も行った。1945年10月に、かっての台湾総督府食料局や食糧営団などを「台湾省糧食局」に統合して、軍や官吏とその家族らの食料を確保とインフレによる損失を農民に転嫁するため、1946年の第二期収穫時から、地租を物納をした。1947年7月から、政府による強制的な買上げが始まり、その価格は市場価格の半額程度であった。
1948年9月には、化学肥料と米穀の交換制度が導入された。化学肥料は公営の台湾肥料公司の独占生産と、行政院に属する中央信託局の独占輸入のもとで、農民は一対一の比率で、化学肥料と米を交換させられた。農民のこうむる不当価値交換による損失は、略奪に近いものであった。……農民への収奪は、土地改革で与えた利益を吐き出させるものであった。
《経済発展の要因》
国民党政権が日本から台湾を接収した直後から、朝鮮戦争の勃発までの約五年間、台湾経済は混乱をきわめた。しかし、朝鮮戦争を機にしての「台湾海峡中立化」により、台湾と中国の関係が断たれた事で、台湾は疲弊した中国経済の桎梏から解放され、国民党政権は台湾の経済再建と復興に専念することができた。そして「奇跡」といわれるほどの経済成長を成し遂げたが、それにはいくつかの要因があった。
まず指摘したいのは、肥沃な土地と勤勉な住民である。……加えて「二・二八事件」の虐殺と粛清が、国民党政権支配下の台湾人を政治離れと経済志向に導いた。その結果、台湾経済は、台湾人の経営する中小企業が支えた。
日本から受け継いでいる「遺産」もある。……台湾は日本の五十年におよぶ植民地支配を受けたが「植民地下の近代化」も果たしている。1935年に催された「台湾施政40周年記念大博覧会」を機に、台湾を視察した国民党政権支配下の福建省と厦門市の幹部が『台湾考察報告』の中で、台湾の状況を絶賛している。日本帝国主義の厳しい批判者によるこの報告は、台湾の「植民地下の近代化」に対する、最も注目に値する「証言」といえる。日本が放棄した当時の台湾は、すでに工業化社会の戸口に到達しており、太平洋戦争中の米軍による爆撃で、若干の破壊はあったが、50年間に築かれたインフラの整備、産業の振興と教育の普及など、同じように植民地支配を受けて独立した開発途上国の比肩できるところではない。
米国の援助と日本の借款供与も大きく資している。……米国は1951年から1965年までの15年間、総額にして15億米ドルの援助を提供した。……米国の援助が1965年6月に終わるため、国民党政権は4月に日本政府と1億5千万米ドル相当円借款の協定を結んだ。この円借款は金額において米国の援助と比較にならないが、援助の停止を補うと同時に、台湾経済と日本経済の緊密化をもたらした。
国民党政権の危機意識も見逃せない。……台湾に逃れ「背水の陣」に立つ国民党政権は、遮二無二生き残るための方途を模索した。危機意識が、強権政治を招来させた弊害は否めないが、経済発展を促したことも事実である。危機意識が生み出した、最も成功した例に1965年に創設した、保税加工区である「加工出口区」(加工輸出区)がある。加工輸出区では税制の優遇、行政手続きの簡素化、為替管理の緩和と国外送金の保障などの優遇措置がとられ、輸出向けの製品を生産するもので、外貨の獲得、国民の雇用機会の増大、外国資本の導入と技術の移転、国内産業の育成などに大きく寄与した。
文化大革命も影響を及ぼした。……「台湾解放」の機会を虎視眈々と狙っていた中国政府・中共政権は、1966年からいわゆる「10年の内乱」である文化大革命の嵐に翻弄され、台湾を顧みる余裕がなかった。文化大革命は台湾人はもとより、外省人にも中共政権への認識を新たにさせたが、台湾経済にとっても影響を及ぼし、この間に著しい成長を遂げた。
外国資本の導入も要因の一つである。……戦後の台湾経済発展には、外国人および在外中国人である華僑の投資も貢献している。国民党政権は1954年に「外国人投資条例」翌年に「華僑帰国投資条例」さらに1960年には「投資奨励条例」を施行して、外国資本の招来を奨励した。これらの条例は外国人や華僑の投資に、税制上および工業団地の取得についての優遇措置を保証している。このため1960年代から、外国資本の参入が急速に増加した。日本や欧米の投資は台湾産業に技術移転の効果をもたらし、華僑資本は台湾の企業の競争力を強化させている。そしてともに台湾製品の海外市場の開拓に先導的な役割を果たした。
《経済発展の軌跡》
1950年代は1960年代の高度経済成長の準備期間。1960年代…物価の上昇率は4.9%の低水準となり、いわゆる「インフレなき高度成長」を達成した。
1973年には「10大建設」が始動し、インフラの整備拡張と重工業化の基幹産業の建設が進められた。1973年と79年の二回の石油危機に見舞われ、経済成長率に大きな振幅が見られた。しかし台湾の経済成長に、石油危機は大きな影響をおよぼさなかった。その背景には、産油国とくにサウジアラビアとの友好関係と、円高によるメリット、1960年代後半から続くベトナム戦争の「特需」にめぐまれた事があった。…概して1970年代は、高度成長の成果を基盤に、輸出志向工業から重工業化へ移行する端緒についたと言える。
1980年代…台湾経済は米国経済に連動しており、言い換えれば米国のマーケットに大きく依存している。…80年代に特徴的なのは、ハイテク産業の育成に重点がおかれた事である。…コンピュータ、電子部品、コンピュータ・ソフトなど情報処理産業と、精密機械、農業機械、自動車部品、電気器具などの機械産業が、戦略的な産業として選定され、政策的に奨励された。90年代はハイテク産業を軌道に乗せ、技術先進国に伍すだけの競争力の確保を目指している。
《台湾経済の問題点》
順調かのように見える台湾経済に問題が無いわけではない。その一つは過度の輸出依存、とりわけ米国のマーケットに対する依存である。…台湾は1980年代以降、賃金の上昇と国際貿易の停滞、開発途上国の追い上げなどで輸出が低迷した。また、台米貿易の不均衡から、是正を求める米国の圧力が強まり、輸入の自由化、関税引き下げ、サービス産業の開放、知的所有権の保護などの要求を突き付けられ、台湾元の切り上げをやむなくされた。
中小企業が経済の担い手であることも問題である。……概して中小企業は①生産性が低い②規模が小さく、資金力が弱い③設備投資や技術革新の余裕がない④同族経営が多く、優秀な人材の確保が難しい⑤株式市場での資金調達が少ない⑥市場調査能力に欠け、販売力が弱いなどの弱点を抱えている。これらの弱点は、そのまま台湾経済の弱点ともいえる。
日本の「下請け構造」も深刻な問題である。……台湾の輸出製品の部品や原料の80%までを日本から輸入しており、台湾の輸出が増大すれば、対日貿易赤字も増大するため、輸出に依存する台湾経済は、まさに日本の「下請け構造」になっている。…日本の通産省は台湾に対する貿易黒字を縮小する為に、台湾にハイテク産業の移転を推進し、製品を日本に還流させる「ブーメラン効果」を期待している。しかしながら、ほぼ固定化したこの「下請け構造」は、そう容易には改善されそうにない。
外交的な孤立の影響も大きな問題である。……国民党政権は「中華民国(台湾)は唯一の中国」「中華民国政府(国民党政権)は中国の正統政府」の虚構を堅持している。1971年10月に中華人民共和国(中国)が国連に復帰したのを契機に、日本を含め国際社会のほとんどの国々が、雪崩を打ったように中国と国交を結び、中華民国(台湾)と国交を断絶した。最も頼りにしていた米国も、1979年1月に中国と国交を正常化し、台湾と断交した。台湾と断交した国々の多くは、台湾との間に非政府間の関係を維持しており、例えば日本の場合は、台湾に「交流協会」の事務所を、台湾は日本に「亜東関係協会」の代表処をおいて、実質的な交流を行っている。しかし、経済活動の多くを貿易に依存している台湾にとって、日本や米国はともかく、国交がない国との経済交流には、多くの障害がつきまとう。輸出先への渡航ビザを取得するのに、どれほどの苦難を強いられるかは推して知るべしであろう。1971年以来のこの20余年間に、台湾はこのような悪条件のもとで国際貿易の推進に努め、世界第13位の貿易国家に成長した事は称賛に値する。とはいえ外交的な孤立が続く限り、台湾の経済はその影響からまぬがれない。
対中国貿易の増大傾向も将来に問題をはらむ。……1980年代にいたり中国との敵対関係は改善に向かい、1987年11月からは、台湾住民の中国旅行ができるようになった。これにともない中国への投資も活発化し、香港を介しての中継貿易は年を追って拡大されている。…1992年の香港経由の対中貿易黒字は、136億4000万米ドルに激増しており、この黒字がなければ同年における台湾の貿易収支は赤字になったはずである。このような状況を見る限り、もはや中国に対する「交渉せず、妥協せず、接触せず」の「三不政策」は意味を失ったも同然である。しかし、米国で失った台湾製品のマーケットの代わりとしての中国のマーケットは魅力的ではあるが、中国政府は「台湾は中国の一部」であり、いずれは「統一」すると主張している。このような中国マーケットに過度に依存する事は、台湾経済が中国に左右され、中国経済に飲み込まれる危険性をはらんでいる。明らかに中国政府には、台湾製剤を中国依存に仕向ける意図がうかがえ、当面は経済的な緊密化をはかり、将来的に政治的な「統一」を目指している。
●急テンポで進む民主化
《台湾関係法》
軍事的にも経済的にも長らく米国の「保護下」にも等しい協力関係にあった台湾にとっり、1979年1月の対米断交は最も大きな打撃であった。しかし、米国政府は国交は断絶したが、必ずしも台湾を見捨てたわけではなかった。米国政府は同年4月に過去の「米華共同防衛条約」に代わる、国内法の「台湾関係法」を制定した。この国交を断絶した国を対象とする法律は、実質的な関係を維持するためとはいえ、きわめて異例の事であり、外交史または国際政治史の初の試みといえる。
「台湾関係法」は18カ条からなり、国民党政権よりも「台湾住民」と米国の関係に重点をおいている。その適用範囲は台湾ならびに澎湖列島とされ、国民党政権が支配している金門と馬祖にはおよんでいない。また「台湾統治当局」とは、現に台湾を統治している国民党政権と、それを継承する統治当局を指すと明確に記している。これらのことから米国政府は、金門と馬祖は台湾の版図に含まれないとの認識に立ち、国民党政権の後継政権を視野に入れ、後継政権のもとでもこの法律を適用させる意図があることは明らかである。
「台湾関係法」は、かっての「米華共同防衛条約」に完全にとって代わるものではなく、国内法ゆえに米国や台湾に対する拘束力も弱いが、広範な課題が盛り込まれている。その主な物には、①西太平洋地域の平和と安全、および安定の維持②台湾との各種の関係の維持、③台湾問題の平和的解決、④台湾に対するボイコットと封鎖の排除⑤台湾に対する防衛的な武器の供与⑥台湾に対する武力行使と圧力の排除⑦台湾住民の人権の擁護、などがある。これからも分かるように「台湾関係法」は、中国の台湾に対する武力侵攻と、国民党政権による台湾住民の人権抑圧を念頭においている。「台湾関係法」の第二条のC項には「全ての台湾住民の人権を守り、かつこれを促進する合衆国の目的をここに改めて表明する」と記されている。これを受けてレーガン大統領が、1985年8月に署名した「外務授権法」には「台湾における民主主義」の項目がもうけられている。それには「台湾における民主化運動のいっそうの発展は、米国が台湾関係法で規定されている道義的、法律的な義務を継続するための支えとなる……台湾関係法の精神にもとづき、その目的に向かって、台湾が力強く前進するよう、米国は台湾当局に勧告する」と強い調子で明記されている。このいずれも、後日の台湾における民主化に大きく寄与している。
台湾と米国は国交関係はないものの、米国は「台湾関係法」で、台湾を主権国家に準ずる「政治的な実態」としても認め、防衛に必要な武器を提供するばかりでなく、経済的にはそのマーケットを開放してきた。また、米国は台湾と中国の関係についても、1989年7月に上院で「台湾の前途に関する決議」を採択し、「台湾の前途はいかなる脅威も受けず、かつ台湾住民の受け容れられる方式で解決しなければならない……米国と中華人民共和国の関係は、中国政府が台湾に対する武力脅威を放棄するか否かに関わっている」と述べている。国際社会で孤立を余儀なくされている台湾、特に国民党政権にとり、米国こそは頼みの綱であり、民主化の要請は無視できなかった。
《野党の結成と戒厳令の解除》
1970年代にいたり「二・二八事件」以後に成長した台湾人指導者は、国内では「国民党以外」を意味する「党外人士」として民主化運動を推進し、外国では在米や在日のもと留学生を中心に、国内の民主化運動を支援するとともに、台湾の独立運動を展開した。在米の台湾人は台湾問題に関して、恒常的に米国議会へのロビー活動を展開し、米国議会も「台湾関係法」などにもとづいて、公聴会を開くなど支援の姿勢を見せた。これがまた台湾の党外人士への励ましとなった。1979年12月10日の国際人権デー記念集会を反乱罪で弾圧した「高雄事件」1981年7月に帰国中の米国カーネギー・メロン大学助教授殺害の「陳文成虐殺事件」1984年10月の米国籍作家殺害の「江南殺害事件」などの、台湾人に対する目に余る抑圧と殺害は、米国市民の怒りを惹き起し、親国民党政権のレーガン大統領をも批判に駆り立てた。内外の台湾人のたゆまぬ努力と、これらの事件の衝撃もあって、米国市民および議会の理解と支援が高まり、台湾の民主化の大きな推進力となった。
1986年5月に米国議会上下両院の有力議員5名(ペルー、ケネディー、ソラーズ、リーチ、トリセリ)が、国民党政権の政治改革を促す「台湾民主化促進委員会」を結成し「米国が安全を保障している台湾には戒厳令は不要」と指摘して、戒厳令の解除を呼びかけ「国民党政権が民主化を怠れば、より厳しい解決方法を台湾にもたらすことになろう」と警告した。さらに6月には下院のアジア太平洋小委員会と人権小委員会が「台湾民主化決議案」を可決し、国民党政権に対して①新政党結成の容認②検閲制度の廃止と言論、集会、結社の自由の保証③完全な議会制民主主義の実現を要求した。そしてついに9月28日、台北の円山大飯店に135名の発起人が集まり、戦後はじめての野党「民主進歩党」(以下「民進党」)が結成された。戒厳令にもとづく「党禁」を無視しての民進党の結成に、国民党の対応が注目されたが、「民進党は『不法』組織ではあるが『非合法』組織とは断定しない」と自らを納得させるような法解釈を下して、野党の結成を認めた。
民進党は結党間もない1986年11月10日に、第一回の党員大会を開き、党綱領や規則を採択した。そのなかで①戒厳令の解除②国会の全面改選③憲法を形骸化させている『臨時条款』の廃止④台湾の将来を住民自決、つまり台湾住民による自由、自主、公平な方式で決定する⑤国民党の軍隊から国家の軍隊に変える。などを掲げている。そのため国民党政権は、民進党を「台湾独立党」と決めつけ、苛立ちを隠さなかった。
……内外の台湾人の民主化運動と、米国議会と政府の圧力のもとで、国民党政権はついに1987年7月15日、38年間も施行し続けてきた戒厳令を解除し、代わりに「動員戡乱時期国家安全法」(以下「国家安全法」)を施行した。…国家安全法の第二条には「人民の集会と結社は、憲法に違反し、あるいは共産主義を主張し、又は国土の分裂を主張してはならない」と定めている。憲法は「臨時条款」で棚上げ状態にあり、台湾人には共産主義者は皆無に等しいことから、この第二条の眼目は明らかに「国家分裂」つまり台湾独立の主張を禁ずることにあった。しかし、1980年代の台湾は、経済成長とともに市民の権利意識も高まっており、戒厳令下でさえ民主化や台湾独立の主張が公然と唱えられており、国家安全法ではその流れを止めることはできなかった。
《李登輝の総統と党主席就任》
1988年1月1日、長らく新たな日刊新聞の発行を禁じた「報禁」が解除された。続いて1月13日午後、最高権力者の蒋経国総統・国民党主席の突然の死が報じられた。そして憲法の規定に従い、副総統の李登輝が総統に昇格した。これは台湾史上初めて、台湾人が国家元首の地位についたもので、多くの台湾人は無条件に李登輝の総統就任を歓迎するとともに、その施政に期待を抱いた。しかし、台湾に移転して以来、国民党政権は蒋介石・蒋経国父子を頂点に、外省人が掌握する「党」「政」「軍」「特」の「四頭馬車」体制であり、台湾人の李登輝が、いかにこれを統御するかが注目された。
李登輝の総統就任にはなんらの問題もなかったが、国民党主席への就任には強い反対があった。党が国家の上位に立つ国民党政権にとり、党主席の地位は国家元首の総統を凌駕しており、容易く台湾人に明け渡すことはできなかったからである。
蒋経国は李登輝を副総統に登用したものの、後継者とまでは考えていなかった。台湾人口の86%を占める台湾人に対する妥協の必要から、副総統に台湾人を起用したもので、いわば「お飾り」の副総統であった。李登輝が登用されたのは、自らも認めるように「真面目で誠実」な人柄を認められてのことであったが、野心家でないとして「安全度」が買われてのことだった。蒋経国の意に違えて李登輝が総統に昇格したのは、その急死ゆえの結果であった。従って蒋介石の未亡人である宋美齢と、外省人の長老を中心とした党内勢力は、李登輝の総統昇格はやむを得ないとしても、党主席の就任には反対であった。「総統と党主席の分離」を主張し、李登輝を「ロボット総統」にしようとした。ところが蒋経国死後の台湾の政治環境は、台湾人勢力の台頭が著しく、李登輝をロボットにすることを容認する状況になく、国民党は1988年7月の第十三回党員代表大会で、李登輝を党主席に選出した。
李登輝は1923年1月、日本統治下の台湾・台北県三芝郷に生まれた。京都帝国大学農学部経済学科に在学中に学徒出陣。戦後は台湾大学に復学して1948年に卒業。1952年に米国アイオワ州立大学に留学。1965年米国のコーネル大学に留学し「台湾における農業と工業間の資本の流れ」と題する論文で、農学博士号を取得した。この論文は1968年度の全米最優秀農業経済学会賞を受け、李登輝の政治家への道の布石となった。1971年蒋経国に台湾農業問題を報告し、深い印象を与えた事が契機となって国民党へ入党した。1972年行政院の政務委員(国務大臣に相当)に起用された。1978年6月に台北市長。翌年には国民党中央常務委員に就任した。1981年12月に台湾省政府主席となり、84年3月に第七期総統の蒋経国のもとで、副総統に選出された。李登輝は学者の道を歩み、48歳にして国民党に入党し政治家に転身、65歳で総統と党主席の座についた。
李登輝には「優れた学者」「敬虔なクリスチャン」「大器晩成の政治家」「思慮と執念の人」などの評がある……二度も「民主主義のメッカ」とされる米国に留学、この間に黒人解放運動指導者のキング牧師の暗殺事件に遭遇し、深い衝撃と影響を受けたといわれている。
李登輝は総統に就任するまでは、国民党政権下の殆どの台湾人政治家と同様に事故を主張せず、従順な姿勢を示してきた。しかし、台湾人である上に党歴も浅く、総統と党主席に就任したものの「党」「政」「軍」「特」を掌握していないとはいえ、決して党内の外省人長老が期待する「ロボット」には甘んじなかった。台湾人の絶大な支持と期待を支えに、障害を克服しながら一歩一歩その政治信念を実現して行った。
《李登輝の民主化改革》
これまでの李登輝の政治スタイルを観察して、その政治信念を集約すれば、①党が国家の上位にあってはならない。②軍は「党の軍」ではなく、「国家の軍」でなければならない。③民主政治は政党政治であり、一党独裁であってはならない。④国際社会で孤立してはならず実務外交を推進すべきである。⑤中国政府・中共政権と対立してはならない。⑥政治犯の存在は政治的な開発途上国であり、民主国家の恥辱である。ということにつきよう。これらが台湾に実現すれば、それこそ「流血なき革命」である。しかしながら皮肉にも、李登輝が自らの政治信念を実現するには、権力が党首に集中する非民主的な「革命政党」の国民党主席として、強権を発動しなければならず、自家撞着を余儀なくされるのである。
李登輝は1989年3月に、総統としてシンガポールを公式訪問した。この時シンガポール政府とあらかじめ打ち合わせ「中華民国の総統」ではなく、「台湾からの総統」の表現が用いられた。これについて李登輝は、新聞記者の質問に「不満ではあるが受け容れる」と答えている。また、同年五月に北京で開催されたアジア開発銀行の年次総会に、現職の財務部長を団長とする代表団を派遣、この時の開会式で団長は、中国の国歌演奏に起立して敬意を表した。この「台湾からの総統」は、国名にこだわらない「実務外交」を、「中国の国家に敬意」は、「中国と対立しない」ことを政治信念とする、李登輝外交の始動と、対中関係の改善の兆しをうかがわせるものであった。
1990年2月、国民党の内紛から「流産した政変」の影響を受けて、総統と副総統を選出する機関であり無改選の「万年議員」で占められた国民大会代表は、このときとばかりにお手盛りの待遇改善を採択した。これに反発した市民や学生が、抗議のデモや座り込み、ハンガーストライキを行ない、台湾ではじめて「全国学生運動聯盟」が組織された。
学生らの行動が「台湾の天安門事件」に発展することを懸念して、李登輝は3月21日に学生代表と会見し、①国民大会の解散②超党派の「国是会議」の開催③動員戡乱時期の停止と臨時条款の廃止④総統の直接選挙の実施⑤政治改革の日程表の提出を約束した。李登輝はこの市民や学生の国民党政権批判と改革要求を利用して党内の反対を封じ、自らの発言力を強めて行った。そして5月20日に第八期総統に就任すると、ただちに政治犯に対する大規模な特赦を行なった。
1990年6月には総統府主宰で、国家のあり方を討議する「国是会議」が開催された。10月には総裁の諮問機関として、超党派の「国家統一委員会」が総統府につけられた。それは李登輝の民主化が「台湾化」につながり、台湾独立または国民党政権の独立、つまり「対独」と「国独」を警戒する、党内の保守派と中国政府に対する配慮である。民進党はこの委員会が「統一」を標榜していることに反発、民進党の「住民自決」の主張に反するとして、10月の第四回党員代表大会で「台湾の主権は中国と蒙古におよばない」の決議案を採択して抵抗した。また、司法院大法官会議(憲法の解釈機関)は同月、「第一期の国会議員(国民代表、立法委員、監査委員)の任期は、1991年末まで」とする「解釈」を下した。大法官会議の解釈は、国民党改革派の政策を反映したものであり、「万年議員」の終焉を予告は国会の全面改選を意味し、民主化への前進であった。
1991年4月にいたり、「万年議員」を中心とする第一期国民大会の臨時会議が招集され、憲法の一部を改正して「戡乱機構」の国家安全会議や国家安全局などを合法化した上で「臨時条款」の廃止を決議した。これを受けて李登輝総統は、5月1日を期して「動員戡乱時期」を終了し、「臨時条款」を廃止することを声明した。これにより台湾の非常時体制は解除され、また、中国政府・中共政権は「反乱団体」ではなくなり、これ以後は中国政府を「大陸当局」または「中共政権」と称するようになった。
同年八月には、軍籍を離れた郝伯村行政院長が、たびたび軍事会議を招集したことから、李登輝は三軍司令官に対する「統帥権干犯」として、重要な職務にある将軍八名を総統府に招き、「軍人は国家の生存と国民の利益を守り、国家と国民にのみ忠誠を尽くし、特定の団体や個人に奉仕するものではない」と訓示した。これは暗に郝伯村を牽制するばかりでなく、軍人の政争介入を戒めたものである。さらには新聞紙上で訓示の内容を公表し、軍は党や特定の個人の軍ではなく、国家と国民の軍であることを強調し、これまでの「党の軍」「蒋家の軍」の一掃をはかった。はからずも翌九月に蒋介石未亡人の宋美齢が台湾を去り、米国に居を移した。これは蒋一族が台湾の政治舞台から去ることを意味した。そして12月末には、国民党政権の正統性の根拠とされ、四十余年来無改選の第一期の国民代表、立法委員、監査委員のいわゆる「万年議員」の生き残り、合計565名の退職が実現した。
1992年12月には、台湾史上初めての総選挙といえる、第二期立法委員161議席の占拠が行われた。民進党は52議席を獲得して「勝利宣言」をし、国民党は103議席にとどまり、「敗北」を認めた「勝利」と「敗北」は、政権の交代をもたらすものではなく、「象」(国民党・党員250万)「蟻」(民進党・党員4万)の勝負を総合的に判定してのことである。ともあれ台湾における初の総選挙は「外来政権」とされてきた国民党政権に、初めて台湾統治の正当性を与えたことになり、その意義はきわめて大きい。
民主化の推進とその結果である「台湾化」は、外省人を排斥するものでなく、李登輝政権のもとでは人口に反比例して、外省人が多く起用されている。多くの外省人が李登輝の民主化と「台湾化」に協力的なのもそのためである。李登輝が総統・党主席に就任して以来、国民党政権も国民党も「台湾化」の速度を速めている。それに抵抗する国民党保守派は、李登輝は「台湾独立」または、中華民国(台湾)を中国から分離する「国独」を推進しているとして、中国政府の干渉に期待をこめて非難する。これは国民党の内紛にとどまらず、中国政府に干渉の口実を提供するものにほかならない。
共産党の一党独裁を堅持する、重症の「民主恐怖症患者」の中国政府にしてみれば、民主化は恐るべき「洪水猛獣」であり「台湾化」は「台独」または「国独」への道と映る。李登輝の民主化には当然ながら批判的であり、その「国家統一」の主張にも懐疑的で、なにかにつけて「武力侵攻による統一」で台湾を恫喝する。これは台湾の民主化の阻害要因であると同時に、貿易力の整備と維持のための多額の軍事費を強い、経済発展のブレーキとなっている。もっとも武力恫喝の一方、中国政府と国民党政権はそれぞれ、いわゆる「民間」の「海峡両岸関係協会」と「海峡交流基金」を通じて、現実的な接触を展開している。
《あとがき》
……日本の統治下の台湾に生まれ、国民党政権の統治下で16年間にわたり教育を受けた私は、日本に留学するまでついに台湾の歴史を学ぶことはなかった。国民党政権が「台湾人が台湾の歴史を知ることを歓ばなかった」からである。台湾人に台湾の歴史を学ぶことが許されたのは、民主化が進展するなかの最近のことである。
1895年に始まる日本の統治時代には、後藤新平の「生物学的植民地経営」にもとづく旧慣調査の一環として、台湾の史料調査と整理も行われ、台湾総督府は1929年から『台湾関係史料』を刊行している。1945年に始まる国民党政権の統治においては、台湾関係史料の整理どころか「中国唯一の正統政府」を固持し、その台湾支配を正当化するために、「台湾は中国の固有の領土」であると教え、台湾の歴史を恣意的に歪めてきた。台湾において永らく台湾史の研究と教育が阻害されてきたのは、政権の正統性の矛盾を衝かれることを警戒したからにほかならない。このような状況のもとで、戦後の台湾史の研究はほとんどが外国、なかでも日本に留学した人々の手によってはじめられたといっても過言ではない。日本には台湾史研究のための史料や資料がもっとも多く保存されていたからである。ちなみに私が来日して早々、古本屋で手にした故伊能嘉矩先生の名著『台湾文化志』(全三巻、刀江書院)もその一つで、そのときの驚きと感激は今なお鮮やかに甦るほどにつよいものがあった。……
小著がたどった400年に近い台湾の変遷を振り返ってみれば、ことに半世紀におよぶ日本の統治は、善きにつけ悪しきにつけ、今日の台湾の基礎を築き上げたといえよう。少なくとも台湾は、日本の統治で「植民地下の近代化」を成し遂げたことは事実であり、わけても教育制度の整備と普及は、大書特筆すべきものである。国民党政権が台湾を「接収」すると同時に、義務教育を施すことができたのもその恩恵といえる。
もとより私には、日本の台湾における植民地支配を美化する意図は毛頭ない。台湾を支配した大日本帝国は「慈善団体」ではなく、その植民地経営が「慈善事業」でないことは当然であり、「植民地下の近代化」も日本の「帝国主義的な野心」に発したものである。しかし「植民地支配は悪」の観点からすれば、「植民地下の近代化」は否定され、それを肯定するような見解には、「反動」のレッテルがつきまとう。ひと頃、日本の植民地支配の批判には、形容詞のように「帝国主義」が用いられ、大量に使用する傾向があった。台湾の歴史は「外来政権」の支配の歴史であり、物理的な武力装置による「帝国主義」支配の歴史でもある。それゆえに私は、日本の台湾統治における「植民地下の近代化」を強調するのである。日本の台湾統治に対して最大級の賛辞を呈したのは、ほかでもない中華民国政府(国民党政権)が、1937年に刊行した『台湾考察報告』なる報告書である。この報告書は1935年に台湾総督府が「始政40周年記念博覧会」を催したとき、当時の国民党政権が台湾に視察団を派遣し、博覧会はもとより日本統治下の台湾の施政を、12項目に分けてつぶさに視察した記録である。ちなみに、この報告書は日本でも台湾でもなく、米国のコーネル大学図書館に保存されている。
『台湾考察報告』があるにもかかわらず、戦後、国民党政権は日本の台湾統治を否定し、日本による教育を「奴隷化教育」ときめつけている。台湾人に対する虐殺と粛清である1947年の「二・二八事件」は、この「奴隷化教育」による知識人の一掃をはかったものであり、公的な発表でも28000人が殺害された。今日、国民党政権による公式な謝罪こそないが、民主化の流れのなかで、犠牲者への国家賠償条例の制定と責任の追及がなされようとしている。そして、この「二・二八事件」をはじめ、国民党政権が恣意的に歪めてきた歴史の書き換えも始まろうとしている。いずれ日本統治の台湾史における位置づけも変わり、「植民地下の近代化」にも光があてられるであろう。
小著は日本人の読者を対象にしているからといって、日本の台湾支配に対する批判を避けたり、遠慮もしていない。ひたすら日本の読者に「台湾」を紹介することを心がけたつもりである。……